(36)マルクスの『共産主義者宣言』が出版直後には世間から無反応だったという驚きの事実

マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ

マルクス・エンゲルス『共産主義者宣言』の出版とその反響「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(36)

上の記事ではマルクスとエンゲルスの生涯を年表でざっくりとご紹介しましたが、このシリーズでは「マルクス・エンゲルスの生涯・思想背景に学ぶ」というテーマでより詳しくマルクスとエンゲルスの生涯と思想を見ていきます。

これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。

この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。

当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。

そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。

この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。

一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。

その他参考書については以下の記事「マルクス伝記おすすめ12作品一覧~マルクス・エンゲルスの生涯・思想をより知るために」でまとめていますのでこちらもぜひご参照ください。

では、早速始めていきましょう。

共産主義者同盟の成立と「革命用教理問答」作成の任務を受けるエンゲルス

感心なことに、エンゲルスは次々に女性をくどきながらも、政治面での前進も遂げていた。一八四七年六月に、正義者同盟の大会がロンドンで開かれ、マルクスとエンゲルスも新会員として招かれた。(中略)

この大会は、共産党の発展においてきわめて重要な瞬間となった。代表団は名称を正義者同盟から共産主義者同盟に変えることで合意し、標語は「人類はみな兄弟だ」から、もっとずっと大げさな「万国の労働者、団結せよ!」に変更された。

エンゲルスはこの大会で同盟のために、彼らの政治哲学的立場を示す「革命用教理問答カテキズム」を作成する任務を負った。その結果が「共産主義の信条表明の草案」となり、題名そのものが初期の共産主義運動の特徴であった宗教的熱狂と個人的献身の融合であることを露呈していた。

問1 あなたは共産主義者か?
答  はい。
問2 共産主義者の目的は何か?
答  社会を構成するすべての人が、みずからの能力と権力を完全に自由に、かつ、この社会の基本的条件を侵害することなく発展させ、発揮させられるように社会を組織することだ。
問3 それをどのように達成したいのか?
答  私的所有を廃止し、代わりに財貨共有制コミュニティ・オブ・プロパティ〔共産〕にすることで。

二十数問まで続く信条表明の草案は、マルクスとエンゲルスが忌み嫌った真正社会主義や空想的社会主義と似た部分も多く含む妥協の文書で、柄にもなく次のような曖昧な一節まで含まれていた。「各人が幸せになるべく努力する。それぞれの人の幸せはすべての人の幸せと切り離せないものである」。だが、この信条表明には非常に才気あふれた大衆受けしそうな要素もあり、それが最終的に『共産主義者宣言』となった。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P190-191

「教理問答」という用語は明らかにキリスト教、つまり宗教から来ています。

そして、「題名そのものが初期の共産主義運動の特徴であった宗教的熱狂と個人的献身の融合であることを露呈していた」と述べられるように、マルクス・エンゲルスのグループは宗教的な熱狂を持つ人たちをターゲットとして勧誘し、政治的な行動をしていることがここからうかがえます。

言い換えれば、すでに宗教的な熱狂にある人を宗旨替えさせて自分のところに引き込もうとしていたと言うことができるかもしれません。

『共産主義者宣言』の成立

「信条表明」と「共産主義の原理」の、荒削りで重苦しいところもある草案から、『共産主義者宣言』の淀みない散文が出現した。

「ユートピア的な自信と道徳的情熱、鋭い分析、および―少なからず―皮肉を交えた文学的能弁さというこの絶妙な組み合わせは、最終的に十九世紀においておそらく最もよく知られた、そして間違いなく最も広く翻訳された小冊子となった」と、エリック・ホブズボームは洗練された言葉でこれを描写した。

マルクスとエンゲルスはロンドンで『共産主義者宣言』の共同執筆作業を始め、のちにブリュッセルでもつづけた。

だが、最終版を発表したのはマルクスであり、委員会の総意が盛り込まれていないおかげで、同書はこれほど読みやすいものとなった。

その叙事詩的な書きだし―「ヨーロッパに亡霊が出没する―共産主義という亡霊が」から、挑戦的な結びの言葉―プロレタリアには失うものは束縛されていた鎖しかない。彼らには勝ち取るべき世界がある。万国の労働者、団結せよ!」にいたるまで―これは、英雄的な調子で一気に書かれた論争の書なのである。

とはいえ、同盟の会議でも、草案を練る過程でも、知的に困難な作業の多くはエンゲルスが担った。ドイツの社会主義指導者ヴィルヘルム・リープクネヒトはそれをきちんと見抜いていた。「何を一方が提供し、もう一方は何をしたのか?そんなことはくだらない質問だ!これは一つの鋳型からつくられていて、マルクスとエンゲルスは一心同体なのだ。生涯にわたってあらゆる作業でも計画でも二人がそうであったように、「共産主義者宣言」においても切り離すことはできない」
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P194-195

