「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」記事一覧~マルクスは宗教的な現象なのか、時代背景と思想形成から考える
「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」記事一覧~マルクスは宗教的な現象なのか、時代背景と思想形成から考える
今回の記事では「マルクスとエンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」シリーズと題して紹介してきた全69回の記事をまとめていきます。
これらを読めばマルクスとエンゲルスの思想が生まれてきた背景をかなり詳しく知ることができます。 そしてこれはマルクス・エンゲルスを知るだけではなく、宗教、思想、文化、政治、いや人間そのもののあり方についても大きな示唆を与えてくれることでしょう。
そしてこの記事を始めるにあたり、まず前提としてなぜ私がマルクスを学ぶようになったのかということをお話しした記事を紹介し、それに関する記事も以下に掲載していきます。
それらを全て合わせると70記事以上の大所帯になりますが、このシリーズの目次としてこの記事を利用して頂けましたら嬉しく思います。
では、始めていきます。
マルクス主義者ではない私がなぜマルクスを学ぶのか
マルクスは宗教を批判しました。 宗教を批判するマルクスの言葉に1人の宗教者として私は何と答えるのか。 これは私にとって大きな課題です。
私はマルクス主義者ではありません。
ですが、 世界中の人をこれだけ動かす魔力がマルクスにはあった。それは事実だと思います。
ではその魔力の源泉は何なのか。 なぜマルクス思想はこんなにも多くの人を惹きつけたのか。 そもそもマルクスとは何者なのか、どんな時代背景の下彼は生きていたのか。 そうしたことを学ぶことは宗教をもっと知ること、いや、人間そのものを知る大きな手掛かりになると私は思います。
マルクス主義とは何か、その批判と批判への反論をざっくり解説
この記事では改めてマルクス主義というのはそもそも何なのかということを見ていき、それへの批判と批判への反論も見ていきます。
歴史家E・H・カーによるマルクス主義への見解
E・H・カーはこの伝記においてマルクスの『資本論』における問題点を指摘していきます。
そして有名な「剰余価値説」や「労働価値」などの矛盾点を取り上げ、そうした問題点がありながらもなぜマルクスはここまで多くの人に信じられているかを分析していきます。
経済学や思想、イデオロギー面だけではなく、世界全体との関わりという視点からアプローチするのは、歴史家たるE・H・カーならではの一歩引いた視点と言うことができるかもしれません。
歴史家トニー・ジャットによるマルクス主義への見解
世界的な歴史家トニー・ジャットは「マルクス主義は世俗的宗教である」という決定的な言葉を述べます。
その理由は記事内で述べる通りですが、マルクス主義は宗教的な要素がふんだんに取り込まれており、それがあるからこそマルクス主義が多くの人に信じられたという見解が語られます。
マルクスとフロイトの共通点とは
マルクスとフロイトは人間の過去・現在・未来の物語を提供しました。 その救済的な物語があったからこそ多くの人々を惹きつけたとトニー・ジャットは語ります。
そして彼らの語る物語が本当に正しいか正しくないかは問題ではありません。 人を惹きつける魅力的な物語であるかどうかがマルクス・フロイト理論が影響を持つ大きなポイントと言えるのではないでしょうか。
おすすめマルクス伝記10作品一覧~マルクス・エンゲルスの思想をより知るために
なぜマルクス思想はこんなにも多くの人を惹きつけたのか。
マルクス思想はいかにして出来上がっていったのか。
そもそもマルクスとは何者なのか、どんな時代背景の下彼は生きていたのか。
そうしたことを学ぶのにこれから紹介する伝記は大きな助けになってくれます。
この記事の中で☆マークがついている作品が私の中でも特におすすめの伝記です。
リンク先ではそれぞれの本についてより詳しくお話ししていきますので、気になった本があればぜひそちらもご覧ください。
年表で見るマルクスとエンゲルスの生涯
これより後、マルクスとエンゲルスについての伝記をベースに彼らの人生を見ていくことになりますが、この記事ではその生涯をまずは年表でざっくりと見ていきたいと思います。
マルクスとエンゲルスは分けて語られることも多いですが、彼らの伝記を読んで感じたのは、二人の人生がいかに重なり合っているかということでした。
ですので、二人の辿った生涯を別々のものとして見るのではなく、この記事では一つの年表で記していきたいと思います。
エンゲルスを学ぶ意味とは
この記事からは「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」というテーマでより詳しくマルクスとエンゲルスの生涯と思想を見ていきます。
これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。
この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。
当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。
そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。
