ツルゲーネフ『ハムレットとドン キホーテ』あらすじと感想~ツルゲーネフの文学観を知るのにおすすめ

ハムレットとドン・キホーテ ロシアの文豪ツルゲーネフ

ツルゲーネフ『ハムレットとドン キホーテ』あらすじ解説―ツルゲーネフの文学観を知るのにおすすめ

ツルゲーネフ(1818-1883)Wikipediaより

『ハムレットとドン キホーテ』は1860年にツルゲーネフによって行われた講演を論文化した作品です。

私が読んだのは岩波書店、『ハムレットとドン キホーテ』所収、河野與一訳『ハムレットとドン キホーテ』です。

今回はこの本の巻末解説が非常にわかりやすかったので、こちらを参考にしながらあらすじと解説をまとめて紹介していきます。

では、早速見ていきましょう。

『ハムレットとドン キホーテ』は一八六〇年に行なわれた講演で、我が国でもつとに知られた有名な論文である。

ツルゲーネフはここでハムレットとドン キホーテを、それぞれ、「求心的」人間と「遠心的」人間、考えてばかりいてさっぱり実行しない頭だけの人間と何の反省もせず衝動のままに動くので行為がいつもちぐはぐになる感情の人間、自分にだけかまけていて他人のためには藁屑ひとつ動かそうとしないエゴイストと真理と理想を信じ自己をまったく犠牲にして虐げられる人々を救わんとする実行者、として対置する。

ツルゲーネフはこの二つのタイプの性格に早くから興味をもっていて、一八四五年作の韻文小説『対話』がすでにかような二人の人間の対話であり、その後も多くの作品にこの二つのタイプを描きわけた。

『煙』のリトヴィーノフ、『春の水』のサーニンはドン キホーテ型である。

ハムレット型は殊に好んで描いた人物で、『シチグロフ県のハムレット』は言うにおよばず、ルーヂン、『余計者日記の』の主人公、アーシャが恋した男等々いずれも多かれ少なかれハムレットである。

ツルゲーネフはこれらの人物において、才能も教養もありながら決断力も情熱もない人間、辯舌は巧みで実際には無能な人間、意識過剰で反省ばかりしていて何ひとつ実行しない人間、女をひきつけておきながらいざとなると逃げを打つ人間の、いろいろな姿を描こうとした。そしてシェイクスピアのハムレットにおいて、その最もいちじるしい典型を見た。
※一部改行し、旧字体を新字体に改めました。

岩波書店、河野與一、柴田治三郎訳『ハムレットとドン キホーテ』P121-122

この作品はツルゲーネフがハムレットとドン・キホーテについて思うことを述べた論文です。

ツルゲーネフにとってこの2人は彼の作品創作に非常に重要な影響を与えたキャラクターであり、彼の作品にはその面影が随所に見られます。

『ハムレット』はシェイクスピアでも最も有名な作品の一つですのでその内容やあらすじをご存知の方も多いかと思います。

ですがドン・キホーテとなると名前は知っていてもなかなかその内容は知られていません。

以前私の記事でそのドン・キホーテについてざっくり述べた記事がありますので、興味のある方は以下をご参照ください。

名作『ドン・キホーテ』のあらすじと風車の冒険をざっくりとご紹介 スペイン編⑪
『ドン・キホーテ』はなぜ名作なのか~『ドン・キホーテ』をもっと楽しむためのポイントを解説 スペイン編⑫

ツルゲーネフはハムレットとドン・キホーテを対置することで2人の性格を際立たせました。

常に自分のことでうじうじ悩むハムレット型、そして常に他者のために行動するドン・キホーテ型をツルゲーネフは見るのです。

引き続き解説を見ていきましょう。

ハムレットをそんな人間と見るのはツルゲーネフに初まったことではない。ゲーテはハムレットを徹頭徹尾、優柔不断な懐疑家で、自分に負わされた仕事の重みに圧しつぶされて滅んだ人間と考えた(『ウィルヘルム マイステルの徒弟時代』を参照せられたい)。

このゲーテのハムレット像はロマン主義的な気分の中で作られたものだが、それがその後のハムレット観をある程度規定することになり、ハムレットとはそんな人間だというのが言わば常識になっている。

