『罪と罰』を読んだらこちらもおすすめ!バルザック『ゴリオ爺さん』

ドストエフスキーとフランス

ドストエフスキーの代表作といえば『罪と罰』。

これまでの記事ではナポレオンとの関係性からもこの作品を紹介しました。

ドストエフスキーはフランスの影響を強く受けています。

そしてその青年期、特に彼を惹き付けたのがフランスの文豪バルザックの小説でした。

ドストエフスキーは若い頃からバリバリの文学青年でした。また、彼の兄も文学を愛していて、兄弟二人でひたすら文学を読み漁り、文学談議に花を咲かせていたそうです。

そしてその中でも彼が特に傾倒していたのが、本日紹介する『ゴリオ爺さん』の作者バルザックだったのです。

バルザックは1799年に生まれ、1830年頃からパリで頭角を現し、そこから亡くなるまでの20年間、膨大な作品をこの世に残しました。

バルザックの描く作品は当時のフランスを余すことなく暴き出します。

そしてペン一本で成り上がったバルザックにドストエフスキーは強い憧れを持つようになったのです。

バルザックの代表作『ゴリオ爺さん』と『罪と罰』

『ゴリオ爺さん』は1830年に出版されたバルザックの代表作で、世界十大小説のひとつに入るほどの名作とされています。

この小説を読んで、私は驚きました。

というのも、主人公の青年ラスティニャックの置かれた状況が『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフとそっくりだったのです。

二人とも田舎から出てきた貧乏な家庭の期待の星。

貧しいながらも親がなんとか仕送りを工面し、息子が大学で学び弁護士になることを夢見ています。

しかし、親の期待も空しく、現実はそこまで甘くありません。お金も足りず、そもそも学問で身を立てるには時間があまりにかかり過ぎます。一人前の弁護士になって大金を稼げるようになるまで待つとしたら、貧乏な家族は破滅するしかないという状況です。

そうした状況に立たされていたのが『ゴリオ爺さん』のラスティニャックと『罪と罰』のラスコーリニコフだったのです。

そんな二人が片やパリ、片やサンクトペテルブルグでそれぞれの道に進み出すのです。

『ゴリオ爺さん』の主題

ラスティニャックは弁護士になるために華の都パリに上京してきました。

しかしそこで地道に勉強してもどん詰まりであることを感じます。

もっと手っ取り早く成功するにはどうしたらいいのか。そういう考えがやがて彼の頭を占めるようになります。

ここからはフランス文学者鹿島茂氏の『フランス文学は役に立つ!』を参考にしていきます。

「ラスティニャックは、社交界の有力夫人の後ろ盾がありさえすれば無一文の青年でも政界で出世できるという王政復古期特有の風潮に目をつけ、親戚のボーセアン子爵夫人のコネを頼りに社交界に入り込もうとしますが、しかし、ラスティニャックには見栄を張ろうにも軍資金がありません。そのため、泥で汚れた靴をレストー伯爵夫人の召使に馬鹿にされ屈辱を味わいます。

こうした欲望の水準が急上昇した時代に欲に駆られる人をうまく利用してやろうと待ち構えていたのが脱獄徒刑囚ヴォートランです。ヴォートランはラスティニャックが「いきなり」出世したい欲望に身を焦がしているのを見ると、巧みに言いよって、自分の仲間に引き入れようとします。そのときヴォートランがラスティニャックを説得するために使った論法は要約すればショート・カット人生の勧めですが、このショート・カット人生を狙う若者の大量出現こそが大革命の最大の産物なのです。

「もし、君がてっとりばやく出世したいんなら、すでに金持ちか、少なくともそう見えなくちゃいけない。金持ちになるんだったら、このパリじゃ、一か八かの大バクチを打ってみるに限る、さもなきゃ、せこい暮らしで一生終わりだ。はい、ご苦労さん」

ラスティニャックはこのヴォートランの誘惑に負けそうになり「ぼくに、何をしろというんです?」と尋ねるところまでいきますが、偶然が作用して、間一髪のところでヴオートランの魔手から逃れます。(中略)

