エンゲルスの学業断念と資本主義のシステムを学んだブレーメンでの商人修行「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(5)

マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ

エンゲルスの学業断念と資本主義のシステムを学んだブレーメンでの商人修行「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(5)

上の記事ではマルクスとエンゲルスの生涯を年表でざっくりとご紹介しましたが、このシリーズでは「マルクス・エンゲルスに学ぶ」というテーマでより詳しく2人の生涯と思想を見ていきます。

これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。

この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。

当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。

そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。

この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。

一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。

では、早速始めていきましょう。

父親に強制退学させられたエンゲルス

前回の記事ではドイツでロマン主義の嵐が吹き荒れていたことをお話ししました。

そんなドイツにおいて青年エンゲルスもロマン主義の洗礼を受け、その思想にどっぷり浸かっていたのでした。

このロマン主義はバルメンまで、反啓蒙主義者の住むあの内向きシオンの地まで、どれだけ浸透しのだろうか?ここではなにしろ、ゲーテすらただの「無神論の男」だったのだ。それでも、自分で読んだ中世の騎士道物語とクラウゼン博士に鼓舞されて、フリードリヒ・エンゲルス少年はこのドイツのナショナリズムの復興によって大いに想像力をかきたてられていた。(中略)

しかし、彼の父親がこうした共感をいだくことは決してなかった。学業をつづけることをエンゲルスが望み、校長からも優れた評価を得たにもかかわらず、一八三七年に彼はギムナジウムから突然引き戻され、家業に従事させられた。

すでに息子の困った文学好きや疑わしい信仰心を案じていた父工ンゲルスは、クラウゼン博士を取り巻く逸脱した知識人の集まりから彼を引き離すことに、なんら良心の呵責は感じていなかった。

大学で法律を勉強し、おそらくは公務員職に就きたい、あるいは詩人にすらなりたいというフリードリヒの願い―いずれもJ・C・L・ハンシュケ校長が書いたエンゲルスの最後の成績表にほのめかされており、エンゲルスがいかに「これまで彼が考えていた勉学ではなく、人生における表向きの職業として〔事業を〕選ぶように勧められたか」について触れている―は、叶わないことになった。

代わりに、一年におよぶ辛い期間、彼は麻や綿、紡績や機織、漂白に染色といった面白味に欠ける謎の手ほどきを受けた。一八三八年の夏、父と息子はイングランドに出張し、マンチェスターで絹を販売し、ロンドンでグレージ(生糸)が購入できるよう手はずを整え、エルメン&エンゲルス商会の事業を監督した。彼らは北ドイツのブレーメン経由で帰郷し、この都市でエンゲルスは商売に関する見習いの次の段階に進むことになった。国際資本主義の集中講義である。
※適宜改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P37-38

想像力豊かで詩を愛していたエンゲルスが、自分の家業のために無理やり退学させられ、大学進学もあきらめなければならなかった。そして家業とはいえ、やりたくもない仕事の見習いを強制されられる日々。

こうした青年時代がエンゲルスの反抗心をさらに高めることになったのでした。

エンゲルスの商人修行の地ブレーメン

自由都市でハンザ同盟の貿易都市でもあったブレーメンの海沿いの空気は、バルメンの低地の霧よりは、エンゲルスにとってずっと過ごしやすいものとなった。もちろん、ここもまた信仰心の篤い土地だった(「彼らの心はジャン・カルヴァンの教えに磨きこすられている」と、この都市のある住民はこぼした)が、ドイツの主要港の一つとして、ここは商業中心地であると同時に学問の中心でもあった。

ザクセンの領事で麻の輸出業者ハインリヒ・ロイポルトのもとで見習いとなったエンゲルスは、この商社で事務員として働き、親切な聖職者のゲオルク・ゴットフリート・トレヴィナルスのもとに下宿した。バルメンのビーダーマイヤー的な上品さに息を詰まらせたあとでは、くつろいだ雰囲気のトレヴィナルス家はどんちゃん騒ぎのように感じられた。(中略)

ブレーメンにおけるエンゲルスの仕事は、おもに外国の取引先とのやりとりを処理することだった。ハバナへ送る荷物や、ボルティモアへの手紙、西インド諸島に出荷するハム、ハイチからきたドミンゴのコーヒー豆の委託販売品(「これは緑がかっているが、通常は灰色であり、よい豆を一〇粒選ぼうとすれば、四つの悪い豆と六つの石と一五グラムほどの土がでてくる」)などである。この事務員見習いの仕事を通して、彼は輸出事業や通貨の取引、関税の表も裏も知るようになった。資本主義のメカニズムについての詳細な知識であり、彼にとってはその後の年月に、大いに役立つものとなった。