この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。
一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。
エンゲルスの恵まれた家庭環境と故郷の町バルメン(現ヴッパ―タール)の社会事情とは
エンゲルスは1820年にドイツのバルメン(現ヴッパータール)という町で生まれました。 エンゲルス家は典型的な上流ブルジョワ家庭であり、綿工場の経営者の御曹司として何一つ不自由のない温かな家庭で生活していたのでした。 ドイツの新興工業地帯に生まれたエンゲルス。彼はここで工業化がもたらす悲惨な環境破壊や労働者の貧困を間近で見ながら育っていくことになります。
エンゲルスの生地、工業地帯ヴッパータールの宗教事情
エンゲルスが育ったドイツの工業都市バルメンの宗教事情ははまさしくヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で語られることと重なっています。
ドイツにおいてエンゲルスがこうした環境の中で育っていたというのは驚きでした。
この記事ではそんなバルメンの宗教事情とエンゲルスの家庭環境、若きエンゲルスの宗教に対する見方をお話ししていきます。
ドイツロマン主義、疾風怒濤とは
18世紀、19世紀のドイツ思想界に絶大な影響を与えたドイツロマン主義、疾風怒濤とはいかなるものなのか。
ゲーテ、シラー、ヘーゲル、ホフマン、ベートーヴェン、グリム兄弟など錚々たる顔ぶれが世に現れたこの時代の特徴をこの記事では見ていきます。
マルクス・エンゲルスもこうした時代の子として生れてきています。彼らの思想背景を知る上でも非常に重要なものとなっています。
エンゲルスの学業断念と資本主義のシステムを学んだブレーメンでの商人修行
想像力豊かで詩を愛していたエンゲルスが、自分の家業のために無理やり退学させられ、大学進学もあきらめなければならなかった。そして家業とはいえ、やりたくもない仕事の見習いを強制されられる日々。
こうした青年時代がエンゲルスの反抗心をさらに高めることになったのでした。
エンゲルスが政治活動にのめり込むきっかけをこの記事ではお話ししていきます。
工場の劣悪な環境を18歳のジャーナリスト、エンゲルスが告発
エンゲルス18歳の時に発表された『ヴッパータールだより』。
後にお話しすることになりますが、この『ヴッパータールだより』のスタイルは後の『イギリスにおける労働者階級の状態』にも引き継がれ、そしてそれはそのままマルクスの『資本論』にも直結していきます。
ギムナジウムを退学し、大学にも行けなかったエンゲルスですが、やはり歴史を変える天才は何かが違います。マルクスの影に隠れてしまいがちですがその片鱗はすでにここに現われています。
シュトラウス『イエスの生涯』
エンゲルスを無神論へと向かわせた決定的な契機とは何だったのでしょうか。
この記事ではそうした問題を考えるべく、シュトラウスの『イエスの生涯』という作品とエンゲルスの出会いをお話ししていきます。
『イエスの生涯』は当時の急進的な青年たちに絶大な影響を与え、無神論へと導きました。これはマルクスも同じです。マルクスもこの作品から絶大な影響を受けています。
なぜヘーゲル思想は青年たちの心を捉えたのか
無神論というと、何も信じていないかのように思われがちですが実は違うパターンもます。
この記事で語られるように、無神論とは何も信じないことではなく、従来のキリスト教の信仰を否定し、新たな信条に身を捧げることでもありました。
当時、キリスト教の世界観を否定し、ヘーゲル思想に傾倒していった若者はたくさんいました。そのひとりがエンゲルスであり、マルクスでもありました。
エンゲルス、兵役志願を利用しベルリン大学へ
エンゲルスはベルリンで兵役を務めながらもこっそり抜け出して、学問の中心ベルリン大学へと通っていました。
そして彼が通い詰めたベルリン大学というのが、当時、ものすごい場所だったのです。
なんと、そこにはあのキルケゴールやバクーニンがいて、エンゲルスは彼らと机を並べてヘーゲルを学んでいたというのです。しかもこの数年前にはこの大学でマルクスとツルゲーネフも学んでいます。恐るべし、ベルリン大学。
革命思想の源流、青年ヘーゲル派とは
ヘーゲル哲学はなぜこんなにも歴史に大きな影響を与えたのか。 そしてヘーゲル右派、青年ヘーゲル派(左派)とは何なのか。 この記事では有名なヘーゲルの弁証法が革命運動へと結びついた理由を見ていきます。
フォイエルバッハの唯物論~マルクスの「宗教はアヘン」はここから生まれた
若きマルクス・エンゲルスに絶大な影響を与えたシュトラウス、ブルーノ・バウアー、フォイエルバッハの流れについてこの記事ではお話ししていきます。
マルクスの「宗教はアヘンである」という有名な言葉は、ここで紹介するフォイエルバッハの思想から来ています。
マルクス・エンゲルスは無から思想体系を創造したのではなく、当時活躍していた思想家たちの理論を吸収しながら練り上げていったというのがよくわかりました。
自由奔放で過激な青年ビール知識人とマルクス・エンゲルス
前回の記事まででシュトラウス→ブルーノ・バウアー→フォイエルバッハという、「青年ヘーゲル派」・反体制派思想の流れを見ていきました。
そしてこの記事では若きエンゲルスがベルリン時代に付き合っていた「ビール知識人」なる存在についてお話ししていきます。
実はマルクスもこのビール知識人の一員で、エンゲルスとは入れ違いで会うことはありませんでしたが、二人は同じグループで若き日を過ごしていたのでありました。
