名作『ドン・キホーテ』のあらすじと風車の冒険をざっくりとご紹介 釈隆弘の世界一周記―スペイン編⑪

スペイン編

前回までの記事で小説『ドン・キホーテ』ゆかりの地カンポ・デ・クリプターナとエル・トボソ村をご紹介した。

『ドン・キホーテ』はラ・マンチャ地方を舞台にスタートした小説だ。

だがこの『ドン・キホーテ』、名前は聞いたことがあっても実際にどんな小説で何がすごいのかということになると意外と知られていない。

作中ドン・キホーテが風車に突撃するというエピソードが有名ではあるものの、その出来事の理由は何かと問われてみるとさらに謎になってくるだろう。

『ドン・キホーテ』は有名ではあるけれども、実は謎に包まれた小説と言えるかもしれない。

というわけで、今回の記事ではざっくりとではあるが『ドン・キホーテ』のあらすじと風車のエピソードについて考えていきたい。

『ドン・キホーテ』はスペインの作家ミゲル・デ・セルバンデス(1547-1616)によって書かれた大作だ。

これまでに幾人もの作家による翻訳が出版されているが、ぼくは岩波文庫の牛島信明訳を愛読している。

牛島信明訳はとにかく読みやすい。言葉遣いも現代的でぼくたちが読んでも全く違和感なく読むことができる。

『ドン・キホーテ』は古典だ。そのため古い翻訳では明らかに古典チックな翻訳がなされている。

それはそれで古典ならではの味のある翻訳なのかもしれないが、身近な文体で楽しく読書しようとするなら岩波文庫の牛島信明訳がベストなのではないかとぼくは思う。

古典と言えば哲学書のような難解な文章をイメージするだろうが牛島信明訳はまったくそういうことはない。

さらに要所要所で挿入されている挿絵がまたすばらしい。

ドン・キホーテの様子がより鮮明に想像できて物語に入り込みやすくなる。

一言で言うならば「こんなに読みやすい古典はなかなかない」と断言することができるだろう。

さて、本題に戻ろう。

ドン・キホーテはそもそも一体どんな小説なのだろうか。

ざっくりとしたあらすじはこうだ。

「騎士道本にのめり込み、昼夜を問わず夢中で読み続けた主人公アロンソ・キハーノはある日理性を失い、とある妄想に憑りつかれる。

それは騎士道本に描かれた世界はかつて実在し、それを16~17世紀の現代に復活させ、理想の世界を実現させるというものであった。

この考えに憑りつかれた主人公は自らを騎士ドン・キホーテと名乗り、遍歴の旅へと出発する。

そしてその行く先々で持ち前の妄想と狂人じみた行動で様々な冒険を繰り広げていく」

という物語が『ドン・キホーテ』の大きな流れだ。

これではまだわかりにくいので、さらに現代風に例えて言うならばこうなる。

「主人公は『ワ〇ピース』の世界がかつて実在し、その世界こそが理想の世界であると考えた。

主人公は自ら海に漕ぎ出すことでその世界を現代に蘇らせることが可能であると信じ込み、海賊王になるために冒険の旅に出る。」

騎士道物語とは16世紀にスペインで大流行した小説群だ。

主人公はもちろん遍歴の騎士という旅の騎士。

そして彼らは囚われの姫や虐げられた人々を救うために恐ろしい巨人や魔法使いと勇敢に戦い、平和をもたらす。

ドン・キホーテが読んでいた騎士道本とはまさにこのような本で、その中の描写では騎士の一太刀でそびえ立つ塔のように大きな巨人を真っ二つに断ち切ったり、魔法使いの力であっという間にはるか彼方に移動したり、不思議な出来事が起こったりする。

