「第二部 コゼット」あらすじと感想~薄幸の美少女コゼットとジャン・ヴァルジャンの出会い

『レ・ミゼラブル』をもっと楽しむために

ユゴー『レ・ミゼラブル㈡ 第二部 コゼット』概要とあらすじ

『レ・ミゼラブル』は1862年に発表されたヴィクトル・ユゴーの代表作です。

今回私が読んだのは新潮社版、佐藤朔訳の『レ・ミゼラブル』です。

今回は5巻ある『レ・ミゼラブル』の2巻目を紹介していきます。

早速裏表紙のあらすじを見ていきます。

第二部「コゼット」。みずから自分の過去を明らかにしたために、市長から一転してふたたび監獄生活にもどったジャンは、軍艦で労役中にマストから海に飛びこんで巧みに脱出する。自由を得た彼は、死に瀕した売春婦ファンチーヌとの約束にしたがって、幼くして捨てられたその娘コゼットを悪辣な養父母のもとから救い出し、彼女を伴ってパリの暗闇の中へと潜入する……

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第1巻目のラストでは市長マドレーヌとして生きていたジャン・ヴァルジャンが自ら裁判所に赴き、自分こそジャン・ヴァルジャンであると名乗り出ます。

これは、濡れ衣で捕らえられていたまったく無関係の男を救うためにしたことでした。

哀れなその男は「かつての徒刑囚ジャン・ヴァルジャンであり、リンゴを盗んだ」という罪で告発されていました。その男はジャン・ヴァルジャンにそっくりで、証言者も揃っているためもはや有罪は避けられません。

ですがもちろん、その男はジャン・ヴァルジャンではありません。それはジャン・ヴァルジャン自身が一番知っています。

しかしもし彼がそのまま黙っていれば、これから先彼が犯罪者として追われることは永遠にありません。

ですがその代わりこの哀れな男はジャン・ヴァルジャンとして濡れ衣を着せられ監獄送りになってしまう。

ジャン・ヴァルジャンは苦悩の末、自ら名乗り出ることを選び、再び監獄へと戻ることとなってしまったのです。

さて、第二部ではそのジャン・ヴァルジャンがどうなったのか。

あらすじでは海に飛び込んで脱出するとなっていますが、そこは『レ・ミゼラブル』。簡単にはことは進みません。

第2巻目の最初も、一見物語とは関係のない「ワーテルローの戦い」からスタートするのです。

ワーテルローの戦いは1815年、ナポレオンの敗北が決定的となった戦いで、フランスの歴史の節目になる重要の戦いでした。

ユゴーはこの戦いをこのタイミングで90ページ近くにわたって語り続けます。

第1巻目のミリエル司教と同じくまたもや物語の本筋に入る前に長い前置きが始まってしまうのです。

ですがこれも前巻と同じで後々これが物語上絶妙に効いてくるのです。

さて、ここからようやくジャン・ヴァルジャンの物語へと帰ってきます。

ジャン・ヴァルジャンは徒刑先で船から海に飛び込み脱獄に成功します。

そして姿を消したジャン・ヴァルジャンは、不幸な女性ファンチーヌとの約束、娘のコゼットを救うために奔走します。

コゼットはずる賢いテナルディエ夫妻のもとに預けられていて、露骨すぎるほどこき使われいじめられていました。

そんなみじめな境遇でも健気に生き抜くコゼットのなんといじらしいこと。

そしてクリスマスの晩、彼女はテナルディエのかみさんから森の井戸まで水を汲んでくるよう言いつけられます。

ここからのシーンは『レ・ミゼラブル』中でも屈指の名シーンとされています。

鹿島茂氏の『「レ・ミゼラブル」百六景』にこのシーンがまとめられていますので引用します。

最後の露店の灯りも視界から消え、夜の森のざわめきがコゼットをすっぽりと包んでいた。木々のあいだに幽霊がはっきり見えるような気がする。コゼットは泣き出したくなるのをこらえて、走り続け、やっと泉にたどり着いた。身をかがめて水を汲もうとしたとき、ポケットのなかの十五スーが泉に落ちたがコゼットはそれに気づかなかった。水を汲み上げるときにあまり頑張ったので、一歩も動けなくなってしまった。やがて暗闇の恐怖が蘇ってきた。コゼットは桶の柄を両手でつかんで十歩ほど歩いた。桶は重かった。冷たい水がこぼれて裸足の足を濡らした。村に帰り着くには一時間以上かかりそうだった。コゼットは「ああ神様」と叫んだ。

そのとき、急に桶が軽くなったような気がした。大きな黒い影が桶を持ってくれたのだ。コゼットはなぜか少しも怖くなかった。

鹿島茂『「レ・ミゼラブル」百六景』P152

暗い森の中、独りぼっちで重たい水桶を運びながら、彼女はもう気力が尽きかけ、「ああ神様」と叫びます。

その瞬間、重たい水桶がふっと軽くなる。

誰かはわからないが、どこからともなく彼女を救う人間が現れたのです。

ここで素晴らしいのはこの瞬間、コゼットが「なぜか少しも怖くなかった」という心理描写です。ユゴーの原文では「人生のどんな出会いにもふさわしい本能がある。小娘はこわがらなかった」という表現がされていますが、この一言があるからこそ、奇跡や運命を感じさせるのです。