カール・マルクスの出生とドイツ・トリーアのマルクス家
1818年、弁護士ハインリヒの子としてカール・マルクスは誕生しました。
マルクスが生まれたトリーアという町は、古代ローマの遺跡が残る古都です。
そしてこの記事で詳しく見ていきますが、エンゲルスと同じく、マルクスも裕福な家に生まれていて、彼は幼い頃より家族に大切に育てられていました。
また、マルクス家がユダヤ教のラビ(指導者)の家系だったという驚きの事実も見ていきます。
マルクスの破天荒な学生時代~妻イェニーとの出会いも
この記事では若きマルクスの学生時代についてお話ししていきます。
マルクスは元々、ボン大学の法学部に在籍していましたが、勉強に身が入らずどんちゃん騒ぎを繰り返す問題児でした。
それを案じた父が名門のベルリン大学に彼を送り込んだのですが、彼はそこでヘーゲル哲学にさらにのめり込み、後の革命運動につながる仲間たちとの交友を深めることになったのでした。
ジャーナリスト・マルクスの誕生とエンゲルスとの気まずい初対面
後年、マルクスとエンゲルスは一心同体と言ってもいいほどの仲になりますが、その初対面は意外にも気まずいものだったという事実がありました。これは意外ですよね。 「機が熟す」という言葉はまさにこの2人にぴったりな言葉なように思えます。 2人ががっちりとタッグを組むにはまだ時が来ていなかったのです。
運命の再会はこれからもう少し先のこと。 歴史の面白さをこの2人の初対面の気まずさに感じたのでありました。
空想的社会主義者サン・シモンの思想とは
空想的社会主義者とはエンゲルスによって1880年に出版された『空想から科学へ』の中で説かれた有名な言葉です。
エンゲルスはマルクス以前に社会主義思想を説いた有名な3人、サン・シモン、シャルル・フーリエ、ロバート・オウエンを「空想的社会主義者」と述べました。
そして彼らの「空想的」な理論に対して、マルクスの理論は「科学的」であると宣言します。 この記事ではまず、そのサン・シモンという人物についてお話ししていきます。
空想的社会主義者フーリエの思想とは
エンゲルスはマルクス以前に社会主義思想を説いた有名な3人、サン・シモン、シャルル・フーリエ、ロバート・オウエンを「空想的社会主義者」と述べました。 そして彼らの「空想的」な理論に対して、マルクスの理論は「科学的」であると宣言します。
前回の記事ではサン・シモンを紹介しましたが、この記事ではシャルル・フーリエという人物についてお話ししていきます。
共産主義の始まりとドイツの共産主義者モーゼス・ヘスとは
共産主義といえばマルクスを思い浮かべてしまう私たちですが、この思想自体はマルクスの独創ではありません。
マルクス・エンゲルスも無から偉大な思想を生み出したわけではありません。二人とも猛烈な勉強家です。彼らは過去の偉大な思想家や同時代の思想を学び、自身の思想を作り上げていきます。
こうした彼らの思想背景を辿っていくのは非常に興味深いものがあります。 その代表例が今回ご紹介するドイツの思想家モーゼス・ヘスです。この記事は特におすすめの内容となっています。
エンゲルスが働いた産業革命の中心地マンチェスターの地獄絵図
エンゲルスは1年間のベルリンでの兵役を終えた1842年、イギリスへ旅立ちました。 その旅の途中、ドイツの共産主義者モーゼス・ヘスから直接指導を受け、熱烈な共産主義者となったことまで前回の記事でお話ししました。
エンゲルスがなぜマンチェスターを訪れたかといいますと、彼の父が共同経営者となっている「エルメン&エンゲルス商会」がそこにあったからでした。
彼の父は哲学にのめり込み急進的な言動を繰り返す息子を商人として鍛え直すために、エンゲルスをマンチェスターに送ったのでした。(もちろん、会社経営の面でも必要でしたが)
憎きブルジョワに自分がなってしまったという矛盾に苦しむ若きエンゲルス
若きエンゲルスは自身の矛盾と向き合わざるをえませんでした。
自身が激烈に攻撃していたブルジョワに自分自身がなっている。 マルクスにもその心情を吐露していますが、彼はこの後もずっとそうした矛盾を抱え続けることになります。
ですが後には開き直って堂々とブルジョワ的な行動をするようにもなります。マルクスもそうです。マルクスもブルジョワ的な生活に憧れ、実際にそうしたお金の使い方をしては金欠に苦しむという、矛盾をはらんだ生活をしていたのでした。
スコットランドの空想的社会主義者ロバート・オーエンとは
エンゲルスに空想的社会主義者と呼ばれたロバート・オーエンですが、彼は明らかに他の二人(サン・シモン、フーリエ)とは異質な存在です。
結果的に彼の社会主義は失敗してしまいましたが、その理念や実際の活動は決して空想的なものではありませんでした。
後の記事で改めて紹介しますが彼の自伝では、彼がいかにして社会を変えようとしたかが語られます。19世紀のヨーロッパにおいてここまで労働者のことを考えて実際に動いていた経営者の存在に私は非常に驚かされました。 彼のニューラナークの工場は現在世界遺産にも登録されています。
イギリスの労働運動「チャーティスト運動」を間近で見るエンゲルス
前回の記事でも紹介しましたが、1830年代まで根強い人気のあったオーエン派の活動も最後には衰退していってしまいます。 その大きな原因となったのがイギリスの新たな政治運動である「チャーティスト運動」でした。
この記事ではそんなイギリスの歴史に非常に大きな影響を与えたチャーティスト運動とエンゲルスについてお話ししていきます。
