(13)「異邦人の目」が旅を面白くする。私はインドで徹底的に異邦人になろうとしたのだが…

異邦人 仏教コラム・法話

【インド・スリランカ仏跡紀行】(13)
「異邦人の目」が旅を面白くする。私はインドで徹底的に異邦人になろうとしたのだが…

2023年10月下旬。私は再びインドに向けて旅立った。

私はこの旅において徹底的に「異邦人」たろうと決めていた。

異邦人・・・。

異邦人といえばカミュの『異邦人』を思い浮かべる方も多いかもしれない。

「異邦人」という言葉を辞書的に読むなら「外国人」や「見知らぬ人」ということになるが、私はやはりそこにさらなる味付けがほしい。言うならば、文学的味付けだ。

カミュの『異邦人』においても、異邦人は単に「見知らぬ人」を超えた意味を持っている。

この小説はムルソーという男が主人公の物語だ。

彼こそまさに異邦人。

彼は一見普通の人間だが、どこか冷めたところがある。かと言って感情がないというわけでもない。

人並みに悲しみ、人並みに人を好きになる感性もある。

彼は彼なりの「ふつう」を生きている。だがその「ふつう」が他の人とは何かずれているのだ。

ムルソーは強い意志や信念があって人と違うことを考えたり行動しているのではない。彼は彼なりに他の人と同じように生きている。だが何かが違う。他の人には理解されない何かがあるのである。

まさに、「周りとは何かが違う」と感じながら生きる人間。同化したくてもその人達とは違う世界を生きざるを得ない人間。それが「異邦人」なのだ。こうした人物造形はあの村上春樹の得意分野でもある。私も大好きな『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公もまさにこういうタイプの人間だ。この主人公も同じ日本人でありながら日本における「異邦人」なのである。

そしてさらに言うならばこうした異邦人的な視点を駆使して小説を書くことを「異化」という。そしてその達人として知られているのがあのトルストイ大先生なのである。

レフ・トルストイ(1828-1910)Wikipediaより

トルストイはそのデビュー作『幼年時代』でこの手法を駆使している。物語の主人公を10歳の少年に設定し、その少年の目線を通した世界を描いたのである。

主人公の「ぼく」を通した世界の描写。これが実に素晴らしい。私たち大人は当たり前のように目の前の世界を認識しているが、子供から見た世界は私たちとは違って見えている。

世界は一つであるけれども、その状況によって見え方やその意味するものが全く異なる。

トルストイは私たちが「普通に」見ている世界を、子供という「私たちの当たり前とは違った」視点から描いたのだ。

つまり、トルストイは子どもという「異邦人」の目を通して大人の世界を覗いたのである。ここにトルストイの巧みさがあったのだ。

さて、随分と話は飛躍してしまったように思われたかもしれないが、これが私にとっては大問題なのである。

先にも述べたが、私はこの旅で「徹底的に異邦人たろう」と決意した。日本人がインドやスリランカに行くのだからそんなの当たり前だろうと思われるかもしれない。でも違うのだ。少し話を聞いてほしい。

私はこれまで多くの本を読んできた。特にスリランカについてはここ数カ月、かつてないほど没頭して本の海に溺れた。

しかし、そうは言っても私はあくまで机上の読者にすぎない。

スリランカの研究者はその多くが文化人類学者でフィールドワークをベースとしている。彼らは現地へ赴き、村の中で長期滞在をして実際の生活を調査する。現地の言葉を話し、現地の食べ物を食べ、現地の風習に染まろうとするのである。

だが、翻って私はどうであろうか。

私は現地の言葉もわからず、食べ物も拒否し、現地の風習に馴染むつもりもない。

つまり、私には現地の生活に溶け込むということが一切不可能なのである。もちろん、時間的な問題や学問上のバックグラウンドがないというのもその大きな要因とも言えるだろう。しかしそれでもなお、現地に溶け込むことを一切拒絶した私は当地においては一際「異邦人」であることが明白なのではないだろうか。普通の旅行者でさえ、多少なりとも現地に馴染もうとするのではないか。

こういうわけで、私は自身がインド・スリランカにおけるアウトサイダーであることを強く認識するようになった。現に、8月のインドではそのカオスぶりにカルチャーショックを受けたった4日で倒れることになった。(「(8)ついにやって来たインドの洗礼。激しい嘔吐と下痢にダウン。旅はここまでか・・・」の記事参照)

だが、同時に私はこうも思ったのである。

我々はどこにいようと本来「異邦人」なのではないかと。

よくよく考えてみれば、たとえ地元に生きていたとしても隣人のことすらほとんど何もわからない。国内にいてもわけがわからない出来事が勃発しているし、日々複雑な人間関係に悩んでいるではないか。

結局、私達が知っているのは「私の生活」でしかない。それ以外は全て「異邦」のことなのである。家族のことすら本当にわかっているのかは難しい。いや、そもそも自分自身のことすら私達はわかっているのだろうか。

