やはり『罪と罰』は面白い…!ナポレオンという切り口からその魅力を考える

ドストエフスキーとフランス

前回までの記事でフランス革命とその混乱から生まれてきたナポレオンの生涯をお話ししました。

特にナポレオンは『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフと深い関係があることもここまでの記事でお話ししてきました。

『罪と罰』は犯罪小説、心理小説として第一級の作品、傑作であると紹介されることが多々あります。

ラスコーリニコフはなぜ犯罪を犯したのか、その犯罪により彼はどのような精神状態に陥るのか、そしてその犯罪をめぐる警察との手に汗握る駆け引きなど、現代でも全く色あせない面白さがあります。

犯罪小説、サスペンス小説としての面白さ。

『罪と罰』は読みやすさ、面白さという意味では以前アップした親鸞とドストエフスキーの3つの共通点の中で紹介した『死の家の記録』と並ぶドストエフスキー入門おすすめの書であります。

さて、そうは言いつつもやはりさすがはドストエフスキー。

ただ単に読み終わって「あ~面白かった」で終わらせるような男ではありません。

私がドストエフスキーにおいて「面白い」という言葉を使う時は、アハハと笑うような「面白い」でもなく、あ~楽しかったいう「面白い」とも、スカッとするエンタメを見るような「面白い」とも違います。

時間を忘れてのめり込んでしまうような、それでいてなおかつ、読んだ後もずっと心にこびりつくような、そういう読後感があるような面白さを言います。

『罪と罰』にはそのような面白さをもたらしてくれる思想的な奥行きがこれでもかと描かれています。

そのひとつがラスコーリニコフの言うナポレオン思想なのです。

ここからは以前私のブログでも紹介しました吉村善夫の『ドストエフスキイ 近代精神克服の記録』を参考にその思想を見ていきます。

ラスコーリニコフは殺人の動機を次のように語ります。

「ぼくはナポレオンになろうと思った、だから殺したんだ……」 『罪と罰』下巻P248 新潮文庫、工藤精一郎訳、平成17年第34刷

彼はナポレオンになりたいがために金貸し老婆の殺害をしたという驚きの動機を話すのです。

では、その彼にとってナポレオンとはどのような人間なのでしょうか。

「ナポレオンとは、彼によれば、「ツ―ロンを砲撃し、パリに大屠殺を行ない、エジプトに大軍を忘れ去り,モスクワ遠征に五十万の大軍を費やし、ヴィリナでは一句の酒落で危機を脱し、そして没後には記念像を建てられている」男である。すなわち、ラスコーリニフはナポレオンにおいて、自己の目的のためには世界を血で浸してもみずから良心を苦しめず、また人々もこれを責めず、かえってこれを讃美崇拝して、そのために記念像まで建てた男がある、という事実、、を見るのである。彼はこの事実から簡単な、だが意味の深さにおいては世界を覆す大胆な結論を引き出す―「してみると、すべて、、、が許されてるんだ」。」( 吉村善夫の『ドストエフスキイ 近代精神克服の記録』p64)

ナポレオンのような世界史上に輝く天才、非凡人は何をしても許される。

人一人を殺せば犯罪だが、ヨーロッパ中におびただしい数の戦死者を出せばそれは英雄になる。

人間の絶対的な悪だと思われていた殺人がいとも簡単に肯定されるという事実。

それならばこの世に絶対的な善悪の基準はどこにあるのだろうか。

「ラスコーリニコフはナポレオンの事実を見て、「してみると、すべてが許されてるんだ」と断定する。(中略)善悪もなければ、神の審判もない。人はその欲することをすることができる。「そんなことは神様がお許しになりません!」とソーニャが言う時、彼はこれに事実をつきつける、―「だって、ほかの人には許してるじゃありませんか」。そして彼女がなおも神を固執する時、―「うん、それで神様は何をして下さるね?」とつっこみ、さらに―「もしかすると神様なんてものは、てんで無いのかも知れませんからねえ」と意地悪く笑う。ナポレオンの事実の前に神は存在しえない。―「では一体良心の苛責は?」とドゥーニャが訊ねる。神は本来有りとも無しとも言いがたいものであるから、これを否定するのは容易であろう。だが。自分の内にある良心の否定しがたい声は?ラスコーリニコフは一人で考える―「ああ、ソーニャ!あの人たちは何といういい井戸を掘り当てたものだ!しかもそれを使っている!あの通りもう使っている!一時は泣きもしたけれども、もう慣れっこになってしまっている。何事にもじき慣れてしまうのだ―人間という恥知らずは!」P65