イギリスの歴史家トーマス・カーライル~エンゲルスがイギリスで尊敬した唯一の知識人
イギリスの歴史家カーライルの思想はマルクスの『共産党宣言』にも非常に強い影響を与えています。
その本の中の有名な一節、(資本主義は)「人間と人間とのあいだに、むきだしの利害以外の、つめたい「現金勘定」以外のどんなきずなをも残さなかった。」という強烈な言葉はマルクスが資本主義の仕組みを痛烈に批判した言葉としてよく知られていますが、実はこの言葉はすでにカーライルがその著作で述べていた言葉だったのです。
この記事ではそんなカーライルとマルクス・エンゲルスについて見ていきます。
エンゲルスの最初の愛人メアリー・バーンズ
エンゲルスがいかに頭が良かろうと、革命思想を奉じようと、彼は工場経営者の御曹司です。 そんな青年が一人で治安の悪い貧民窟に向かうのはさすがに不可能です。そこで彼はそうした危険地帯をよく知る人物と連れ立って実地の見聞を繰り返していたのでした。
そしてその中でも大きな役割を果たしていたのが最初の愛人、メアリー・バーンズだったのです。 この記事ではそんなメアリー・バーンズについてお話ししていきます。
マルクスを唸らせたエンゲルスの小論「国民経済学批判大綱」
彼はこれまで学んできたヘーゲル哲学を政治経済と結びつけました。この結合が後のマルクス・エンゲルスの思想に決定的な影響を与えることになります。
そして1843年に書かれた「国民経済学批判大綱」は、もう後のマルクスの言葉と言ってもわからないくらいです。 ギムナジウムを中退し、商人見習いをしていた23歳の青年がここまでのものを書き上げたというのは並大抵のことではありません。
マルクスという大天才の陰に隠れて目立たないエンゲルスですが、彼も歴史上とてつもない天才であるのは間違いないのではないでしょうか。
エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』
この作品の強みはエンゲルスの実体験に基づいたリアルな語りにありました。 しかもそれだけでなく、彼が夢中になって学んだヘーゲル哲学の素養がそこに生きてきます。 哲学的ジャーナリスト・エンゲルスの特徴がこの作品で示されているのでありました。
労働者の悲惨な生活を描くエンゲルスの筆はもはや作家の域です。 この作品は後のマルクスにも非常に大きな影響を与えました。
マルクスはマルクスのみにあらず。 やはりエンゲルスがいて、二人で共同作業をしたからこそのマルクスなのだなと思わされます。
パリでの運命の再会!マルクス・エンゲルスの共同作業の始まり
パリに来てから自身の思想の方向性が変わり始めていたマルクス。 そんな時にちょうどパリにやって来たのがエンゲルスでした。 ついに機は熟したのです。 今や二人はヘーゲル哲学から脱皮した、政治経済、共産主義の闘士。 彼らの思想は驚くほどの一致を見たのでした。そして彼らの確信の揺るぎなさたるや! パリの酒場で10日間語り合ったマルクスとエンゲルス。 これからの生涯全てを捧げての共同作業が始まった瞬間でした。
マルクス『聖家族』
マルクスとエンゲルスはかつての仲間であったビール知識人たちと完全に袂を分かつことになりました。 そしてふたりの記念すべき初めての共同作業となる『聖家族』を発表します。
この記事ではそんな『聖家族』執筆のエピソードと、マルクスの驚くべき遅筆に早くも苦しめられるエンゲルスの姿を紹介していきます。
反抗息子エンゲルスの家庭問題~地元ドイツ・バルメンで居場所を失うエンゲルス
地元バルメンでひとり大人しくしていれば大事にはならなかったでしょうが、エンゲルスはそのような男ではありません。
彼は共産主義を広めるための講演会を開きました。 当然当局からも目をつけられ、エンゲルスは政治犯・要注意人物となってしまいます。
こうなってしまうとバルメンの名士として生きてきたエンゲルスの父ももう我慢なりません。 父の逆鱗に触れたエンゲルスはお小遣いを減らされる憂き目に遭ってしまったのでした。
マルクス・エンゲルスのイギリス研究旅行とエンゲルスの愛人問題
「ブルジョワの一語が罵り言葉にされ、彼らはそれをうんざりするほど繰り返すが、自分たち自身、頭のてっペんからつま先までブルジョワが染みついている」 このバクーニンの言葉ほどマルクス・エンゲルスの生活ぶりを的確に表したものはないのではないでしょうか。
これから先も彼らの生涯を見ていくことになりますが、実際にこの後も彼らはブルジョワ的な生活を決して捨てません。 こうした矛盾があるというのも、マルクス・エンゲルスを考える上では重要な点ではないかと思います。
『ドイツ・イデオロギー』~観念論から唯物論へ
この記事ではマルクス・エンゲルスが共同で執筆した『ドイツ・イデオロギー』についてお話ししていきます。
上部構造、下部構造というよく聞く言葉もここから出ています。 そしてこの作品においてマルクス・エンゲルスは革命は歴史を変えるためには必要であると結論したのでした。
また、マルクス・エンゲルスの思想を考える上で非常に重要なポイントが出てきます 1845年段階でマルクスとエンゲルスが構想した共産主義世界のユートピアがここで語られるのでありました
即時の武力革命を否定していたマルクス・エンゲルス
マルクス・エンゲルスは武力革命も辞さなかったというイメージがありますが、1845年から48年段階では労働者がいきなり武力革命を起こすというやり方は認めていませんでした。