我々はどうあがこうがこの世界に対して多かれ少なかれ「異邦人」でしかありえないのである。

であるならば私は徹底的に「異邦人」としてインドとスリランカを訪れようではないか。

現地に染まる必要などない。圧倒的な他者として、その姿を目に焼き付けようではないか。

重要なことは、他者を完全に知ることではない。そんなことはそもそも不可能なのだ。

たとえフィールドワークをしようと、それは究極的には程度の差なのだ。(もちろん、その研究のおかげで私は現地の知識を得ることができているのである。研究者達の御苦労には深く感謝しているし、尊敬の念を抱いている)

しかし、私においては「他者を知る」よりも「異邦人である私が他者やその世界をどのように見たか」という点にこそ比重がある。

たとえ異邦人である私が見た世界が真実の姿と違っていてもそれは構わないのである。もちろん、だからといって嘘を言ったり誇張してその姿を歪めることは厳に慎むつもりだ。

私はインドやスリランカに染まるつもりはない。あくまで私は「異邦人」だ。

そして徹底的に異邦人の目でインドやスリランカを見るつもりである。そうであるからこそインドやスリランカの「当たり前」を敏感に感じ取れるのではないだろうか。

こういうわけで、これから先、私はインドやスリランカに対して幾分辛辣なことを言うことにもなるだろう。申し訳ないが「インドは素晴らしい!スリランカも最高だ!」では終われない。私の率直な思いにインドやスリランカの方達はもしかしたら気分を害してしまうかもしれない。だが、残念ながら仕方がない。私は私の感じたことを大事にしたいのである。これはお互い様だ。インド人やスリランカ人から見た日本も多かれ少なかれそうならずにはいられないのである。重要なことは、互いの違いを認識することだ。なあなあにしたところで何も生まれないのである。

私はこう思う。

「異邦人の目は旅をより刺激的なものにする」と。

旅は私達を強制的に日常から切り離し、異邦人へと変身させる。

異邦人の目で見た世界は全てが奇異に見える。私達はその瞬間完全なるよそ者だ。だが、よそ者にしか見えない世界がある。よそ者にしか感じられない感覚がある。それが私達を刺激し、思考を活発化させるのだ。だから旅は面白いのである。普段気づけぬ世界のありさまを敏感に感じ取ることができるのだ。

日常を生きる中で異邦人の目を持つのは難しい。それができるからトルストイやカミュは偉大なのである。

だが、旅に出れば強制的にその状態に我々は立たされるのである。であるならば我々もそれを認識し、積極的に活用しない手はない。大いに異邦人になろうではないか。それが我々の感覚を鋭くし、旅を刺激的なものにするのである。

こうして勇んでインドに乗り込んだ私であったが、到着と同時に私は前回とは異なる印象を感じた。

まず、インドのにおいを感じたのである。前回初めてインドに来たときは空港の無臭ぶりに驚いたのであるが今回は「帰って来たな」というにおいを感じたのである。やはり二回目ともなるとインドに対する感度が高まっているのだろうか。

さあいよいよ本格的に始まるぞ!私は妙な高揚感に包まれていた。

準備は万全。食料も大量に持ってきた。かかってくるならかかってこい。今度は負けんぞインドよ。

デリーお馴染みのカオスな道路。「(10)インドは最後までインドだった。目の前で起きた交通事故の運転手に度肝を抜かれた最終日」の記事でもお話ししたが、この道路状況にも前回は精神的なショックを随分と受けたものだ。

しかしどうだろう。今回私はこれに全く動じていないのである。始終鳴り響くけたたましいクラクションにも慣れたと言っていい。

「いいぞ!これならいける!前回のショックを通して進歩したんだ!」

と喜んでいた私だったが同時にハッとした。

これでは異邦人どころではないではないか・・・!もはやインドに慣れてしまったのだ。「徹底的に異邦人たろう」と鼻息荒く勇んでいたのに、これではプランが台無しだ!新鮮な驚きどころではない。

かつては無謀な割り込みのひとつひとつやクラクションに驚いていたのに今やどうだろう。ほとんど無関心と言っていい。道行く人にも、インドの汚さにも、停車すると現れる乞食や物売りにも何も感じない。「だってここはインドなのだから」で終わりだ。何も疑問に思わなくなってきた。

無関心・・・

すでに徹底的な異邦人の目とは真逆の状態にある私に苦笑いするしかなかった。

だが、これぞインドで長期間体調を維持する最大のコツなのである。私も間もなくそのことに気づくことになった。ひとつひとつの出来事にツッコミを入れてたら精神が持たない。これはこれでよいのである。

旅には臨機応変な対応が不可欠だ。私も最初の数時間足らずで「徹底的な異邦人」をやめることにした。というより、身体が勝手にインドに順応しようとし始めたのである。無関心は意識してできるものではない。気づけば無関心になっていたのだ。そうして身を守ろうとしていたのだ。

何やら私の記事も矛盾だらけになってきた。だが、インドを旅するというのはこういうことなのである。常に考え、常にプランの変更を迫られるのである。まさに神様のご機嫌次第なのだ。

では、次の記事からいよいよ最初の目的地カジュラーホーについてお話ししていくことにしよう。

※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

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