(14)マルクスの破天荒な学生時代とは~妻イェニーとの出会いも

マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ

マルクスの破天荒な学生時代~妻イェニーとの出会いも「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(14)

上の記事ではマルクスとエンゲルスの生涯を年表でざっくりとご紹介しましたが、このシリーズでは「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」というテーマでより詳しくマルクスとエンゲルスの生涯と思想を見ていきます。

これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。

この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。

当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。

そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。

この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。

一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。

その他参考書については以下の記事「マルクス伝記おすすめ12作品一覧~マルクス・エンゲルスの生涯・思想をより知るために」でまとめていますのでこちらもぜひご参照ください。

では、早速始めていきましょう。

マルクスと妻イェニーとの出会い

イェニー・フォン・ヴェストファーレン(1814-1881)Wikipediaより

マルクスはむしろ、彼の感情的エネルギーをまるで別の家族、フォン・ヴェストファーレン家へと注いでいた。ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン男爵は、カトリック教徒が大多数のトリーアのなかのプロテスタントであり、プロイセン政府内でリべラルな思想のキャリア官僚になっていた。

貴族の家系でありながら、彼はブルジョワのハインリヒ・マルクスと親交を結び、田舎を歩き回るハイキング旅行にでかけた際にはその優秀な息子のカールとの会話を楽しんだ。道中、この息子はシェイクスピアやホメーロスをたっぷりと暗唱してみせたのだ。

だが、カールはルートヴィヒの娘で、美人のイェニー・フォン・ヴェストファーレンのほうにより関心があった。そして、誰もが驚いたことに、イェニー―プロイセン貴族の洗練された令嬢で、「トリーアでいちばんの美人」―は、毛深いユダヤ人少年の才気あふれる機知と大見得に惚れ込んだのだ。

一八三六年に、彼女は士官の婚約者との縁談を断り、のちに自分の「黒イノシシ」、「イカサマ師」と呼ぶようになる男性と将来の約束をしたのである。

最終的に定着した呼び名は、彼女の「ムーア人」(もしくは「モール」)で、そこにはレヴァント的な神秘性と、毛深い東洋風の「異質感」が言外に込められていた。

マルクス自身の家族は、ますます無謀になる彼の活動に難色を示したが、イェニーは彼が問題を起こし、急進派の学生となり、手に負えない性急な行動をとっても、ただそれを楽しんでいた。二人は一八四三年に結婚した。「彼らの愛は困難の連続の人生が与えるあらゆる試練にも打ち勝った」と、シュテファン・ボルンは表現した。「これほど幸せな結婚生活はまず知らない。彼らはたがいに喜びも悲しみも(多くは後者だが)分かち合い、あらゆる痛みも相手は完全に自分のものであるという相互の安心感で克服されていた」
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P85-86

まず、若きマルクスがシェイクスピアやホメロスを暗唱していたというのは注目に価します。彼が『資本論』という桁外れの影響力を持った作品を書けたのも、こうした卓越した文学的才能があったからではないでしょうか。シェイクスピアやホメロスという古典の傑作を暗唱できるほど読み込んでいたという事実。これは重要であると思います。

そして身分違いにも関わらず、貴族で町一番の美人の娘を虜にしたバイタリティー。

やはりマルクスは一味違います。何と言えばいいのでしょう、普通の価値基準では測り切れないとてつもないスケールをマルクスから感じます。

破天荒な学生時代を過ごす青年マルクス

少年時代のマルクスは、確かに腕白だった。両親から叱られてもいたが、同じくらい甘やかされていたので、一八三五年に自由に学生生活を送れるようになると、その結果は予想どおり慣習に逆らうものとなった。

ボンでは、彼は法学部の授業を抜けだして〈トリーア酒場クラブ〉の会長になった。クラブでは騒々しい飲み会が開かれ、拘置所で夜を明かすこともあり、プロイセンの士官との決闘事件まで起こしたが、幸い左目の上に切り傷を負っただけで逃れることができた。「決闘は哲学とそれほど密接にかかわり合ったものなのかね?」と、父ハインリヒは空しく尋ねた。「こうした性向を、そしてそれが性向でないとすれば、この一時的熱狂を根づかせないようにするのだ。これではおまえ自身からも、父と母からも、人生が与えてくれる最良の希望を奪うはめになるだろう」