大革命で既成の社会システムが崩壊し、「金がすべて」となった世の中で、自分だけしか恃むもののない青年が、悪魔に魂を売り渡すことなく、社会と闘うにはどうしたらいいかという近代的テーマをとりあげた記念碑的作品。ラスティニャックは「やりたいことをやり、いきなり有名になって大金持ちになりたいが、面倒くさい努力は嫌いだ」という現代的青年のプロトタイプで、以後、フロべールも、モーパッサンも、ゾラも、自分なりのラスティニャックを造形しようと腐心することとなります。」 (鹿島茂『フランス文学は役に立つ』NHK出版 P71-73)

ラスティニャックは手っ取り早く出世しようとします。しかしそれは人を騙し裏切る権謀術数の世界に入ることを意味します。そしてそれは恋すらも利用してのし上がろうというものでした。

ヴォ―トランの言葉はまさしく悪魔的です。ここでは記事の分量上ご紹介できませんが、「善とは何か悪とは何か、この世の現実とは何か」とものすごい迫力で彼に迫ります。「美徳なんて捨ててしまえ。人間を軽蔑しろ。法律の抜け穴を探せ。どうせ君はこれから人を騙し、罪を犯す。せいぜい血を流すか流さないかの違いだろう。それだって立派な殺人さ」とたたみかけます。

そしてそれに必死に抗おうとするラスティニャック。

この悪を為すべきか為さないべきかという葛藤はまさしく『罪と罰』のラスコーリニコフを連想させます。

まとめ―ラスティニャックとラスコーリニコフ

それにしても、なぜこんなにもラスティニャックとラスコーリニコフは似ているのでしょうか。

ざっくり言いますと、それはドストエフスキーがバルザックからとてつもなく大きな影響を受けているからということになります。(※もちろん、他にも多くの要因もありますが)

ドストエフスキーはそれこそ青春時代、ロシアを席捲していたフランスの偉大なる文豪バルザックを何度も何度も、バイブルのように読み返していたことでしょう。

そしてバルザックによって提出されたフランス・パリにおける善悪の問題をロシアのサンクトペテルブルグで再構成することになったのです。

ドストエフスキーの『罪と罰』創作ノートにもラスティニャックについての言及がなされていることからもそれは伺うことができます。

そしてラスティニャックは悩んだ末、その後社交界に乗り込み、ヴォ―トランの言う通り権謀術数の世界に突入して栄華を極め、その一方ロシアのラスコーリニコフは殺人へと突き進んでいくのです。

『ゴリオ爺さん』ではラスティニャックがパリに対して、

「さあ今度は、おれとお前の勝負だ」(『ゴリオ爺さん』平岡篤頼訳、令和元年44刷、p508)

という宣戦布告の言葉を残して幕を終えます。この作品中では彼の戦いは描かれませんが、この『ゴリオ爺さん』の続編にあたる『幻滅』という作品でラスティニャックはパリ社交界の花形として姿を現します。

彼は戦いに身を投じ、そして勝ち残ったのです。

片や権謀術数の社交界で栄華を極め、片や殺人を犯し破滅の道を辿る・・・この対比は非常に興味深いものがあります。

ドストエフスキーは彼自身の思想において、ラスコーリニコフの先のないどん詰まりの苦しみと、それを打開しようとして犯す殺人を描いていきます。

それは一見ドストエフスキーによる唯一無二の独創的な内容に思えるかもしれませんが、バルザックの『ゴリオ爺さん』の影響も少なからず存在していることを見逃すことは出来ません。

いかに独創的でオリジナルなものに見えても、その作品が生まれてくるには、たくさんの要因が必要です。ドストエフスキーはドストエフスキー単独で出来上がっているのではなく、彼が生きてきた人生で関わってきたあらゆるものが相互に絡み合って出来上がっています。

『ゴリオ爺さん』を読むことで、ドストエフスキーがなぜラスティニャックと似ながらもその進む道が全く異なるラスコーリニコフを生み出したのかということも考えることが出来ました。

これはとても楽しい読書でありました。

それにそもそも間違いなく『ゴリオ爺さん』は面白い小説です。さすが世界の十大小説に選ばれるだけある作品です。ぜひともおすすめしたい一冊であります。

以上、「『罪と罰』を読んだらこちらもおすすめ!バルザック『ゴリオ爺さん』」でした。

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