ゾラ『ムーレ神父のあやまち』厳格な神父と純粋な乙女との禁じられた恋、そして悲劇的結末。

エミール・ゾラとドストエフスキー

「ルーゴン・マッカール叢書」第5巻『ムーレ神父のあやまち』の概要とあらすじ

『ムーレ神父のあやまち』はエミール・ゾラが24年かけて完成させた「ルーゴン・マッカール叢書」の第5巻目にあたり、1875年に出版されました。

私が読んだのは藤原書店出版の清水正和、倉智恒夫訳の『ムーレ神父のあやまち』です。

この書は作者のゾラとロシアの文豪ツルゲーネフとのつながりによって前作の『プラッサンの征服』と同じくロシアでいち早く紹介され人気を博した書だったそうです。

では、今回も帯のあらすじを見ていきましょう。

セルジュ・ムーレはプロヴァンスの寒村で敬虔な司祭として暮らしていた。ある夜、熱病で倒れた彼は近くの広大な庭園パラドゥーに運ばれ、そこで野性的な娘アルビーヌの献身的な看護をうける。二人はたがいに惹かれあい、自然のなかで愛の日々に陶酔するが、やがて別離のときがやってくる。アルビーヌは彼を待ち続けるが……。

藤原書店出版 清水正和、倉智恒夫訳『ムーレ神父のあやまち』

セルジュ・ムーレは前作の『プラッサンの征服』の主人公フランソワ・ムーレ、マルト・ルーゴン夫妻の次男にあたります。

https://shakuryukou.com/wp-content/uploads/2020/06/Rougonmacquart.pdf

家系図では中央辺りに位置します。

前作ではフォージャ神父という謎の人物がマルトを洗脳し、ムーレ家を破滅に導く過程が描かれていましたが、今作ではその息子のセルジュが成長し、司祭として生活しているところから始まります。

