スコットランドの空想的社会主義者ロバート・オーエンとは「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(21)

マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ

スコットランドの空想的社会主義者ロバート・オーエンとは「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(21)

上の記事ではマルクスとエンゲルスの生涯を年表でざっくりとご紹介しましたが、このシリーズでは「マルクス・エンゲルスの生涯・思想背景に学ぶ」というテーマでより詳しくマルクスとエンゲルスの生涯と思想を見ていきます。

これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。

この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。

当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。

そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。

この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。

一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。

では、早速始めていきましょう。

スコットランドの空想的社会主義者ロバート・オーエンとは

フランスの空想的社会主義者サン・シモンとシャルル・フーリエについては以下の記事で述べました。

サン・シモン(1760-1825)Wikipediaより
シャルル・フーリエ(1772-1837)Wikipediaより

今回の記事ではエンゲルスが3人の空想的社会主義者として挙げた最後のひとり、スコットランドの実業家ロバート・オーエンについてお話ししていきます。

ロバート・オーエンはエンゲルスが考える「空想的ユートピア社会主義者」の三人指導体制の最後の一人で、シャルル・フーリエとサン=シモンとともに、夢想家の殿堂に加わった。

彼らはいずれも、エンゲルスがのちに考えるように、科学的社会主義のような厳密さをもって歴史を充分に評価しなかったために立場を失った。しかし、オーエン自身は、マルクスやエンゲルスが考えもしなかったほど、はるかに現実的に社会正義を理解していたと主張できたのである。

結婚によって繊維製造業を職業とするようになった彼は、スコットランドのニューラナークの工場を公正な雇用と地域結束のモデルにするべく試みた。

オーエンの出発点となったのは、人間にとっては性格ではなく、条件付けが鍵であるというものだった。

原罪というのは誤った考えであり、代わりに必要なのは、人間のあいだで協同による最善の状態を引きだすことを目的とした、教育的・社会的精神なのであった。

オーエンはニューラナークで慈善心に富む、商業中心の独裁政治を行い、労働時間の短縮、未成年雇用の禁止、アルコール飲料の販売制限、生活環境の改善、無償の初等教育の導入を試みた。

『新社会観―人間性格形成論』(一八一三~一四年)のなかで、彼は自分の取り組みがいかに社会全般に応用できるかを詳述した。同書は一八一九年の「綿工場と工場法」制定に一役買い、繊維産業界で働く九歳から十六歳の子供の労働時間を一二時間に制限した。

とはいえ、議会でどれだけ多くの改善条例が通過しても、ナポレオン戦争後の時代にイギリスが見舞われた構造的な貧困への解決策は、従来どおりの政治からは決してもたらされなかった。

その根底にある欠点は組織的なキリスト教にあるのだとオーエンは判断し、それが人びとを迷信から後進的な状態につなぎとめ、社会に競争中心の気風(私的所有への固執に例証されるように)を生み、人間の本質を損なっているのだと考えた。

オーエンは産業改革の原点から大きく逸脱して、社会を再生させるために道徳全般の改革を主張するようになった。これは「古い不道徳な世界」の不正から脱却して、フーリエと同様に、農業と産業にもとづく新しい社会を築くことを意味し、そこでは教育と協同が再生プロセスを促進させるものとされた。

「子供は宗教や神学上の論争からも、ギリシャ語やラテン語からも苦しめられることはない」と、エンゲルスはハンプシャー州クィーン農場にあった初期のオーエン派集落を賞賛して書いた。「その代わりに、子供らは自然にも自分の身体にも知的能力にもより精通するようになる……彼らの道徳教育は一つの原則の応用に限定される。すなわち、自分がやられたくないことは、相手にもしない、というものだ。言い換えれば、完全な平等と博愛の実践である」。

だが、フーリエのファランジュやサン=シモン派と同様に、計画的なオーエン派共同体はイギリスでもアメリカでも費用ばかりがかかって短命に終わる結果となった。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P118-119
ロバート・オーエン(1771-1858)Wikipediaより

エンゲルスに空想的社会主義者と呼ばれたロバート・オーエンですが、上の引用にもありますように、彼は明らかに他の二人とは異質な存在です。結果的に彼の社会主義は失敗してしまいましたが、その理念や実際の活動は決して空想的なものではありませんでした。

後の記事で改めて紹介しますが彼の自伝では、彼がいかにして社会を変えようとしたかが語られます。19世紀のヨーロッパにおいてここまで労働者のことを考えて実際に動いていた経営者の存在に私は非常に驚かされました。