エンゲルスの剣術の腕前ははるかに信頼のおけるものであったし、彼の気質もまた然りだった。エンゲルスはめったに体調を崩すことはなかったが、マルクスは年中、知的および肉体的許容限度すれすれの状態にいるようだった。

「九つもの講座は多すぎるように思うし、おまえの身体と精神が耐えられる以上のことはしないでもらいたい」。ハインリヒは大学生活を始める息子に警告した。「病弱な学者など、世の中で最も不幸な存在だ。したがって、健康を害するほどの勉強はしてはいけない」。

マルクスはそれにはお構いなしに、生涯つづく喫煙の習慣に乗りだし、夜更けまで読書や研究に打ち込むようになった。これだけの仕事量に大酒飲みが組み合わされば、その結果は致命的に近いものとなった。後年、ある「猛烈などんちゃん騒ぎ」のあと、雄牛のようなエンゲルスは翌朝、仕事に時間どおりしらふで現れたのにたいし、マルクスは二週間へばっていた。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P86-87
1836年ボン大学時代のマルクス Wikipediaより

この箇所で特に気になったのは最後の部分です。

後年、ある「猛烈などんちゃん騒ぎ」のあと、雄牛のようなエンゲルスは翌朝、仕事に時間に時間どおりしらふで現れたのにたいし、マルクスは二週間へばっていた。

マルクスとエンゲルスの特徴がものすごく表れているように思います。几帳面かつ社交的で体も頑健、まさしく将軍と呼ばれるにふさわしいエンゲルスと、何事にも過剰に飛び込み、全てを注ぎ込む鬼才マルクス。

この対比は非常に興味深かったです。

マルクスのボン大学時代の破天荒ぶりについてはジャック・アタリの『世界精神マルクス』を参考に以下補足していきます。

カールは一八三五年十月ボンに着いたが、学生の生活はよく組織され、ドイツのほかの地域よりかなり自由であった。友人となるため、新入生は大学生活を組織する多くの結社の一つに入会しなければならなかった。その結社には三つの種類があった。コルプス(KORPS)は同じ社会階層の若者組織であり(たとえばボルジア・コルプスはプロイセンの貴族の子供たちの結社であった)、郷土結社(Landsmannschaften)は同じ町の生まれの結社であり(トリーア人を集めたのが、トリーア人クラブであった)、ブルシェンシャフトは政治結社であり、とくに監視されていた。

重要なことは、カールがすぐに政治クラブに入ったわけではないということだ。当時三十人以上の会員がいたトリーア人クラブに入った。この年大学に入った七人のトリーアの新入生のうち、四人が法学を学び、すべてこのクラブのメンバーになった。

カールはその学力と人格的な魅力ですぐに頭角を現す。彼は、豊かな髪をなでつけ、すでに小さな髭さえ蓄えていた。中肉中背の彼は、ツシューの音が十分でないライン特有のアクセントで話をした。彼はすべて法外なスタイルを取った。勉強、朝までの勉強、肉体的、言語的暴力―そしてアルコール。しばしばバーやキャバレーに足を運び、喧嘩をする。敵から身を守るためにピストルさえ手に入れた。父が送ってくれる金では十分ではなく、飲んだり、食べたり、外泊したり、本を買ったりと、予想外の金を支出した。数カ月のうちに、一六〇ターレルという多額の借金をすることになり、父はそれを厳しく批判しながらも、しぶしぶ支払わざるをえなかった。こうして、カールと金との、憎しみと魅惑の入り混じった、かなり複雑な関係が始まり、それが彼独特の病になる。(中略)

カールは、一生懸命勉強した。法学の講義やプロぺルティウスについてのラテン語の文学講義とは別に、哲学を発見した。それは一つの啓示であった。それこそ彼の専門となるのだ。哲学において彼は満足を感じることになる。以後哲学から離れることはないだろう。

