(9)エンゲルス、兵役志願を利用しベルリン大学へ~ヘーゲル研究とバクーニン、キルケゴールとの出会い

マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ

エンゲルス、兵役志願を利用しベルリン大学へ~ヘーゲル研究とバクーニン、キルケゴールとの出会い「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(9)

上の記事ではマルクスとエンゲルスの生涯を年表でざっくりとご紹介しましたが、このシリーズでは「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」というテーマでより詳しく2人の生涯と思想を見ていきます。

これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。

この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。

当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。

そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。

この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。

一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。

その他参考書については以下の記事「マルクス伝記おすすめ12作品一覧~マルクス・エンゲルスの生涯・思想をより知るために」でまとめていますのでこちらもぜひご参照ください。

では、早速始めていきましょう。

1841年9月、兵役を志願しベルリンへ向かうエンゲルス

ブレーメンで商人修行をしながら「フリードリヒ・オスヴァルト」として政治記事を執筆していたエンゲルス。ブレーメンでの修行を終え実家のあるバルメンに帰るも鬱々とした日々・・・

彼はそんな日々を過ごしながらあることを決断します。

それが兵役志願を利用したベルリン行きでした。エンゲルス21歳の年でした。

一八四一年初めには、エンゲルスはブレーメンの事務所に縛りつけられていては、自分もその世紀の息子の一人と認められる望みはとうてい保証されないという結論に達した。「やることと言えば、フェンシングに飲み食い、寝る、つまらない仕事しかない。それだけだ」と、彼はマリーに書いた。彼はバルメンに戻ったが、そのロマン主義的で高慢な魂にとって、実家や家業のための事務作業はさらに退屈なものに映った。そこで一八四一年九月に、彼は軍務に服するようにというプロイセンの国家からの要請に応じて、プロイセン近衛砲兵隊、第一二中隊で一年間の兵役を「志願」した。プロイセンの首都べルリンは、地方の繊維貿易商のこのブルジョワの息子に、イデーを擁護するために彼がちょうど必要としていたお膳立てを与えることになった。この地でついに、彼は近代の軍務に就いた現代版ジークフリートとして、自分の正体を現わしたのである。

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P65

兵営を抜け出してベルリン大学へ通うエンゲルス

べルリンに滞在する表向きの任務はプロイセン王室を擁護するための軍事訓練だったが、エンゲルスはその王室を覆すための思想上の武器を身につけることに時間を費やしていた。彼は出来る限り練兵場を離れて大学キャンパスに向かった。六ポンド・カノン砲よりもはるかに殺傷力のあることが証明される原理を手に入れることに専念するためである。そして、彼は敵地においてそれをじつに熱心に行なったのである。

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P67
ベルリン・フンボルト大学 Wikipediaより

エンゲルスは兵役を務めながらもこっそり抜け出して、学問の中心ベルリン大学へと通っていました。普通なら兵営を抜け出すのは不可能ですが、お金持ちの家出身の志願兵は兵舎ではなく、自分で選んだ下宿で生活するのが認められていました。というわけでエンゲルスはベルリンで自由に行動することができたのでした。

そして、彼がそこまでして通い詰めたベルリン大学というのが当時ものすごい場所だったのです。

ヘーゲル哲学の嵐、第六講堂~バクーニン、キルケゴールと机を並べて学ぶエンゲルス

「今日のベルリンにいる誰にでも聞くがいい。ドイツの世論を支配する闘いがどの分野で繰り広げられているのかを」と、エンゲルスは一八四一年に書いた。「そして、その人が世界を支配する精神のカについて何かしら知っていれば、その戦場は大学だと答えるだろう。とりわけ第六講堂だ。シェリングが啓示の哲学の講義をしている場所だ」。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリングのような強気の哲学者にとっても、これは教えるのに怖気づくようなクラスだったに違いない。別の人物によれば、それは「途方もない聴衆で……えり抜きで、夥しく、多種多様」であった。