彼のニューラナークの工場は現在世界遺産にも登録されています。

ニューラナークの工場跡 Wikipediaより

産業革命といえば資本主義の進展によるブルジョワの悪辣さが強調されがちですが、ロバート・オーエンという人物が存在し、彼の姿に感銘を受けて行動していた人たちもたくさんいたという事実も忘れてはならないと思います。

エンゲルスも感銘を受けたオーエン派社会主義者たちの活動

オーエン派の人びとはロンドンやブライトンで一連の協同組合店、物資の直接的な売買のための〈労働交換所〉、労働の目的を高めるための労働組合、〈科学館〉のネットワーク(万国全階級協会の旗印のもとで)を創設し、社会主義や仲間意識、理性にもとづく考え方を推進した。

なかでも最大かつ最も積極的な支部で、四四〇人の会員をかかえ、専用の科学館を備えたものがまずソルフォードにつくられた。やがて社会主義への関心が北西部に急速に広まったために、一八四〇年にはマンチェスターのキャンプフィールド内の広大な敷地に移設された。フランスの批評家レオン・フーシェはこの科学館を次のように追想している。

壮大な建物で、もっぱら機械工と職人たちの蓄財によって七〇〇〇ポンドの費用をかけて建てられたもので、講堂もある。市内で最も立派で広いホールだ。ここにはオーエン氏の弟子たちが賃借人として入っている。社会主義の学説に関する日曜日の講義に加え、ここでは昼間学校と日曜学校があり、オラトリオと祭りによって―地方への遠足や、労働者階級に安価で健全な娯楽を提供することで―支持者数を増やしている……。多額の資金が集められていることは、彼らが労働者階級のなかでも裕福な階層に属していることを証明する。日曜の夕べの集会はたいてい込み合っている。

一八四〇年代のマンチェスターの〈社会主義者集団〉は、多めに見積もると八〇〇〇人から一万人と言われ、日曜の夕べに科学館には三〇〇〇人もが詰め掛け、フリードリヒ・エンゲルスもその一人だった。バルメンの酔いどれ職人を見慣れていたエンゲルスは、イギリスの労働者階級が自分たちの考えを明確に述べることに大いに感銘を受けた。

「科学館で、ごく普通の労働者が政治、宗教、社会の問題について明確に理解して語るのを聞けば、最初は驚きを禁じえない」。実際には、彼はしばしばファスチァン(コーデュロイ)の上着がいまにもほつれそうな労働者が、地理、天文学などの話題を、ドイツの最も教養ある、、、、ブルジョワがもっている以上の知識を示してしゃべる」のを耳にした。

これはルソーやヴォルテール、〔トマス・〕ぺインなど、マンチェスターの労働者階級のあいだで―中流階級ではなく―根強い人気のあった作家の文学を貪欲に読みあさった成果だと、エンゲルスは考えた。「バイロンとシェリーはほぼ下層階級だけに広く読まれている。世間体のよい、、、、、、人間が机の上に後者の作品を置こうものなら、ひどく信用を失墜せずにはいられないだろう。
※一部改行しました


筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P120-121

オーエン派の活動はイギリスの教育に多大な影響をもたらし、それはエンゲルスが感銘を受けるほどのものでした。

エンゲルスの故郷バルメンの労働者事情については以下の記事でお話ししましたのでこちらも参照して頂ければその違いがよりはっきりすると思います。

オーエン派の衰退とチャーティスト運動の勃興

マンチェスター内では間違いなく勢いがあったにもかかわらず、一八三〇年代末になると、オーエン派は全国的な労働者階級の政治では勢力を失いつつあった。

彼らの地位は、わかりやすい六カ条の要求を突きつけたチャーティストによって取って代わられた。その要求とは、青年男子普通選挙、秘密投票、毎年の選挙、同等の人口規模の選挙区、議員への歳費支給と、議員になるための最低財産資格の廃止(それによって労働者階級の代表も選出されるようにすること)であった。

オーエン派の空想的野心とは対照的に、彼らが掲げた憲章は、労働者階級が置かれた状態への政治的解決策を見いだすための実際的な試みだった。これはランカシャー州でどこよりも熱烈に受け入れられ、マンチェスター政治連合が松明を掲げた行進や、カーサル・ムーア―いわゆるチャーティスト運動の聖なる山―での「巨大集会」が組織された。一八三八年九月には三万人ほどがそれぞれの労働組合の旗のもとに集まり、チャーティスト運動の指導者ファーガス・オコナーの熱弁を聞いた。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P123

上の解説にもありましたように、オーエン派の活動も最後には衰退していってしまいます。

その大きな原因となったのがイギリスの新たな政治運動である「チャーティスト運動」でした。

次の記事ではこのチャーティスト運動についてより詳しく見ていきたいと思います。

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