今作の主要なテーマはキリスト教の司祭としての信仰と人間同士の性愛は両立しえないのかという問題にあります。

あらすじにもあるように、セルジュは病気で倒れ、豊かな自然がある広大な土地で療養します。その彼を献身的に看護したのがアルビーヌという若い女性でした。

彼は熱病により一時的に記憶喪失になっていました。そのため、自分が司祭であることや熱心なキリスト者であったことをすっかり忘れてしまいました。

そして豊かな自然の中でアルビーヌと恋に落ちます。

しかし、ある日この広大な土地の外の世界を見てしまったことがきっかけですべての記憶が戻ってしまうのです。

すると彼は今まで愛していたアルビーヌを見捨て、再び信仰の世界へと帰って行ってしまうのです…

これはエデンの園に暮らしていたアダムとイヴが知恵の実を食べてしまったことで、そこを追放され永遠の罪を背負ってしまったことを暗示するかのようなストーリーです。

ゾラはキリスト教の教えに対し何を言いたかったのでしょうか。

作中では豊かな自然やそこで育まれる愛は、人生のすばらしさそのものであるようにゾラは言います。

人間の生そのものを賛美する。そういう意識がゾラにはあります。アルビーヌはまさしく「豊かな生そのもの」であり「愛」の象徴だったのです。

それに対し、セルジュの信じるキリスト教は「生の否定」であり、「死そのもの」でありました。

彼はセルジュにこう言わせています。

きみの言うとおり、ここにあるのは死だけだ。死こそぼくの望むところなんだ。死だけがぼくを苦しみから解き放ってくれ、あらゆる汚れから救ってくれるのだ。……わかってほしい!ぼくは生を拒否し、唾棄し、否定している。きみの言う花々は悪臭を発し、太陽は目を眩ませ、草はそこに横たわる体を腐らせる。きみの庭は腐敗した屍体の集積場だ。きみの口にする緑の楽園での愛だの、光だの、至福の生など、それらは皆うそっぱちなんだ。そこにあるのは闇だけだ。木々は人間をけだものに変えてしまう毒気を発散している。暗い藪はマムシの毒に満ちている。小川の青い水はペスト菌をいっぱい流している。もしもぼくがきみの庭から太陽のスカートと緑の葉の帯をはぎ取ったら、きみは悪徳に蝕まれた悪女の骸骨みたいに醜悪な庭の姿を見るだろう。……たとえきみが本当のことを言っているにしても、そして喜びにみちあふれた手でわたしに楽園の夢を見させようとバラの花の寝床に導いてくれたとしても、ぼくはより激しくきみの抱擁を拒むことだろう。これはふたりの間のどうしようもない永久に続く争いなのだ。きみの見てのとおり、教会はとても小さくてみすぼらしい。わずかに告解室と粗末なモミの木の説教台、石膏の洗礼室、ぼくが塗り直した板張りの祭壇があるきりだ。だがそんなことは問題じゃない!教会は、きみの庭よりも、谷間よりも、地球全体よりも、はるかに広大なのだ。そして絶対に陥落することのない堅固な城塞なのだ。風や、太陽や、木々や、波浪など、自然界のすべてが襲撃を加えても無駄というもの、教会は微動だにしないのだ。そう、イバラが茂り、とげのある腕で壁にいっぱいからみつき、また昆虫の大群が壁のすき間からはいりこんできて、ごらんのとおり荒れ放題となっても、教会はこれしきの生命の氾濫では絶対に崩壊しないのだ。つまり、教会は難攻不落の死なのだ!……いつの日か、どういう事態となるかをきみは知りたいだろう。この小さな教会がとてつもなく巨大となり、その影を投げかけてきみの言う自然を完全に死滅させてしまうのだ!ああ!死が、万物の死が到来するときはじめてわれわれの魂は、いまわしいこの世から広大な天に迎えられるのだ!

藤原書店出版 清水正和、倉智恒夫訳『ムーレ神父のあやまち』P398-399

アルビーヌがせっかくセルジュを教会まで迎えに来てくれたにも関わらず、彼はこうして健気な彼女を追い返してしまいます。

そしてアルビーヌはショックでその後命を落としてしまうのです。

彼女の死に対してもセルジュは神の信仰にすがり、彼女を見捨てます。

豊かな生を、人間の愛を賛美するゾラにはこうしたキリスト教信仰は耐え難いものだったのかもしれません。

セルジュの信仰は人生の否定でした。すべては虚しく、自然は腐敗そのもの、人間の性愛は最も唾棄すべき堕落でした。

だからこそ彼はアルビーヌを捨てるのです。

感想―ドストエフスキー的見地から

前作に引き続き、今回もキリスト教についての物語が語られることになりました。

今回は前回ほど気分が悪くなるようなものではありませんが、セルジュの信じるキリスト教が生きながらにして「死んだもの」であり、人生を否定しているというゾラの主張を知ることとなりました。

キリスト教にはたしかに原罪という考え方があり、さらには性愛を罪であると考える向きが非常に強いとされます。堕落した聖職者ももちろんいたでしょうが、真面目な人間であればあるほど、神を求める気持ちが強いほど、ストイックな方向に向かっていったという事実は否定できないでしょう。

腐りきったこの世ではなく、一心に神の国、すなわち天国を目指せという考え方は多くの宗教に見られる考え方です。

仏教もこうした側面ももちろん含んでいます。

しかしどの宗教もそうですが、宗教=生の否定ではありません。あくまでそういう側面もあるということで、その側面がどれだけ前面に出てくるかが問題なのです。

ゾラはこうした側面が強く出過ぎていた当時の宗教界に批判を加えたかったのではないでしょうか。そしてそれに対置する形で人間讃歌、自然讃歌としてアルビーヌを描いたのではないでしょうか。

ヨーロッパ、特にフランスのインテリ層からすると当時のキリストはもはや現実を頑なに拒む、死んだようなもののように思われていたのかもしれません。

ドストエフスキーもこういうキリスト教の実態をおそらく目にしていたはずです。

当時のロシアはフランスの影響を強烈に受けていたので、ロシアの上流階級やインテリも同じような思想だった可能性が非常に高いです。

こうした中でドストエフスキーは自らの信ずるロシア正教とはいかなるものかと作品中でも重大なテーマとして取り上げるのです。

ゾラとドストエフスキーは直接の面識もありませんし、ドストエフスキーがゾラの影響を受けたというわけでもありません。しかし、くしくもゾラが問題提起している宗教の問題をドストエフスキーが答えている形になっているのではないかと私には思えてきました。

キリスト教は本当に死んでいるのか。宗教は単なる現実逃避なのか。

改めて考えさせられました。

また、ゾラは科学を愛し、同時に自然や、人間そのものを愛していたことをこの本では強く感じました。

以上、「ゾラ『ムーレ神父のあやまち』神父と純粋な少女との禁じられた恋、そして悲劇的結末。」でした。

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