ゾラ『プラッサンの征服』あらすじと感想~宗教による洗脳、そして破滅を描いた先駆的作品

プラッサンの征服 ブログ筆者イチオシの作家エミール・ゾラ

「ルーゴン・マッカール叢書」第4巻『プラッサンの征服』の概要とあらすじ

エミール・ゾラ(1840-1902) Wikipediaより

『プラッサンの征服』はエミール・ゾラが24年かけて完成させた「ルーゴン・マッカール叢書」の第4巻目にあたり、1874年に出版されました。

私が読んだのは論創社出版の小田光雄訳の『プラッサンの征服』です。

早速あらすじを見ていきましょう。今回も本の帯を引用します。

「 政治と宗教の暗躍する地方都市・その征服こそパリ・ブルジョワの勝利―。謎めいた司祭フォージャ母子がムーレ家に下宿。一家に不気味な暗黒が流れ込む。勝利を掴んだフォージャは、ムーレの狂気の逆襲で一転、火中に燃え尽きる―。 」

論創社出版 小田光雄訳『プラッサンの征服』

これだけではまだわかりにくいので訳者あとがきを参考にしていきます。

「ルーゴン・マッカール叢書」第1巻の『ルーゴン家の誕生』でルーゴン家は地方都市プラッサンの実権を握ります。

そしてそのルーゴン家の長男はパリで大臣になるほど出世し、故郷プラッサンにおける政治状況にも影響を与えるようになっていました。

そしてそこに何らかの影響を与えるために敵方から送られてきたのが今回の小説のキーパーソン、フォージャ神父という謎の人物だったのです。

この人物はルーゴン・マッカール一族であるムーレ家に部屋を借り、そこに住み始めます。

ムーレ家の構成を少しお話しします。以前も紹介しましたがこちらがルーゴン・マッカール家系図です。

ルーゴン・マッカール家家系図

今回メインとなるムーレ家は図の中央辺りに位置する家族です。

父フランソワ・ムーレ、母マルト・ルーゴン。そして長男オクターブ・ムーレ、次男セルジュ、妹のデジレという5人家族です。

お気づきの方もおられるかもしれませんが、マルトはルーゴン家、フランソワはマッカール家系のムーレ家の出身でごく近い親戚同士の結婚だったのです。

そして長男のオクターブ・ムーレは「ルーゴン・マッカール叢書」第10巻『ごった煮』、第11巻『ボヌール・デ・ダム百貨店』」、セルジュ、デジレは第5巻の『ムーレ神父のあやまち』の主人公となっていきます。

さて、このような家族構成の中、彼らはつつましくも平穏な生活を送っていました。

しかしフォージャ神父の存在によってその平穏は崩壊していくことになるのです。

彼は基本的には静かで目立たぬように生活していました。

しかし少しずつ少しずつじわじわと町に馴染んでいきます。

そしてやがて家族の中で異変が起こってくるようになっていきます。

母マルトが信仰にのめり込むようになっていったのです。

最初はただ神父に心酔し、教会での祈りに熱中する程度のものでした。

しかしやがて、家庭のことを何一つ顧みることがなくなり、それこそ信仰に全てを捧げてしまうようになっていくのです。

今まで家事を担い、子供たちの面倒を見ていたマルトでしたが、もはや何一つ目に入りません。家はあっという間に崩壊へと突き進んでいきます。

そうです。この物語は洗脳によって信仰にのめり込み、家族が崩壊していく過程をこれでもかとじっくり描写していく物語なのです。

フォージャ神父は母マルトを洗脳し、ムーレ家を足掛かりにプラッサンの政治の中枢に食い込むまでになっていきます。当初の狙い通り、このままフォージャ神父はプラッサンを征服するのでしょうか。

いえいえ、そこはさすがのルーゴン・マッカール一族。この一族はそんな簡単に食われる玉ではありません。

マルトはいつしかフォージャ神父が制御できなくなるほど信仰の狂気に陥っていきます。そのあまりの激しさは、神父にとって彼女がもはや重荷となってしまうほどでした。

さらにマルトの狂気によりいじめられ続けた夫のムーレも発狂。精神病院へと送られていきます。

ここからルーゴン・マッカール家の逆襲が始まります。

…と言ってもすでに精神に異常をきたしてしまった彼らにはもはや意志はありませんが…

結局最後はフォージャ神父の野望も打ち砕かれることになります。

フォージャ神父は精神病院から抜け出したムーレによって焼き殺されます。

この精神病院からの脱出が実はプラッサンを支配していたルーゴン家の手引きであり、フォージャ神父を叩きのめそうとする彼らの陰謀だったのです。

おかげでフォージャ神父は死んでいなくなり、またもやルーゴン家はプラッサンを征服し、再びこの街の支配者となるのでありました。

感想―ドストエフスキー的見地から

この物語は私の中で「ルーゴン・マッカール叢書」中、読んでいて最も辛くなった作品でした。

宗教者による洗脳がここまで露骨に書かれているのは読んでいて苦しいものがありました。

他の作品を読んでいても感じたのですが、ゾラは基本的には宗教に対してよい感情は持っていないように思われます。

これはフランスにおいて、特にその中でも進歩的な人々がキリスト教をどのように思っていたかということにつながるのではないでしょうか。

宗教は科学の発展にとって明らかに障害であり、宗教によってヨーロッパは散々争いに巻き込まれるようになった。

新しい考えを持てば異端審問にかけられ、魔女狩りも横行した。

そういう時代を経てのゾラの時代のフランスがあります。

ヨーロッパ人が宗教を否定するときの憎しみの強さは、日本人が「私は無宗教です」というニュアンスとは全く異なるものがあります。

そこには絶対的な神がいて、唯一の存在であり、絶対に正しいという一神教ならではの信仰が影響しているのかもしれません。

話はそれましたが、ゾラは宗教家による洗脳という悲惨をこの物語で描きました。

この時代のヨーロッパにおいて宗教がどのように見られているのか。その大きな手がかりのひとつになったのではないかと私は思います。

ドストエフスキーが問題にしていたのもまさしくここで、キリスト教の救いはいかなるものかをとことんまで追求します。

そしてローマやフランスをはじめとしたヨーロッパ的キリスト教と、ロシア正教を対置します。

ドストエフスキーはヨーロッパ的キリスト教では世界は堕落し終末に向かうとし、ロシア正教こそ真の救いが得られると考えます。

つまり、ヨーロッパ的キリスト教を批判的に見ているという点ではゾラもドストエフスキーも共通ということになります。

ドストエフスキーが批判したキリスト教の実態を学ぶという点でもゾラを読むことは大きな意味を持つことになりそうです。

また、ゾラは『ルーゴン・マッカール叢書』を完成させた後に『ルルド』『ローマ』『パリ』という三都市双書という三部作を書き上げ、宗教に対する問題をドラマ化しました。ゾラがいかに宗教に対して関心を持っていたかがわかります。ぜひこちらもおすすめしたい作品です。

以上「ゾラ『プラッサンの征服』宗教による洗脳、そして破滅を描いた先駆的作品」でした。

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