「ヨーロッパに亡霊が出没する―共産主義という亡霊が」

「万国の労働者、団結せよ!」

という言葉で有名なマルクス・エンゲルスの『共産主義者宣言』ですが、実は次の言葉も非常に重要です。

「プロレタリアには失うものは束縛されていた鎖しかない」

これがなぜ重要なのかはぱっと見ただけではわかりにくいかもしれません。

このことについては次の記事で改めてお話ししていきますが、マルクス主義は基本的に「失うものがない人」を煽動していくことが必須要件になります。

詳しくは次の記事をご覧ください。

『共産主義者宣言』におけるエンゲルスの影響

『共産主義者宣言』はプロレタリアートの出現に関する説明では、おそらくエンゲルスの過去の著作に多くを負っていることは明らかだ。

たとえば、「仕事が見つかる限り生きており、その労働が資本を増やす限り仕事を見つける労働者の階級」の部分である。この社会経済的な説明は、社会を共産主義へと移行させるうえで産業革命がはたした役割を大前提としており、『イギリスにおける労働音階級の状態』のぺージからじかに引用したようなものだ。

イギリスのプロレタリアートが歩んだ特異な歴史がにわかに、労働者階級の発展を表わす一般論となったのである。

『共産主義者宣言』は、エンゲルスがすでに概説した多くの考えを繰り返し、再び強調している。同書はブルジョワ社会の不道徳な本質を次のように攻撃した。

「それは人間を〈生まれつきの上位者〉と結びつけていた雑多な封建的絆を容赦なく断ち切り、そのあとに残された人と人の結びつきと言えば、むきだしの私利追求、すなわち無情な〈現金支払い〉しかない」。

また、ブルジョワ政府の階級的偏見をあらわにし、「近代の国家権力はブルジョワ階級全体の庶務を管理する委員会に過ぎない」とした。ブルジョワ階級が何よりも、「みずからの墓掘人」を生産していることへの痛烈な皮肉も指摘した。

そして共産主義の中心的な要求は、「一文に要約できる。私的所有の廃止である」と、繰り返した。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P195

ここで述べられているように、『共産主義者宣言』の多くはエンゲルスの思想に負っています。

この作品に多大な影響を与えた『イギリスにおける労働者階級の状況』については以下の記事をご参照ください。

また、このエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』はイギリスの歴史家トマス・カーライルの影響を強く受けています。

「むきだしの私利追求、すなわち無情な〈現金支払い〉」という有名な言葉はマルクスが言ったかのように思われがちですが元々はカーライルの『過去と現在』という作品から来ています。そこからエンゲルスがその言葉を拝借し、それがさらにマルクスとの共著という形で『共産党宣言』に取り込まれていたのでした。

発刊当時の『共産主義者宣言』の驚くほどの反響のなさ~フランス二月革命の勃発の影響

『共産主義者宣言』は発刊された当時はなんの衝撃ももたらさなかった。同書は一八四八年二月にドイツ人労働者教育協会のロンドン出版部から刊行されたが、圧倒的な「沈黙の申し合わせ」に遭った。

共産主義者同盟の数百名のメンバーがそれを読み、英語版は一八五〇年にジュリアン・ハーニーの『レッド・リパプリカン』紙に連載されたが、この小冊子は広く売りだされることもなければ、目立った影響力をもつこともなかった。

これは何よりも、歴史がすでに同書に追いついていたからだった。

すでに多くを達成していたブルジョワ階級は、第二の策を講じようとしていた。

フランス王ルイ・フィリップの王政の抹消である。一八四八年二月二十四日の朝、アレクシ・ド・トクヴィルはパリのアパルトマンをでて冷たい風に顔を向け、「空気に革命のにおいがする」と断言した。

その午後には、カプシン大通りは血にまみれ、シャンゼリゼ沿いの街路樹はバリケードをつくるために切り倒され、一八三〇年の七月王政は露と化した。

「われわれの時代、民主主義の時代が明けている。テュイルリー宮殿とパレ・ロワイヤルの炎はプロレタリアートの夜明けだ」と、エンゲルスは叫んだ。ゴールの雄鶏が時を告げていた。パリはその目的をはたしつつあった。革命が到来したのだ。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P196-197

『共産主義者宣言』がほとんど世の中から無視されていたというのは驚きですよね。今となっては二〇世紀に最も読まれた本のひとつとして知られている本がまさかそういう状況だったとは。

ここでは「無視された」と表現されていますが、正直「無視」ならまだましです。無視なら一応は「存在は知りつつも見ないことにしている」ということだからです。ですが実際のところは存在すらほとんど知られていなかったのかもしれません。

さらにこの後マルクスの主著となる『資本論』も同じように発刊当時は反響が少なかったのでした。マルクスが亡くなった時も会葬者はほとんどいません。

二〇世紀にあれほど大きな影響を世界に与えた人間が、存命中にはそこまで影響力がある人間ではなかったのです。私たちは彼らが絶大な影響を及ぼしたという結果から遡って彼らの生涯や思想を見てしまいます。ですが、そこから歴史のずれが生まれてしまうのです。

マルクス礼賛本ではこの『共産主義者宣言』や『資本論』は驚くほど高く評価され、讃美されています。

ですが、この本が書かれた当時はそのような評価を受けてはいなかったということ。そしてマルクスの死後しばらく経ってから評価され始めたという事実。こうしたことはなぜ起こるのかというのは重要な視点かもしれません。

また、フランス二月革命の勃発で読まれなくなったと著者は述べていますが、たしかにそれは大きな要因だったと思います。

この革命については上の引用でも出てきたトクヴィルの著作が革命の経緯や背景を知る上で非常におすすめです。

次の記事ではこの『共産主義宣言』についての見解と、マルクスはプロレタリアートをどのような存在として見ていたのかということをウルリケ・ヘルマン著『スミス・マルクス・ケインズ よみがえる危機の処方箋』を参考に見ていきます。

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