マルクス思想の参考書で「マルクスは武力革命に反対だった」という解説がなされるのは、ここに依拠しているのでしょうか。たしかにブルジョワ社会が成熟するまでは労働者による武力革命に反対していたかもしれませんが、彼らが生涯にわたってずっと武力革命に反対していたかは別問題です。この件も今後注意して伝記を読んでいかなければなりません
マルクス『哲学の貧困』とプルードン批判
プルードンはフランスで活躍した社会主義思想家です。ロシアの革命家バクーニンや、ゲルツェンなどともつながりがあった人物として知られています。
マルクス・エンゲルスも当初は彼の思想に感銘を受けていたのですが、例のごとく、彼らは仲違いし批判し合うことになります。 そしてマルクスが出版したのが『哲学の貧困』というプルードン批判の書だったのでした。
エンゲルスの理想が「労働者にはもっと貧しく、どん底にいてほしかった」という現実
この記事ではマルクスとエンゲルスの思想において決定的に重要な指摘がなされます。
マルクス・エンゲルス関連の様々な本を読んできて、私が薄々感じていた違和感をはっきりと言葉にしてくれたのが今回読んでいく箇所になります。 ぜひ読んで頂きたい内容となっています。
エンゲルスのパリでの矛盾に満ちた私生活とは
前回の記事の最後でエンゲルスの理想が「労働者にもっと貧しく、どん底にいてほしかった」というものだったということをお話しました。 そしてマルクス・エンゲルスが人々の生活が悪くなればなるほど喜ぶような節を見せるのに対し、私が違和感を感じていたこともお話ししました。
彼らははたして本当に労働者のために動いているのだろうか?そう思わざるをえない行動を彼らはこの後も取り続けます。そのひとつの例がこの記事で紹介する箇所になります。
マルクス・エンゲルス『共産主義者宣言』の出版とその反響
「ヨーロッパに亡霊が出没する―共産主義という亡霊が」 「万国の労働者、団結せよ!」 という言葉で有名なマルクス・エンゲルスの『共産主義者宣言(共産党宣言)』ですが、実は発刊当時はほとんど反響がありませんでした。
20世紀で最も読まれた書物のひとつとして有名なこの作品がなぜそんなことになってしまったのかをこの記事では見ていきます。
「革命に必要なのはこれ以上何ひとつ失うものを持たない追いつめられた階級だ」~マルクスのプロレタリアートは革命理論のために生み出された存在だった
この記事で紹介する箇所はマルクス主義を考える上で非常に重要な問題を提起していると思います。
マルクスは何のために共産主義を説いたのか。 本当に貧しい人を救うためだったのか。 なぜマルクスやエンゲルスは自説とは矛盾した行動を取り続けたのか。 こうしたことを考える上でも今回の箇所は私にとっても非常に大きなものになりました。
1848年フランス二月革命の衝撃と革命の戦場に向かうエンゲルス
革命を待ちに待っていたマルクス・エンゲルスはブリュッセルにいてその場に立ち会うことができませんでしたが、彼らは歴史の必然としてやってくるであろうプロレタリアート革命に向けて政治活動を熱心に行います。
しかし1848年のフランス二月革命をきっかけにヨーロッパ各地で起きた革命はマルクス・エンゲルスが予想していた展開とは全く異なる動きを見せ始めるのでした。
マルクス・エンゲルスのイギリス亡命生活の始まり
フランス二月革命を経てマルクス・エンゲルスは共に政治犯として追われる身になっていました。 そこでマルクスは政治犯でも受け入れてくれるイギリスを亡命先として選ぶことになります。 エンゲルスもそうしたマルクスを追い、イギリスへと向かうことになったのでした。
そしてそこでのエンゲルスの決断がまた驚きです。やはり彼は矛盾をものともしない図太い神経があったのでした。
イギリスヴィクトリア朝の繁栄と労働者の生活水準の上昇
エンゲルスがいた頃(1843-44年)のマンチェスターはこの世の地獄のような場所でした。そんな悲惨な環境を告発したのが彼の著書『イギリスにおける労働者階級の状況』でした。この作品はマルクスにも絶賛され『共産党宣言』や『資本論』にも大きな影響を与えました。
しかし、50年代にも入るとそのような描写はすっかり時代遅れなものになっていました。エンゲルスが不在だった数年間にイギリスは激変してしまったのです。
労働者の搾取によって得たお金で書かれた『資本論』という気まずい真実
「気まずい真実は、エンゲルスの豊かな収入が、マンチェスターのプロレタリアートの労働力を搾取した直接の結果だったということだ。 彼とマルクスがあれほど細部にわたって非難した諸悪そのものが、彼らの生活様式と哲学に資金を供給していたのだ。」
エンゲルスは父の会社に就職し、そのお金をマルクスに送金していました。労働者を搾取する資本家を攻撃していた二人がまさにそうして生活していたという矛盾が今回読む箇所で語られます。
マルクスは実は貧乏ではなかった?~ブルジョワ的出費と破滅的な金銭感覚
エンゲルスは父の経営する綿工場に勤めることになり、初任給から300ポンドという高給を取り、後には年収1000ポンドという高所得者となります。これを今日の貨幣価値に換算すると1500万円ほどになります。
そしてマルクスが彼から受けた経済援助はなんと、20年で少なくとも4500万円以上だったと言われています。それでもマルクスが貧困に苦しんでいたのはなぜだったのでしょうか。それをこの記事で見ていきます
マルクスと大英博物館図書館~毎日12時間研究に没頭する鬼のような読書家マルクス
マルクスは鬼のような読書家でした。