ツルゲーネフの考えも、ハムレットを消極的な面から見る意味で、その系統に属しているが、しかしツルゲーネフは特にハムレットのエゴイズムを重視する点で、ゲーテの見方とはよほど違ってもいる。

ツルゲーネフによれば、ハムレットは自分の外部にあるものは何ひとつ信じない。いつも自分の内面にだけかかずらわって何事をも成就できない。すべてを自己中心に考えるのだから、人を愛することはできないし、どんな残酷なことでも平気でする。大言壮語はするが自ら一歩も動かないのだから人を動かすこともできない。
※一部改行し、旧字体を新字体に改めました。

岩波書店、河野與一、柴田治三郎訳『ハムレットとドン キホーテ』P122-123

ツルゲーネフはゲーテのハムレット観の影響を強く受けています。ハムレットが何もできない優柔不断な懐疑家であるという見方はそこに根があります。

しかし私も『ハムレット』を何度も読み、舞台でも見たのですが正直そのような見方には疑問を持ってしまいます。「本当にハムレットってそんな人なのだろうか。むしろ、悩み苦しみながらも運命と戦う立派な人間なのではないか」と。

そんな疑問に答えてくれるかのように、解説は次のように続けます。

しかし、シェイクスピアのハムレットは果たしてゲーテやツルゲーネフの目に映ったような人物だろうか。勿論ハムレットの複雑な性格には、その時々の状況に応じてそれらの特徴が現われる、、、、かも知れない。

しかし我々が既成のハムレット像にとらわれず、作品『ハムレット』そのものを全体としてありのままに眺める時、ハムレットの本質、、はもっと違ったものであるように思われる。

亡父への誠実、母への愛情、叔父の罪を確認しようとする慎重さ、イギリスへ派遣されて否応なしに叔父との戦いに一旦踏みこんでからのあの機敏にして果敢な行為、親友を励まして後事を託そうとする立派な最期―それらを見て来ると、優柔不断な懐疑家、冷酷なエゴイスト、それだけがハムレットの本質だとは到底考えられない。

勿論ツルゲーネフの見たハムレットも、真実のハムレットの一面ではある。ツルゲーネフはシェイクスピアの作品を精細に分析してハムレットのその一面を鮮明に彫り出した。それ故これはハムレットを理解する上に一つの貴重な文献たることを失わない。

それにしても、何故ツルゲーネフにとってハムレットの特にそのような一面が問題になったのだろうか。

勿論ゲーテの暗示も強くはたらいていたにちがいない。しかし前にも述べたように、ツルゲーネフは自分の作品においても一再ならず、いわゆるハムレット型の人物を主人公にしている。そのような性格がツルゲーネフにとって一つの課題だったのである。

だから、シュイクスピアのハムレットを読んだ時も、ハムレットの性格の中からツルゲーネフ自身が平生問題にしていたものを特に強く読み取ったのだというのが真実に近いのであろう。

ツルゲーネフは、生来善意の人間であるにも拘わらず、怠慢、放縦、無責任で、大言壮語をするくせに実行がともなわないと、先輩ベリンスキーからしばしば直言されたことがあるという。

ツルゲーネフが殊更にハムレットのネガティヴな面を強く感じたのは、常々深く反省している自分の性格をハムレットにおいて見出したと信じたからではないであろうか。『ファウスト』の解釈においても同じ心理がはたらいていたように思われる。
※一部改行し、旧字体を新字体に改めました。

岩波書店、河野與一、柴田治三郎訳『ハムレットとドン キホーテ』P123-124

ツルゲーネフがハムレットに見出した性格というのは彼自身が抱えている問題でもあったのですね。

そう考えるとツルゲーネフ作品すべてを貫くハムレット的な人間たちも皆ツルゲーネフ自身の問題が大きく関係していることになります。

ツルゲーネフがハムレットのネガティブな側面を特に強く感じたというのはそれだけ彼を知る上では重要なものと考えてもよさそうです。

続いてこの論文ではハムレットと対置してドン・キホーテが語られていきます。

こちらも解説を見ていきましょう。

ドン キホーテは単にハムレットの引立役として引合いに出されただけではない。ツルゲーネフはドン キホーテに早くから興味をもっていた。

『ルーヂン』に対する読者の無理解などで気をくさらした時、今後創作はやめにして『ドン キホーテ』の翻訳に従事するつもりだ、ともらしたこともあるくらいである(一八五七年友人ボートキン宛書簡)勿論幸いにもそれは実行されなかった。