※ここに出てくるソーニャは『罪と罰』のヒロインでラスコーリニコフの恋人で、ドゥ―ニャは彼の姉です。

さあ、ここでついにナポレオン思想は神の存在にまで問題は拡大してきました。

ナポレオンのような非凡人は何をしても許されている。人々は彼を崇めるかもしれないが、でも、神様はそんなことを許すはずがない。

ソーニャはそうラスコーリニコフに言うのです。

ですがバリバリのインテリである彼にはそんな理屈は通用しません。

「神様が私たちに何をしてくれたというのです。虐げられた不幸な人々は相変わらず貧しく苦しい生活を送り、悪いことをしている人間が我が物顔でこの世にはびこっているではないですか。こんな不正義を神は許しているのですか?許していないならなぜ彼らに罰を下さないのです。」

ソーニャの想いも届かず、理屈ではこの男を納得させることはできません。

続いて姉のドゥーニャは起死回生の一発にも見える問いを投げかけます。

「人間の良心はどうなの?罪を犯せば良心の苦しみに襲われるわ」

彼は少し考えますがすぐに反論します。

「人間は何事にも慣れてしまう、そんな恥知らずな生き物なのです。一時は泣いても、いつかは慣れてしまいます。

それに、そもそもそんな道徳観念、良心のことなどまったく気にならないからナポレオンのような非凡人は非凡人たりうるのです。

彼のような人間は、大多数の凡人とはわけが違うのです。」

だからこそ、主人公ラスコーリニコフは自分がナポレオンかどうかにこだわるのです。そしてそれを確かめるために老婆を殺したのです。彼にとっては金を奪うことが一番の目的ではなかったのです。

こう考えていきますと、『罪と罰』という小説が単なる犯罪小説、心理小説とはまた違ったもののように見えてはきませんでしょうか。

この世における善とは何か、悪とは何か。

なぜこの世には何も悪いことはしていないのに不幸な目に遭う人間がいて、その一方で悪人が富み栄えるのだろうか。

もし善も悪もないならば、すべてが許されているのだとしたら、私たちは何を希望にして生きていけばいいのだろうか。

なぜ自分は金のために人を殺さないでまじめに生きているのだろうか。

家族が貧乏のために苦しみ、それでもなお自分を愛してくれている。真っ当に働き生きようとしても、家柄や貧しさのためにその道はすでに閉ざされている。結局、死ぬまでこの生活は変わらない。いや、もっと悪くなるかもしれない。

そういう時にこの世には善も悪もなく、すべてが許されているならあなたはどうするだろうか。

それでも罪を犯さないのならばそれは一体なぜなのだろうか。その根拠は一体どこにあるのだろうか。

こうしたことが『罪と罰』のテーマのひとつとして描かれているのです。

これは現代日本を生きる私たちにもまったく無関係な話ではありません。いや、むしろ混乱を極める今だからこそ重要な問題なのではないでしょうか。

『罪と罰』は時代を超えて「今」を問いかける偉大な傑作です。

その時代その時代にある善と悪、罪と罰の問題を私たちに投げかけます。

ナポレオンはそのひとつの象徴です。

「善も悪もない。すべてが許され、弱者が踏みにじられることが正当化される世界」の象徴です。

こう考えてみると、フランス革命やナポレオンを学んできたことによって、ラスコーリニコフが何を言いたかったのかがより感じられるような気がしてきます。

『罪と罰』は間違いなく名作中の名作です。やはり面白いです。

今回は『罪と罰』をナポレオンという切り口から考察してみましたが、この小説はまだまだたくさんの思想や切り口が存在しています。

犯罪小説としての面白さと同時に、こうした奥行きのある思想を味わうことができるのもこの作品の大きな魅力であると私は思います。

ぜひ皆さんも手に取ってじっくりとドストエフスキーと対決してみてください。

疲労困憊になるでしょうが、こんな濃厚な体験はなかなかできないことを保証します。

以上、「やはり『罪と罰』は面白い…!ナポレオンという切り口からその魅力を考える」でした。

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