ツルゲーネフ『その前夜』あらすじ解説―農奴解放直前のロシアを描いた長編小説

ツルゲーネフとドストエフスキー

『その前夜』は1860年にツルゲーネフによって発表された長編小説です。

私が読んだのは講談社『世界文学全集―38ツルゲーネフ』所収、佐々木彰訳の『その前夜』です。

では、早速あらすじを見ていきましょう。

長編小説『その前夜』(一八六〇)は、『ロシア報知』誌第一、二号に掲載されたものである。表題の『その前夜』とは農奴解放の前夜を意味する。事実、農奴制度は一八六一年に廃止された。作者はこの作品のなかで、積極的な、社会的に行動するタイプの女性像を描こうとした。

富裕な地主のひとり娘であるエレーナには三人の花聟侯補者がいる。将来の大学教授べルセーネフ、若き彫刻家シュービン、立身出世型のエリート官僚クルナトーフスキイである。

このなかのだれと結婚しても、エレーナは、いわゆる幸福な家庭生活が保障されたであろう。しかしエレーナは理知的なべルセーネフも、芸術家肌の直情径行なシュービンも、手固い実務家クルナトーフスキイも、えらばず、貧しいブルガリア人留学生インサーロフを人生の伴侶にえらんだのである。

おなじスラヴ民族でもブルガリアは当時トルコの支配下にあり、独立国ではなかった。

とすれば、一般ロシア人のブルガリア人を見る目はそんなに温かくはなかったにちがいない。エレーナは両親の反対をおしきって、強引に結婚し、動乱下の夫の祖国へ向かう。

途中、インサーロフはヴェネツィアで病死するが、エレーナは夫の祖国をわが祖国としてブルガリアの独立のために、篤志看護婦として従軍するのである。

エレーナのこうした自己犠牲的で、ヒロイックな人間像は、『処女地』(一八七七)のマリアンナや、『散文詩』の一編「しきい」のなかの無名の革命家少女の人間像へと発展していく。
※適宜改行しました

講談社『世界文学全集―38ツルゲーネフ』所収、佐々木彰訳『その前夜』P383-384

この作品が発表された1860年はまさしく1861年の農奴解放令の前夜でした。

世の中の流れが農奴解放へと向かって行く中で、青年たちはどのようなことを思い、何をしようとしているのか。それをツルゲーネフは凝視します。

そしてツルゲーネフはそうした青年たちの中でも、社会に積極的に関わり行動していこうという女性を描こうと思い立つのです。

これまで「余計者」というロシアのハムレットを多く描いてきたツルゲーネフですが、ここにきて運命に立ちむかう行動力あふれた人物を造形しようとするのです。

「余計者」の典型とされる『ルーヂン』の主人公ルーヂンという男は抽象的な理論を操ることにかけては天才的ですが、彼には強い意志が欠けていました。彼はハムレットのように運命の前に悩み苦しみ、それを打開する行動ができない人物として描かれます。

それに対しこの作品の主人公インサーロフ、そして彼に恋するエレーナはまさしく行動の人。

ツルゲーネフは1861年の農奴解放前の激動のロシア社会をこの2人を通して描こうとしたのでした。

感想―ドストエフスキー的見地から

『その前夜』は発表後すぐに多方面から激しい非難を浴びることになります。この作品は私個人としてはすいすい読めて面白い物語のように感じましたが、当時のロシア社会からは拒絶されてしまった作品なのです。

これ以降ツルゲーネフはロシアにおいて難しい立場に立たされることになります。その風向きが変わるのは彼の晩年の1870年代後半のこと。彼がロシアで大歓声をもって迎えられるまで長い時を待たなければならなくなってしまうのです。

彼がなぜ批判されたのか、アンリ・トロワイヤの『トゥルゲーネフ伝』を見ていきましょう。

『その前夜』が『ロシア通報』に掲載されるや、あらゆる方面から批判の火の手があがった。

保守派の新聞は女主人公の倫理性のなさを告発し、真のロシア女性とは相容れないとした。真のロシア女性は敬虔で立派でかつ控えめな、家庭を重んじる女性だ、というのである。

自由派の新聞は男主人公の言動が説得力を欠いており、全体としてスラヴ派的な色合いが強調されすぎている、と断じた。

もっとも激しい非難は、まさにトゥルゲーネフが常任共同執筆者となっていた、『現代人』から浴びせられた。ネクラーソフがあいかわらず編集長をしていたこの雑誌は、しばらく前から妥協を知らない、思い上がった若い書き手たちが執筆陣に入ってきたおかげで、さらに左翼化の傾向が強まっていた。

いつもながら穏やかな性質のトゥルゲーネフは、友情と助言とで彼らをなだめようとした。しかし彼らは、年長者であるトゥルゲーネフの愛想のよさや、女性的な感受性を認めようとはしなかった。

その大殿様然とした様子、洗練された優雅さ、口調もなめらかなその雄弁、美食趣味、役にも立たないため息や心の高ぶりをもってして、彼らはトゥルゲーネフを「時代遅れ」と判断したのである。

トゥルゲーネフはトゥルゲーネフで、耐えられない思いをしていた。彼らのしつけの悪さ、教養のなさ、横柄な態度、汚れた爪、櫛もろくにあてないぼさぼさ髪、彼らがあちこちに吹聴している国家転覆思想に辟易したのである。かくして古風な自由主義者は、新世代の革命派民主主義者たちと衝突したのだった。

水声社、アンリ・トロワイヤ、市川裕見子訳『トゥルゲーネフ伝』P109

保守派というのはいわゆるスラブ派といわれるざっくり言うならばロシア大好きグループです。旧き良きロシアと伝統を重んじます。

彼らからすれば堅実な家庭を営むことを軽視し、家庭を捨てた女主人公エレーナの行動がどうしても許せなかったのです。

それに対して自由派は西欧派と呼ばれるこれまたざっくり言うならばヨーロッパ大好きグループからするとエレーナの行動は支離滅裂だと非難されたのです。

そしてさらに激しい非難がツルゲーネフが常任共同執筆者となっている『現代人』誌のグループから寄せられることになります。

このグループも西欧派といわれる人たちなのですが、何しろ過激です。既存のものはすべて破壊してしまえという過激思想の持主でした。そんな血気盛んな過激な若者たちからするとツルゲーネフはぬるすぎるということになってしまうのです。

ツルゲーネフは落ち着いた年長者らしく彼らをなだめようとしますが彼らはまったく聞く耳を持ちません。むしろ火に油を注ぐ結果となってしまいました。

こうしてツルゲーネフはどのグループからも毛嫌いされるようになってしまったのです。

ツルゲーネフにとってはかなり気の毒な状況ではありますが、当時のロシア文学界というのは極めて政治的、思想的な色が濃い時代だったのです。どっちつかずのことをするということはどちらからも攻撃されるという極端な論調が存在していたのです。

この辺りのことは以前私のブログでもお話ししました「スラブ派・西欧派とは?ドストエフスキーとツルゲーネフの立場の違い―これがわかればロシア文学もすっきり!」という記事でも紹介していますのでぜひご覧ください。

この作品はツルゲーネフにとっては苦い記憶となってしまいましたが、現代日本人たる私が読んだ感想としてはそこまで非難されるべき作品ではないと思いました。

国によって、そして時代によって評価がこうも異なるのかというのを感じられた作品でした。

以上、「ツルゲーネフ『その前夜』あらすじ解説―農奴解放直前のロシアを描いた長編小説」でした。

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