大英博物館図書館に籠りひたすら本の海に飛び込むマルクス・・・ 彼は原稿を書いては破り捨て、書いては破り捨てを繰り返し、何か思いついたかと思いきや今度は本の世界に飛び込みまた脱線した読書に夢中にのめり込む・・・ これでは原稿を待つエンゲルスが嘆くのも無理はないですよね・・・
なかなか原稿を送ってくれない作家に振り回される編集者そのものです。 ただ、マルクスの天才ぶり、狂気ともいうべき姿を知れたのは大きなことでした。
1850年代以降、亡命先のイギリスで経済不況を待ち望むマルクス・エンゲルス
マルクス・エンゲルスの史的唯物論によれば、ブルジョワによる資本主義は経済不況を引き金にプロレタリアート革命によって倒されると論じられていました。 ですので革命には経済不況が不可欠です。これがないと何も始まりません。
ただ、これは逆に言えば、経済不況という状況さえあれば革命は自ずとやってくるはずなので、二人はこうした状況を今か今かと待ち望んでいたのでした。 しかし待望の経済不況がやってきたものの、その結果は二人の予想とは全く異なるものでした
マルクスの隠し子問題とエンゲルスの明かした秘密とは
マルクスとその妻イェ二ーの強い結びつきはどの伝記でも書かれています。ですが、それほどの仲でありながらも、マルクスは全てが崩壊してしまいかねない事件を起こしてしまいました。 このマルクス最大のピンチにおいても、彼を救った?のはエンゲルスでした。
『資本論』制作に向け喝を入れるエンゲルス~二人の共同作業とエンゲルスの貢献
今となってはマルクスは世界中で知らぬものはいない超有名人ですが、存命中はそうではありませんでした。 ましてロンドンに亡命し始めてからは、無数にいる政治犯の一人という位置づけです。そんな中でくすぶっていたら為すべきことも成せません。
マルクスは完璧主義すぎて次から次へと本の海に沈没し、なかなか作品を書き上げることができないでいました。 そこでエンゲルスはマルクスに喝を入れたのです。
やはりマルクスはマルクスだけにあらず。エンゲルスという盟友あってこそだなと感じます。
1852年『ルイ=ボナパルトのブリュメール十八日』を発表するマルクスとその反響
驚くことに、この作品は今となっては非常に有名ですが、出版直後はほとんど反響がなかったようです。 今から数十年前までバイブルのごとく読まれていた『共産党宣言』ですら、出版直後はほとんど反響がなかったくらいです。この作品があまり広まらなかったのは仕方ないことかもしれません。
ただ、そこから時を経てマルクスが亡くなった後から彼の作品が異様なほど評価されていったというのは注目に価します。生前評価されなかった作家が死後になって巨大な存在になって君臨する。その典型がマルクスと言えるかもしれません。
イギリスで上流階級となったエンゲルスの優雅な社交生活とは
ここまでエンゲルスの生涯を見てきましたが、やはり彼は実務に非常に長けていて、社交的才能もあるということで実業界ではかなり優秀な人物でした。だからこそマンチェスターの社交界でも信頼され数々の役職を果たすことになりました。
矛盾に満ちた奇妙な人物ですが、やはりスケールの大きさと言いますか、魅力的なものがあるなというのはどうしても感じざるを得ません。 エンゲルスのブルジョワ社交家としての顔を見れたこの箇所は非常に興味深いものでした。
愛人メアリー・バーンズの死~エンゲルス・マルクスの友情の最大の危機
1863年のある日、エンゲルスの愛人メアリー・バーンズが急死してしまいます。 急な別れにショックを受けるエンゲルス。 ですがそれに対してマルクスが発した言葉がなんと思いやりのないことか・・・さすがのエンゲルスもこれに大激怒します。 マルクスからすれば正式な結婚もしないで遊び歩いていたエンゲルスがそんなにもメアリー・バーンズを愛していたとは思いも寄らなかったのでしょう。もしこの後で二人の関係性が回復していなかったら『資本論』が世に出ることはなかったかもしれません
マルクス『資本論』の執筆の流れをざっくりと解説!
マルクスはアダム・スミスやリカードなどの経済学者たちの著作を研究し、そこにヘーゲル哲学を組み合わせることで独自の理論を作り上げていくことになります。 これは経済を専門にする経済学者や、哲学のみを探究する哲学者にはなかなか思いも寄らぬ方法でした。
マルクスは独自に新たな理論を生み出したというより、既存のものをうまく合成することで新たなものを生み出したということができるかもしれません。
『資本論』第1巻の段階ですでに膨大な原稿を編集していたエンゲルス
マルクスの『資本論』は読むのがあまりにも難しい作品として有名ですが、マルクスの元の原稿はそれどころではない支離滅裂なものだったというのは驚きでした。
その解読困難な原稿をかろうじて読める形でエンゲルスが再構成したものが私たちが手にする『資本論』だったのです。
『資本論』第2巻、第3巻がエンゲルスによる編集によって成立したのは有名ですが、そもそも第1巻からしてエンゲルスの多大な貢献があったのでした。
『資本論』の宣伝マン・エンゲルスの天才的な広告手腕とは
私たちは「マルクスが後に世界中に広まった」という歴史を知った上でマルクスを見てしまいますが、当時の状況はまるで違います。 このままでは無視されかねないと察したエンゲルスはここでその才能を発揮します。
エンゲルスは自作自演も辞さず、次々とメディア戦略に打って出ました。「単なる経済学の書」を超えた、まさしく「あらゆるものの源泉たるバイブル」としての『資本論』を生み出したのはエンゲルスだったのでした。
