ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』とドストエフスキーの深い関係

ドストエフスキーとフランス

ヴィクトル・ユゴーとドストエフスキー

ヴィクトル・ユゴーは1802年、ナポレオン軍の軍人とフランス、ナントの王党派の娘との間に生まれ、1885年に国葬でパリのパンテオンに葬られたフランスを代表する作家です。

フランス文学者鹿島茂氏の『「レ・ミゼラブル」百六景』の単行本あとがきには、ユゴーについて次のように記されています。

「ヴィクトル・ユゴーは、日本では『レ・ミゼラブル』の作者としてのみ知られているが、フランスではどんな田舎町にも彼の名前を冠した通りがあることからもわかるように、国民的大詩人であり、共和国の父であり、ある意味ではナポレオン以上にひろく国民に親しまれた国家的シンボルである。」P488

日本においてユゴーは『レ・ミゼラブル』で有名でありますが、フランスでは大詩人としてのユゴーの存在があり、激動のフランスを生き抜いた指導者としての顔があります。

そして国葬でパンテオンに葬られたことからもわかるように、単なるひとりの作家の域を超えて、フランスを代表する偉人として尊敬を集めている人物であります。

ユゴーとドストエフスキーの関係

さて、このフランスを代表する偉人とドストエフスキーにはどのような関係があるのでしょうか。

その最も有名なエピソードは1862年のドストエフスキー初めてのヨーロッパ旅行に見出すことができます。

1862年、41歳のドストエフスキーは初めてのヨーロッパ旅行に出発します。その旅に途中から合流したのが次の引用に出てくるストラアホフという友人です。

ドストエフスキーにとってヨーロッパ旅行は長きにわたって憧れの存在でした。

しかしその憧れの地での彼の行動は一風変わったものでした。

『ストラアホフの語るところによれば、「ドストエフスキイは、決して巧者な旅行家ではなかった。自然も歴史的な記念碑も、最大の傑作はともかく、美術品さえ格別彼の気を引かなかった。彼の注意はすべて人間に向けられていた。街の一般生活の印象、人々の天性や性格に向けられていた。誰もやる様に、ガイドをつけて、名所見物に歩いたところで仕方がないじゃないか、と彼は熱心に僕に説いた。事実、僕等は何も見学しなかった」。青年時代から憧れていたフロオレンスに行っても、「旅行家のする様な事は何一つしなかった。街を散歩する外、僕等は読書に耽った。当時、ユウゴオの『レ・ミゼラブル』がでた許りで、ドストエフスキイは、毎巻つづけて買い、読み終ると僕に渡して、三四冊は一週間の滞在中に読んでしまった」。』

(『ドストエフスキイの生活』小林秀雄 新潮社 平成24年35刷発行 P122)

せっかく憧れのヨーロッパに来た時にドストエフスキーはまったく観光しようとしないのです。ただぶらぶら街を歩き、人々を観察するだけ。

そして極めつけが当時発売されたばかりのユゴーの『レ・ミゼラブル』を読みふけるという行動でした。

ドストエフスキーの変わった旅のスタイルとユゴーへの愛がうかがわれるエピソードです。

ドストエフスキーは10代の頃からユゴーを愛読していました。

ロシアの上流階級や文化人はフランス語を話すのが当たり前でしたので、ドストエフスキーも原文でユゴーの作品に親しんでいました。

その時に読まれていた日本でもメジャーな作品は『ノートル=ダム・ド・パリ』や『死刑囚最後の日』などの小説です。

他にもユゴーは詩集や劇作など膨大な作品を発表していますので、ドストエフスキーはそれらもおそらく読んでいたことでしょう。

そんな大好きな作家ユゴーの話題の新作『レ・ミゼラブル』が1862年にブリュッセルとパリで発売されます。

ちょうどその時にヨーロッパに来ていたドストエフスキーがその作品を見つけた時の喜びはいかほどのものだったでしょうか!