とりわけドイツ哲学の絶対的首領へーゲルを発見した。

藤原書店、ジャック・アタリ、的場昭弘訳『世界精神マルクス』P38-40

とてつもないお金の使い方をし、その度に父にお金をせびっていたマルクス。この構図はエンゲルスに資金援助を請うことになる後年の姿とも重なってきます。

そしてマルクスはボン大学でヘーゲルと出会い、研究にのめり込んでいくようになったのでした。

1836年、ボン大学からベルリン大学へ~ヘーゲル哲学研究とビール知識人たちとの交流

一年間、ボンで無為に過ごしたあと、マルクスは法学の勉強をつづけるためにべルリンへ移った。

ヘーゲル主義の中心地では、「新たな不道徳家どもが言葉をねじ曲げており、おかげで彼ら自身の耳にも聞こえなくなっている」のだと考え、息子を待ち受ける知性面の危機を警告する言葉とともに彼を送りだした。

マルクスはもちろん、そのような忠告は気にも留めず、エンゲルスが練兵場を抜けだして講堂へ向かったようにそそくさと、法学の勉強に代わって哲学を学ぶようになった。

彼がヘーゲル体系に転向するのに時間はかからなかった。いかにも自由人らしく、彼はフランツェジッシュ・シュトラッセのビール酒場で、青年へーゲル派の仲間とともにそれを祝った。アーノルド・ルーゲとブルーノ・バウアーとともに、彼はヒッぺルのワイン酒場を根城に、大酒を飲みながら哲学談義にふけるドクトルクラブを結成した。

故郷トリーアでは、ハインリヒがくやしがった。「なんということだ。おまえの振る舞いは支離減裂で、あらゆる分野の知識をさまよい、ランプの薄暗い灯りのもとでかび臭い伝統をたどっている。ぼさぼさの頭で部屋着のまま過ごす学者的な退廃が、ビール・グラスによる退廃に取って代わったのだ」と、彼は息子に書いた。「世の中とのかかわりは、おまえのむさくるしい部屋だけに限られている。そこではおそらくイェニーとやらのラブレターも、おまえの父からの涙でにじんだ忠告の手紙もお馴染みの乱雑さで散らばっているのだろう」。

だが、哲学の火は灯されてしまったのであり、いまやマルクスには両親のつまらない心配事に割く時間はますますなくなっていた。へーゲル主義の哲学的高地に登るあいだ、両親からお金をせびりつづけることを除けば。

ハインリヒは最期まで、息子の人生が向かいつつある方向に絶望しながら、一八三八年に結核で死去した。カール・マルクスは葬式には参列しなかった。そして、いかにも彼らしい涙もろい身勝手さで、その後生涯ずっとハインリヒの肖像画を身につけていた。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P87-88

このままでは勉強もせずに堕落していくだけだと恐れた父はベルリン大学へとマルクスを送り込みます。

名門ベルリン大学は学問の中心地であり、上の記事でも述べたように錚々たる人物を輩出していました。

マルクスがこの大学に在籍していた頃にはあのロシアの文豪ツルゲーネフも学生として通っていました。

また、マルクスとはニアミスになってしまいますが、後の盟友エンゲルスもこの大学に「もぐり」で通っていたという驚きの事実もあります。

後にヨーロッパ中を動かしていく大人物たちがここで一堂に会していたというのは非常に興味深いですよね。

ただ、名門ベルリン大学でしっかりと学問を積んでくれるよう願っていたマルクスの父でしたが、残念ながらその目論見は外れることになります。

彼はここでもどんちゃん騒ぎを繰り返し、ヘーゲル哲学に熱中したことで革命家への道をひたすらに突き進むことになるのでありました。

そして最後の箇所で、

「ハインリヒは最期まで、息子の人生が向かいつつある方向に絶望しながら、一八三八年に結核で死去した。カール・マルクスは葬式には参列しなかった。そして、いかにも彼らしい涙もろい身勝手さで、その後生涯ずっとハインリヒの肖像画を身につけていた。」

と説かれていることにも注目です。ここでいう「いかにも彼らしい涙もろい身勝手さ」というのはこの後の彼の人生の中でも何度も出てきます。マルクスの性格を構成する要素としてこの部分は非常に重要なものがあると私は感じました。

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