これはまさしく『ワ〇ピース』にも描写されている世界観でもある。

つまり、ドン・キホーテはありもしない世界を現実のものと思い込み、そしてさらに自分がそれを実際に行えると信じ込んで冒険の旅に出たのだ。

その冒険の一つが有名な風車のシーンにつながっていく。

カンポ・デ・クリプターナの風車

「ドン・キホーテは風車を巨人と間違えて突撃した」

これはよく聞かれるエピソードである。

しかしドン・キホーテは本当に間違えて突撃したのだろうか。

実はこれは非常に微妙な問題なのだ。

ドン・キホーテは実際に風車を巨人と信じ込み突撃した。そして彼の眼には本当に巨人として見えていたのである。

しかし風車に突撃したドン・キホーテは、風車の羽に突き刺した槍ごと吹っ飛ばされ宙を舞い、地面に叩きつけられてしまった。

それを見た従士のサンチョに「やれやれ、なんてこった」と呆れられた後もドン・キホーテはこう返す。

「わしから巨人退治の栄誉を奪うために魔法使いめが巨人を風車に変えおったにちがいない」と。

彼曰く、たしかにあれは巨人であったのだが、魔法使いの仕業で今は風車になってしまったと弁解しているのだ。

ドン・キホーテは間違えて突撃したのではない。

彼は巨人だと本当に信じていたしそう見えていたのだ

間違えたということと、信じていたということではやはり微妙だが何か決定的に異なるニュアンスを感じさせる。

「信じれば見える世界が変わってくる。」

みなさんも次のようなことを経験されたことはないだろうか。

自分は絶対見た、あるいは見なかったと思っていたことが他人からすると意見が合わない。そして衝突し言い争いになる。

「絶対に私は見た!間違いない!」

「そんなものは絶対になかった。見たはずはない!」

「言った言わない論争」も同じ原理だ。

目に見えている世界は唯一の現実ではない。

ぼく達は見たいものしか見ず、聞きたいことしか聞かないようにできている。

知らず知らずの内にぼく達は情報の取捨選択をし、その結果出来上がったものを「唯一の世界」として認識しているに過ぎない。

他人と自分の見ている世界はまるで違うものなのだ。

作者のセルバンデスはドン・キホーテの一見不思議で愉快な冒険の中にこうした裏のメッセージをふんだんに忍ばせている。

セルバンデスのこうした手法は次の記事で改めて紹介したいと思うが、とにかく、有名な風車のシーンはこうしたドン・キホーテの妄想によって生み出されたエピソードだということをお伝えしたい。

さてドン・キホーテは上下巻合わせて6冊、しかも1冊あたり400ページを超える大ボリューム。

積み重ねてみれば一目瞭然。新書と並べて見てもその差は明らかだ。

正直、この分厚さが読者を遠ざけているのではないかとぼくは思ってしまう。

これを一気に読もうと思うとかなりの覚悟が必要になるのは明白だ。なかなか気軽に手を伸ばしてみようとは思えない。

だが、安心してほしい。

この風車のエピソードは全2400ページを超える中の140ページくらいから始まる。

なんと、この風車のエピソードは小説『ドン・キホーテ』のかなり早い段階でお披露目されているのだ。

ぼくも初めて読んだ時はかなり驚いたものだ。

まさかあれほど有名なシーンがこんなに早く登場してくるとは夢にも思わなかった。

間違いなくこの風車の冒険は小説『ドン・キホーテ』のハイライトの一つだ。

それにぼくの個人的な感想ではあるが、ぼくの大好きなシーンが多いのはこの前編(1)と(2)というはじめの2冊だ。

『ドン・キホーテ』という大作は6冊もの大ボリューム。

でも無理していきなり全て読む必要はないのではないかとぼくは思う。

『ドン・キホーテ』はシンプルに読み物として面白い本だ。

その中でも最初の1冊目は特に面白い。

冒頭の序文はとっつきにくいが本文に入ってしまえばすこぶる読みやすい。

思わずくすっとしてしまうようなユーモアあふれる文章が続いていく。

とりあえず1冊目を読んでみてそれで続きが気になるなら2冊目以降へと進んでいく。

それくらいの気持ちでまずは十分なのではないだろうか。

大ボリュームに威圧されて1冊も読まないというのは本当にもったいない。

1冊目にこそドン・キホーテの面白さのエッセンスが凝縮されている。

おまけに世界的に有名な風車の冒険にもしっかりとお目にかかることができる。

これを味わうだけでも十分すぎる価値があるのではないかとぼくは思う。

ドン・キホーテの1冊目は非常におすすめ。

世界の名作と言われるにはそれなりのしっかりとした理由がある。

次の記事では『ドン・キホーテ』の何がすごいのかということについてお話ししていきたい。

続く

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