ロシアにいたら『レ・ミゼラブル』が発売されるまでどれだけ時間がかかるかわかりません。現代とは違って外国の本がやって来るまではかなりの時間がかかります。ましてやロシアはパリから遠く隔たった辺境の地。ヨーロッパにいるこのタイミングを逃せば次にお目にかかるのはいつのことになるのやら・・・

だからこそドストエフスキーは憧れのヨーロッパ旅行中にもかかわらず、『レ・ミゼラブル』に貪りついたのではないかと私は想像しています。

また、1874年にはドストエフスキーは自身が編集長を務めていた『市民』誌に掲載された記事をめぐって警察署から2日間の禁固処分を申し渡されていました。

彼が禁固されたのはペテルブルクのセンナヤ広場の営倉という場所でした。

ドストエフスキーの奥様アンナ夫人が禁固後の夫の様子を『回想のドストエフスキー』に次のように記しています。

『帰ってからの彼はたいへん機嫌がよく、二日間を気もちよく送ったと話した。同房者は職人とかで、昼のうち寝てばかりいたので、夫は少しもじゃまされずに、たいへん感心しているヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を読みかえすことができた。

「禁錮にあったのは、かえってよかったよ」と彼はたのしそうに言った。「こんなことでもなければ、むかしあの傑作から受けたすばらしい印象を新たにするようなことは、とてもなかったろうからね」』

(『回想のドストエフスキー』アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳、みすず書房、P70-71)

ドストエフスキー初めてのヨーロッパ旅行から12年後、禁固刑ということで監房に拘束されたドストエフスキー。

ただ、拘束とはいえ実際はかなり緩い措置だったようで、ドストエフスキーは快適に時間を過ごすことができたようです。

あらかじめそれをわかっていたからか、ドストエフスキーはその時間を有意義に過ごすため本を持ち込みます。

それがユゴーの『レ・ミゼラブル』だったのです。

ドストエフスキーは若い頃から鬼のような読書家です。

そんなドストエフスキーが膨大な本の中から選んだのが『レ・ミゼラブル』だったというのはとても意味深いことなのではないかと私は思います。

この頃にはドストエフスキーは執筆で多忙を極めていましたから、ゆっくりと読書を楽しむことができる状態ではありませんでした。

そんな中禁固という、久々にのんびりできる大事な時間のお伴に選ばれたのがユゴーの『レ・ミゼラブル』でした。彼がどれほどこの作品を愛していたかがうかがわれるエピソードです。

また、彼の作品『白痴』の主人公ムイシュキンの人物造形にも『レ・ミゼラブル』は大きな影響を与えています。

その点については以前紹介しましたこちらの記事で触れていますので興味のある方はご参照ください。

他にも、ユゴーの『死刑囚最後の日』はムイシュキンが語る死刑囚の描写にも影響を与えていると言われています。

何しろ、ドストエフスキー自身が1849年に死刑判決を受けて、死の淵までいった経験があります。

若い頃に読んだユゴーの『死刑囚最後の日』と同じようにまさか自分が死刑を執行されるとはその頃は思ってもみなかったことでしょう。

『死刑囚最後の日』とは違って、ドストエフスキーは死刑執行の直前に皇帝により恩赦され、シベリア流刑となりますが、この時の体験は生涯忘れることのないものになったのではないでしょうか。

また、『ノートル=ダム・ド・パリ』もドストエフスキーが1862年に兄と共に経営していた雑誌にロシア語翻訳して掲載していたという過去もあります。こちらも後の記事でより詳しく取り上げていきたいと思います。

ドストエフスキーとユゴーの関係は切っても切れない関係です。ユゴーはドストエフスキーに多大な影響を与えています。

次の記事からは『レ・ミゼラブル』、『ノートル=ダム・ド・パリ』、『死刑囚最後の日』の紹介とドストエフスキー的見地からの感想を書いていきたいと思います。

以上、「フランスの偉人ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』とドストエフスキーの深い関係」でした。

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