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P38ー40

嫌々ながら商人修行をしていたエンゲルスですが、ブレーメンでは息苦しいバルメンの実家から離れてのびのびと暮らしていたようです。そんなエンゲルスの性格を著者は次のようにまとめています。

いたずらとおしゃべりが好きで、ときには辛辣なほどのユーモアのセンス(それといい勝負であったのがカール・マルクスだった)、それに人生を謳歌しようとする単純な願望である。彼の手紙はあだ名や駄洒落や落書き、譜面までがあちこちに書き込まれているうえに、実らなかった恋の自慢話や酒飲みの武勇伝や悪ふざけが書き連ねてある。

周期的に意気消沈するマルクスとは異なり、エンゲルスはめったに気分が落ち込むことはなかった。肉体的にも知的にも、エンゲルスはヴィクトリア朝時代の行動派の人物だったのであり、感情的に内省するタイプではなかった。新しい言語を学習することであれ、図書館の本を読みあさるときや、テュートン人的な衝動に駆られてハイキングに夢中になるときであれ、エンゲルスは動き回り、どんな状況でも最高のものを追求するためにその落ち着かないエネルギーを注がなければならなかった。
※適宜改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P39

ブレーメンで政治に目覚めるエンゲルス

エンゲルスの政治教育―ロマン主義から社会主義への旅―もまたブレーメンで始まり、彼は〈ベルリンの青年ドイツ作家集団〉を見出した。十九世紀初頭のヨーロッパでは、ジュゼッぺ・マッツィーニの〈青年イタリア〉から、イギリスのジョン・マナーズ卿のトーリー党貴族による排他的な〈イギリス青年党〉から、〈青年アイルランド〉の共和主義的な集団まで、多岐にわたる「青年」運動が各地で湧き起こった。

いずれも、ロマン主義的な独立国家という思想にもとづく愛国心の復興を唱えるものだった。〈青年ドイツ〉は政治的なプロジェクトとはほとんど見なされず、どちらかと言えば緩く提携した、「現実主義的な」文学グループで、反体制で急進的リべラル主義の詩人、ルートヴイヒ・べルネを中心とする集団だった。

ロマン主義的な芸術の時代は、行動の時代へと変わるべきだと彼らの不文律は主張していた。べルネはメッテルニヒの権威主義に断固として反対し、ゲーテをはじめとするロマン主義の高尚な担い手たちがとってきた、政治的に無抵抗の弱腰の態度を酷評した。「天から燃える舌を授かったというのに、これまであなたは正義を擁護したことがあるのか?」と、彼はこのヴァイマルの賢人を問い詰め、諸侯やパトロンに廷臣のように追従したゲーテの経歴をあざ笑った。
※適宜改行しました


筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P44

この箇所は非常に重要です。

ゲーテは1832年に亡くなり、彼の死はひとつの時代が終わったことを象徴するものになりました。

ゲーテは文学や芸術、万能的な教養を高めることでよりよい人生を生き、世界を構築していこうとしていました。

しかし、ゲーテ亡き後、若い世代はそれでは生ぬるいと批判します。「ゲーテは結局政治に従っただけだ。言葉だけで政治的変革のために何の行動もしていない」

そういう批判を投げかけたのでした。

若者たちは「美しい言葉や理想的な哲学よりも、政治運動を実際に行ってこその哲学だ」と述べるようになっていったのでした。

エンゲルスは、〈青年ドイツ〉がロマンチックな中世趣味を拒絶したことに、強く共感をいだいた。文学レべルでは、過去の英雄的神話に惹かれつづけたものの、ドイツの政治の将来は中世の封建制度への懐古主義に後退するわけにはいかないと、彼は同じくらい確信していた。その代わりに、彼は急進的かつ進歩的な愛国主義の綱領への共感を表明した。

フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の治世初期には、こうした考え方は心をそそられる実現可能なものに思われた。これは民主主義への呼びかけではなかったが、封建的な小王国とその絶対主義的な支配者による地方根性から、ドイツを解放するためのものだった。何よりも、エンゲルスが書いているように、〈青年ドイツ〉が望んだものは、「国家行政への国民の参加であり、それはすなわち憲法制定をめぐる問題だった。さらに、ユダヤ人の解放があり、あらゆる宗教的強制や、あらゆる世襲貴族制度の廃止などであった。それにたいして誰が反対などしようか?」(中略)

「僕は〈青年ドイツ〉の一員にならなければならない。いや、すでに身も心もそうなっている」と、彼は一八三九年に書いた。「夜も眠れない。すべてもろもろの世紀の思想のせいだ。郵便局に行ってプロイセンの紋章を見ると、僕は自由の精神に取りつかれる。新聞を読むたびに、自由の進歩を探し求める」
※適宜改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P45-49

エンゲルスが自由な雰囲気のブレーメンで学んだのは商人としての知識だけではありませんでした。

彼はこうして政治運動にも関わるようになっていきます。

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