ツルゲーネフの『ドン キホーテ』の理解はむしろ『ハムレット』の理解よりすぐれていて、冒険と諧謔につつまれたドン キホーテの本質を見事に把握している。ツルゲーネフの『ドン キホーテ』論は、この作品の正当な解釈として今日なおその地位を失わないようである。(岩波文庫版『ドン キホーテ]』正篇一の五五頁参照)

ツルゲーネフはドン キホーテがたえず民衆に打ちすえられることに深い意義を認め、民衆というものは結局、自分たちが嘲笑し呪詛し迫害した人物、しかも民衆の迫害も呪詛も嘲笑も恐れず、自分たちにのみ見える目的を精神の目をもってしっかりと見つめながら進み、求め、倒れ、起きあがり、そして遂にその目的を見出すような人物を無条件に信じて、その跡について行くのだ、と言っている。

ツルゲーネフがこの講演をしたのは一部の人々の悪意によって雑誌『ソヴレメンニク』の同人と離間された直後だった。

その後『父と子』以降の一作ごとにツルゲーネフは読者の無理解に逢い、時には喧々たる非難の嵐を浴びた。

しかし実際には、ツルゲーネフが一つの物語によって喚び起こした農奴への同情の波紋が、やがてはロシヤの農奴解放の大浪にまで発展したし、永いあいだに民衆の心に蓄積されていたツルゲーネフに対する敬愛の情がツルゲーネフの葬儀に万をもって数えられる人々が参列した事実ともなって表われている。

だから少なくとも結局から見て、ここに描かれたドン キホーテの運命にはツルゲーネフ自身の運命も投影されていると言えると思う。
※一部改行し、旧字体を新字体に改めました。

岩波書店、河野與一、柴田治三郎訳『ハムレットとドン キホーテ』P124-125

これには私も驚きました。以前ツルゲーネフがプーシキンを生涯の師と仰いでいたことを知った時も衝撃でしたが、なんとドン・キホーテまで彼に絶大な影響を与えていたは・・・!

やはりドン・キホーテは並々ならぬ存在です。

世界の歴史上、ドン・キホーテを敬愛した偉人は数え切れないほどいます。

昨年私が旅したキューバでも革命家チェ・ゲバラがドン・キホーテを愛好していたと伝えられています。

そしてもちろん、ドストエフスキーもドン・キホーテに大きな影響を受けています。

それが顕著なのが彼の代表作のひとつ、『白痴』という作品です。

ツルゲーネフとドストエフスキーは終生ライバル関係にありました。

その二人がくしくもプーシキンを最大の師とし、そしてドン・キホーテにも影響を受けているというのは非常に興味深いことであります。

同じ人を尊敬しながらまるで違う作風の作品を生み出した二人。

作者の人生や気質が生み出す作品の違いというものを感じるにはこの二人は絶好だなと改めて感じました。

この論文はツルゲーネフの文学観を知る上で非常に重要なものとなります。そしてドストエフスキーを知る上でも非常に興味深い内容でした。

今回ご紹介した岩波書店の『ハムレットとドン キホーテ』には『ハムレットとドン キホーテ』だけでなく、『ファウスト論』と『プーシュキン論』も掲載されています。

特に『プーシュキン論』は彼の最晩年のプーシキン講演での原稿がもとになっています。そうです。ドストエフスキーとツルゲーネフが最終対決をしたあのプーシキン講演です。

2人の最後にして最大の直接対決がこのプーシキン講演でした。

ドストエフスキー側からの資料は割と世に知られているのですが、ツルゲーネフ側から見たプーシキン講演というのは意外と知られていません。

そうした意味でもこの本は貴重な資料となっています。

ぜひ、ツルゲーネフに興味のある方は手に取って頂きたい作品です。

以上、「ツルゲーネフ『ハムレットとドン キホーテ』あらすじ解説―ツルゲーネフの文学観を知るのにおすすめ」でした。

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