そして何を隠そう、この大きな黒い影こそあのジャン・ヴァルジャンだったのです。

ジャン・ヴァルジャンはこの町にコゼットを助けにやって来ていました。その途中にたまたまこの森にいて、たまたま独りぼっちの少女を見つけ手を貸したのです。

この時はまだ彼はこの少女がコゼットであるかを知りません。

彼がそれを知るのは、出会った後二人で歩いて彼女になぜここにいるのかを聞いたときだったのです。

「いやいや、こんな偶然ありえないでしょ~」

いえいえ、『レ・ミゼラブル』ではあり得るんです。

しかもこれから先、もっとすごい偶然がこれでもかと続きます。

「え!?ここでまたあの人と出会うの!?」ということの連続です。

あまりに奇跡的な出会いが続くので、この点も文学批評家から批判を招いたそうですが、ユゴーはもともと演劇の作家です。より劇的なシーンを求めてストーリーを作っていきます。

実際、この奇跡的な出会いの連続がストーリーに驚きと感動を与えてくれます。だからこそミュージカルや舞台でもここまで支持され続けているのです。

さて、コゼットの救出に成功したジャン・ヴァルジャンはパリの町へと潜入します。

そしてそこでもまた運命的な出会いをしてしまいます。

宿敵ジャヴェールに見つかってしまうのです。

その逃走劇は息を飲むほどの緊張感です。まるでハリウッド映画を見ているかのような迫力です。

そして間一髪で逃げ込んだ場所でもまた奇跡のような出会いに救われます。

『レ・ミゼラブル』第2巻は目まぐるしい展開と、奇跡的な運命の出会いの連続で息もつかせぬストーリーとなっています。

感想―ドストエフスキー的見地から

貧しい境遇から母親から引き離され、テナルディエという悪党夫妻の下に預けられていたコゼット。

コゼットは彼らの下で散々こき使われ、いじめられ、母親のファンチーヌから金をゆするための道具にされていました。

概要とあらすじでもお話ししましたように、この子はそんな境遇でも健気に生き抜いていました。

虐げられながらも無邪気で美しい心を失わないコゼット。

みじめな境遇の中で生きる彼女になんとか幸せになってもらいたい。読んでいると自然に彼女を応援したくなります。

そしてそこに奇跡のように現れたのが我らがヒーロー、ジャン・ヴァルジャン。

この救いのシーンは最高に気持ちがいいです。

虐げられ、不幸という過酷な運命に打ちひしがれていた健気でいじらしい少女がついに救われる時が来たのです。

こういう運命の出会いと救済が『レ・ミゼラブル』では何度も出てきます。

このコゼットとジャン・ヴァルジャンの出会いはこの作品中でも屈指の名シーンであることは間違いないでしょう。本当に感動的です。

ドストエフスキーもきっとこのシーンを感動しながら読んでいたことでしょう。

ドストエフスキーも貧しく、虐げられた子どもたちに深い哀れみや悲しみを抱いていた作家でした。

彼の個人雑誌『作家の日記』には子どもたちに関する文章が数多く掲載されています。

また、晩年の大作『カラマーゾフの兄弟』でも子どもたちが非常に大きな役割を果たしています。

虐げられた子どもたち、弱い立場にある人間。母親のファンチーヌも社会の犠牲者たる存在でした。

彼らがいったい何をしたというのでしょうか。なぜそんなみじめな生活に陥らなければならなかったのでしょうか。彼らには救いは訪れるのでしょうか。

ドストエフスキーも虐げられた人びとに対して強烈な問題意識を抱えていたと思われます。

ドストエフスキーのデビュー作も『貧しき人びと』というタイトルであり、その後『虐げられた人びと』という作品も書いています。

『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフも極度の貧困に陥っています。彼は社会的上昇は見込めないところまでどん底に落ちてしまっているのです。

『レ・ミゼラブル』は「みじめな人びと」という意味です。

ユゴーはみじめな人びとを描きながら、そこに人間の尊厳や救いを求める戦いを描きだしました。

ドストエフスキーがこの作品に感動したのも、そうしたユゴーの力強いメッセージに共鳴したからではないかと私は想像しています。

第2巻は物語の展開がドラマチックで、なおかつ息もつかせぬ緊張感があります。

ここまで読み進めることができたらもう止まることはできません。

きっとここからは挫折することなく一気に読んでいくことができるでしょう。

いよいよ盛り上がって参りました。『レ・ミゼラブル』、非常に面白いです。

以上、『「第二部 コゼット」あらすじと感想~薄幸の美少女コゼットとジャン・ヴァルジャンの出会い』でした。

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