講堂に座っていたのは、十九世紀が生んだ最も優秀な若者たちとも言える面々だった。最前列で熱心にノートをとっていたのは、〔聴講生であった〕独学者エンゲルスだ。

当時、彼は単に「哲学を独学した若輩者」と、喜んで自称していた。彼の横には美術史家およびルネサンス学者となりつつあるヤーコプ・ブルクハルトが腰掛けていた。のちに無政府主義者になるミハイル・バクーニン(彼はこの講義を「おもしろいが、あまり重要ではない」と一蹴した)、それに哲学者のセーレン・キェルケゴールもいた。

シェリングは「かなり鼻持ちならないナンセンス」を語っているばかりか、さらに悪いことに、この高名な哲学者は自分の講義を時間を超過して終わらせるという、学問上における重罪を犯しているとキェルケゴールは考えた。「そんなことはべルリンでは許されず、不満やささやきが漏れた」

だが、エンゲルスは白髪まじりで碧眼のシェリングと、自分の英雄であるへーゲルにたいする彼の容赦ない批判に魅了された。シェリングは毎週、哲学上の大論戦を繰り広げ、歴史における神の直接的な力を強調することで、へーゲルの汎神論のほころびを探そうとした。それは啓示と理性の対決だった。

「若き日々の旧友同士が、チュービンゲンの神学校のルームメイト同士が、四〇年後に論敵として再び真っ向から対峙しているのだ。一方は一〇年前に死去したが、弟子たちのあいだでこれまで以上に存在感を増している。もう一方は、弟子たちいわく、三〇年にわたって知的には死んだも同然だったが、いまや突然、生命のあらゆる力と権力をわがもの顔にしている」。

そして、エンゲルスは自分がどちらに共感するのかを確信していた。自分が講堂にいるのは、「偉大な人物の墓が荒らされるのを守る」ためであると彼は語った。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P66-67

この箇所を読んで私は本当に驚きました。

あのバクーニンやキルケゴールと机を並べて学んでいたエンゲルス・・・!後に世界を揺るがす大人物たちが同じ教室で学んでいた・・・!これには度肝を抜かれました。

バクーニン(1814-1876)Wikipediaより
キルケゴール(1813-1855)Wikipediaより

さらに、ここでは書かれていませんが、エンゲルスが来るほんの少し前までマルクスもベルリン大学でヘーゲルを学んでいます。そしてロシアの文豪ツルゲーネフもマルクスと同じ時期にこの大学に在籍していました。

この大学の凄まじさを感じますよね。

エンゲルスはここでシェリング対ヘーゲル思想の戦いの最高峰の講義を聴くことができたのでした。父によってギムナジウムを強制退学させられ、大学進学の夢を断たれていたエンゲルスにとって、ここでの学びは何よりも刺激的な日々だったのではないでしょうか。

1841年当時のベルリン事情

一八四一年にエンゲルスがやってきたべルリンは、ホーエンツォレルン王朝を記念する都市へと急速に変貌しつつあった。一八四〇年代なかばには四〇万人ほどに達していた住民は、その前の半世紀にわたって多くのことを目の当たりにしてきた。

プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は敗走し、一八〇六年には皇帝ナポレオンがブランデンブルク門から凱旋行進した。

一八二二年にはロシア軍によって解放され、それとともに改革、ロマン主義、そして反動が相次いだ。このうち最後の反動勢力は一八ニ〇年代と三〇年代に、フリードリヒ・ヴィルヘルムが新古典主義の建築ブームで王室の権威の復古を示したことによって勝利を遂げた。

建築家カール・フリードリヒ・シンケルのもとで、途方もない公共スぺースと王室の壮大さを誇示した近代べルリンが築きあげられた。シンケルのドーリア式のシャウスピエルハウス(現在のべルリン王立劇場)、凝った彫刻を施したシュロスブリュッケ〔王宮橋〕ウンターデンリンデン通り沿いのローマ帝国風ノイエ・ヴァッヘ衛兵所、さらに彼の傑作であるパンテオンに着想を得た旧博物館、そのすべてが新たに台頭した東プロイセン平原の宮廷、軍隊および貴族のべルリンを表わしていた。