エンゲルスなくしてマルクスなし! エンゲルスの参謀としての天才的な能力には驚くしかありません。
『種の起源』に感銘を受けたマルクス、ダーウィンに『資本論』を献本
エンゲルスの薦めによって『種の起源』を知ったマルクス。はまり具合からいけばエンゲルスの方がはるかに熱狂的でしたがマルクスもその進化論には大いに心動かされたものがあったようです。
そしてマルクスはダーウィンに感銘を受け、『資本論』を献本します。それに対してかのダーウィンはどんな反応を見せたのでしょうか。 そのことについてこの記事ではお話ししていきます。
1869年、会社を辞めるエンゲルス~長年望んでいた搾取者の立場からの解放
エンゲルスはおよそ20年勤めたマンチェスター父の会社を1869年に辞めることになります。 最初は通信員として就職したエンゲルスですがすでに父も亡くなり、今や彼はエルメン&エンゲルス商会の共同経営者の地位にありました。
いよいよ自由の身になったエンゲルス。 彼はマルクスの近くに住み、政治活動をするためにロンドンへと旅立ったのでありました。 エンゲルスの再出発です。彼の活躍はここからいよいよ大きくなっていくのでした。
ロンドンでの政治活動で大活躍のエンゲルス
エンゲルスの優秀さについてはこれまでもお話ししましたが、マンチェスターでの家業を辞めてロンドンに来てからはその力がさらに遺憾なく発揮されていたのでありました。
エンゲルスは自邸の書斎を拠点に今やヨーロッパ中の社会主義者の動向に目を向け、動かすようになっていたのでした。 やはりエンゲルスの実務能力はずば抜けています。
経営者を引退したエンゲルス、今度は証券投資家に。矛盾は続く・・・「
エンゲルスは経営者を引退した手切れ金を、持ち前のビジネス感覚を利用してさらに増やしていました。 彼は今度は証券取引人として莫大な利益を得ることになったのです。 つまり「矛盾は、工場を辞めた最後の日で終わったわけではなかった」のです。
ブルジョワを激しく非難しながらそのブルジョワそのものであるエンゲルス。 エンゲルスはこの矛盾に対してどのように考えていたのでしょうか。彼はこのことに対し驚くべき言葉を語ることになります
マルクスの娘婿で『怠ける権利』の著者ポール・ラファルグ
マルクスの娘婿ポール・ラファルグ。 彼は『怠ける権利』という本を執筆し、その作品で労働を拒絶し、高貴で神聖な怠ける権利を主張しています。
そしてこの本はマルクス主義者に大きな影響を与えたことでも知られていますが、そのラファルグ本人がどのような生活をしていたかをこの記事では見ていきます。
マルクスの共産主義が独裁的な国家権威主義になることを見抜いていたバクーニン
マルクス・エンゲルスの最強のライバル、バクーニン。 彼が単に人を惹きつけるだけの存在だったら、マルクス・エンゲルスの政治力にかかれば簡単に失脚させることはできたでしょう。
敵をこき下ろし、誹謗中傷、政治的策略を使って孤立させることなど、これまで何度となくやってきたことです。
しかし、真の脅威はバクーニンがマルクス・エンゲルスの思想における決定的な弱点を見抜いていたことにありました。バクーニンは彼らの思想の行く先を正確に見抜いていたのです。その鋭さたるや驚愕するしかありません。
宿敵ラッサールとの対決と『ゴータ綱領批判』
マルクス・エンゲルスの強敵はバクーニンだけではありませんでした。
バクーニンは「マルクスの共産主義が独裁的な国家権威主義になることを見抜いていた」非常に危険な存在で、マルクス・エンゲルスが利用しようとしていたインターナショナルを消滅させた難敵でした。
今回紹介するラッサールもそれに劣らず彼らにとって厄介な敵なのでありました。
マルクスはロシアでの革命についてどのように考えていたのか
マルクス・エンゲルスの革命理論によれば資本主義が成熟し、経済が崩壊した後にプロレタリアート革命が起こるということだったのですが、1870年代にはそうした理論もあまり重要視しなくなっていたのでしょうか、資本主義が全く成熟していないロシアでプロレタリアート革命が起こるとエンゲルスは自信満々に述べます。
これでは必ず通るであろう「歴史の法則」という概念そのものが成立しなくなっているように思えるのですがどうなのでしょうか。 そのことについてこの記事は見ていきます
『資本論』第2巻、3巻を完成できぬまま亡くなるマルクス
1881年、マルクスは妻の最後を看取ることもできず、自身も病気と闘っていました。世界を動かした巨人マルクスも、晩年は病気に苦しめられ、執筆もほとんど捗ることがありませんでした。
そしてマルクスは『資本論』第2巻、3巻を完成させることなく1883年に亡くなります。 ですがマルクスが死しても、マルクスの物語は終わりません。むしろ、死して後、彼の思想はより巨大なものとなって世界中に大きな影響を与えることになります。
そこにいたのはやはりあの男、エンゲルスでした。
葬儀でのエンゲルスの演説とマルクスの神格化のはじまり
後に数え切れないほどの人たちに影響を与えることになった大人物マルクスの葬儀に参列したのはたったの11人・・・ これには私も驚きました。
ですが逆に言えば、ほとんど世に知られていない、あるいは評価されていなかったマルクスがここからいかにして世界中に旋風を巻き起こしていったのかというのは気になるところでありますよね。
となると、ここからあの男がいよいよ存在感を増してくることになります。 エンゲルスの働きがここからいよいよ大きなものとなっていくのでした。
エンゲルス『自然の弁証法』~マルクス思想と弁証法を科学に応用!