後年、エンゲルスはこうしたことすべてがいかに忌まわしいものだったかを述懐した。「ブルジョワ階級はほとんど形成されておらず、ロの軽いプチ・ブルジョワ階級がいるばかりだ。なんら進取的ではない、へつらう人びとで、労働者はまだまるで組織されておらず、大量の役人に、貴族および宮廷の取り巻きがいて、全体としての気質は単に住民というだけのものである」
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P67-68

ベルリンは1820年代から王政の権威が強い、非常に保守的な街でした。

そして、エンゲルスと同じくこの保守的なベルリンに苦しんでいた有名な人物がいます。

それがあのドイツを代表する作曲家、メンデルスゾーンでした。

当ブログでもメンデルスゾーン(1809-1847)について紹介してきましたが、彼はベルリンに実家があり、この街で音楽家として活動しようとしたのですが、保守的な音楽業界の妨害に遭い挫折しています。だからこそ彼はベルリン以外に活躍の場を求めイギリスへ向かったのでした。

そして1841年から1844年に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の要請でベルリン王立芸術アカデミー音楽部門長、ベルリン音楽学校設立の任のため、彼はベルリンに滞在しています。この時もベルリンでは不遇の日々を過ごすことになりました。王の命令とはいえベルリン社会は、新進気鋭の音楽家であり、ユダヤ人銀行家の息子メンデルスゾーンを受け入れようとはしなかったのでした。

エンゲルスが過ごしたベルリン時代とまさしく同じ時期にメンデルスゾーンがこの街に滞在し、旧態依然とした権威主義的な雰囲気に苦しんでいたというのは非常に興味深いものがあります。

もう一つのベルリン~活動家が集う酒場、カフェ文化

しかし、この絶えず分割されてきた都市ではありがちなことだが、ここには別の顔のべルリンもあった。彼がいたクプファーグラーべン兵舎の練兵場のそばには、カフェ、居酒屋、ワイン酒場などがひしめく繁華街があった。

一八三〇年代なかばには、べルリンには市の中心街だけでも一〇〇軒を超えるカフェがあり、新聞は公認のものも非公認のものも発刊され、討論のためのクラブや酒場があった。政治や文学談話で賑わう菓子屋コンディトライ文化がジャダルメンマルクト地区周辺に登場し、それぞれのカフェには独自の贔屓客がいた。

フリードリヒシュトラッセとリンデンの角にあった店、クランツラーは、将校の常連がいることと洒落た内装ゆえに、「べルリン近衛将校のヴァルハラ」として知られていた。証券取引所の近くのカフェ、クルタンには銀行員や実業家が出入りした。シンケルのシャウスピエルハウスと道路を隔てた場所にあるカフェ、シュテーレは、この都市の芸術家、俳優、それに「文学分子」たちの溜まり場だった。

近くのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(ベルリン大学 ※ブログ筆者注)―創設者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトに囚んで、一九四九年にフンボルト大学と改名―もまた、カフェの客の多くを供給していた。

一八〇〇年代初めのリべラルだった時代に、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世から啓蒙された市民のための教育制度をつくるよう任命され、フンボルトと文部大臣のフォン・アルテンシュタイン男爵が、べルリンに驚くほど優秀な人材を集めた。エンゲルスが一時期信奉していた神学者、フリードリヒ・シュライアマハーも教授に任命された。反動的なカール・フォン・サヴィニーは法学を教えていた。ゲオルグ・ニーバーは歴史の講義をしていた。一八一八年にはへーゲルがフィヒテから哲学講座を受け継いだ。ヘーゲルを教授陣に迎えると、大学は当然ながらへーゲル派の思想の中心地となった。

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P68-69

保守的な街であったベルリンですが、その一方で知識人たちによる新たな動きが出始める土壌がこうして出来上がっていたのでした。

マルクス、エンゲルスはこうしたベルリンで若き日を過ごしていたのです。

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