エンゲルスはかつて経済学と人間の歴史にヘーゲルを適用したように、今度は科学技術にまでもヘーゲルの弁証法を適用しました。 イデオロギーは科学にも適用できるのです。
科学と言えば数式のような客観的なデータを連想しますが、それをもイデオロギーの世界観の下構築できるというのは驚きしかありません。 しかもそれらが大真面目に話されていたというのですから、それこそ別世界です。 共産圏の科学の枠組みにさえ影響を与えたエンゲルス、恐るべしです。
エンゲルスによるマルクス主義の最高の手引き書『反デューリング論』とは
エンゲルスの『反デューリング論』はマルクス主義が広まる上でとてつもないインパクトを与えることになりました。
ですが、それに対して近年は「エンゲルスはマルクスを歪めて広めた。その後のマルクス主義が起こした出来事はエンゲルスがその原因である」という批判が強くなります。
はたしてエンゲルスは本当にマルクスを歪めたのか。それともマルクスの難解(理解不能)な思想を見事に噛み砕き解説したのか。これは非常に大きな問題です。 そのことについてこの記事では考えていきます
エンゲルスの『反デューリング論』から生まれた『空想から科学へ』
エンゲルスはこの作品においてサン・シモンやフーリエ、ロバート・オーエンらを空想的社会主義者と名づけ、マルクス思想を科学的社会主義と位置付けました。 誰も読まない、いや読めない難解な『資本論』を一般の人にもわかりやすく広めたこの作品の意義はいくら強調してもし足りないくらい大きなものだと思います。
難解で大部な『資本論』、簡単でコンパクトな『空想から科学へ』。
この組み合わせがあったからこそマルクス主義が爆発的に広がっていったということもできるかもしれません。
『資本論』第2巻の編集に苦闘するエンゲルス
エンゲルスは『資本論』第1巻の時点ですでにマルクスの膨大な原稿を編集していました。マルクスが存命の時ですらこの作業に苦戦していたエンゲルスです。 マルクスの死後はどうだったのでしょうか。 その作業は想像を絶する苦難の道となったのでした。
解読困難な悪筆、支離滅裂な文章、無秩序な引用に満ちた膨大な原稿の山。 エンゲルスはこの編集作業によって眼を病んでしまうほどでした。この記事ではその詳しい顛末と『資本論』第2巻、3巻の問題点についてお話ししていきます。
大幅な改変も加えながらエンゲルスがなんとか完成させた
マルクス亡き後、彼の思想を広めるために身を粉にして奮闘していたエンゲルス。 そのエンゲルスがマルクスの原稿に手を加え『資本論』第3巻は完成という形となりました。
ただ、はたしてこれがマルクスの作品、思想であると言えるのかは微妙なものなのではないでしょうか。
メモの集積をつなぎ合わせたものを果たしてその人の作品、思想と呼べるのか。 しかもそのメモ自体も、膨大な文献を読んでいたマルクスが無秩序に蓄えていたものにすぎません。思想として体系立ててそれが書かれていたかというと疑問が残るというのが正直なところです。
1895年のエンゲルスの死と莫大な遺産
エンゲルスの遺産はなんと400万ドル、現代の日本円で軽く4億円以上もあったようです。そこにさらに様々な形の資産もあったでしょうから総額で言えばとてつもないものがあったと思われます。そしてそれらのほとんどはマルクス一族に相続されることになりました。
またエンゲルスは本人の希望により死後海洋散骨されることになります。彼のお墓はこの世に存在しないのです。これには私も驚きました。
マルクス・エンゲルスは有罪か?~レーニン・スターリンのマルクス主義
さあ、いよいよ本書の総まとめに入ります。 著者は本書の冒頭で、近年世界中でマルクスの再評価が進んでいる一方、ソ連や中国などの共産国での恐怖政治の責任がエンゲルスに押し付けられているという風潮を指摘していました。 そうした風潮に対し、「エンゲルスは本当に有罪なのか?」ということを検証するべくこの本ではマルクス・エンゲルスの生涯や思想背景を追ってきたのでありました。
この記事ではそんなマルクス・エンゲルスに対する私の思いもお話ししていきます。
マルクス『資本論』を読んで~これは名著か、それとも・・・
『資本論』はとにかく難しい。これはもはや一つの慣用句のようにすらなっている感もあります。
この作品はこれ単体で読んでも到底太刀打ちできるようなものではありません。 時代背景やこの本が成立した過程、さらにはどのようにこの本が受容されていったかということまで幅広く学んでいく必要があります。
私がマルクスを読もうと思い始めたのは「マルクスは宗教的現象か」というテーマがあったからでした。 ここにたどり着くまで1年以上もかかりましたが、マルクスとエンゲルスを学ぶことができて心の底からよかったなと思います。
エンゲルスの代表作『空想より科学へ』
難解で大部な『資本論』と、簡単でコンパクトな『空想から科学へ』。 この組み合わせがあったからこそマルクス主義が爆発的に広がっていったということができるかもしれません。
「マルクスは宗教的な現象か」というテーマにおいてこの記事では私の結論を述べていきます。
エンゲルスはこの作品においてとてつもないことを成し遂げました。 この作品はマルクス思想を考える上で『資本論』と並んで決定的な意味を持つ作品です。ぜひ読んで頂きたい記事となっています
おわりに
ここまで記事を読んで下さった方には心よりお礼申し上げます。
この記事を書いている私もこの分量には驚いています。
ひとつひとつ心を込めて書かせて頂きました記事たちです。
皆様のお役に少しでも立てましたら私としては何よりでございます。
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