ドストエフスキーが絶賛!ジョルジュ・サンドの傑作『ジャンヌ』

ドストエフスキーとフランス

ドストエフスキーが絶賛!フランス人女流作家ジョルジュ・サンドの傑作『ジャンヌ』の概要とあらすじ

『ジャンヌ』は1844年にフランスの女流作家ジョルジュ・サンドによって発表された小説です。

私が読んだのは藤原書店の持田明子訳の『ジャンヌ』です。

あらすじに入る前にジョルジュ・サンドとはどのような作家かについて、表紙裏の略歴を引用します。

1804年、パリに生まれる。中部フランスの田園地帯ノアンの祖母のもとで育つ。1822年、カジミール=フランソワ・ドュドヴァンと結婚。1831年、パリに出、『ル・フィガロ』紙に寄稿を始める。1832年、G・サンドの筆名で『アンディアナ』を出版、文壇にデビュー。1833年、メリメとの短い関係を経て、ミュッセとの短い関係(~35年)。1836年、夫との別居協定が法的に成立。この頃リスト、マリ・ダグー伯爵夫人、ドラクロワらと交流。1838年、二人の子どもたちを伴って、ショパンとマヨルカ島でひと冬を過ごす。47年まで共に暮らし、豊かな創作時期を過ごす。1841年、P・ルルー、L・ヴィアルドとともに『独立評論』誌を創刊。1843年、大作『コンシュエロ』を完成。1847年、家族の前史まで遡る自伝『わが生涯の歴史』の執筆に着手(54年連載開始)。1848年二月革命勃発、臨時革命政府メンバーの傍で積極的に活動。1849年『捨て子フランソワ』がオデオン座で大成功を収める。1850年、彫刻家マンソーとの関係が始まる。1852年、政治犯の恩赦を求めてナポレオン3世に謁見。1864年『ヴィルメール侯爵』がオデオン座で大成功。この頃デュマ・フィス、フロベール、ツルゲーネフらと交流。1876年死去。

藤原書店 持田明子訳『ジャンヌ』

ジョルジュ・サンドは1804年にフランスに生まれた女流作家で、ドストエフスキーより17歳年上です。

略歴を見てわかりますように、かなりの活動家であります。

当時は女性の地位も今よりずっと低く、自ら作家として行動することは非常に困難であったことでしょう。そんな中これだけの功績を残したというのは当時においても革新的なことであったのではないでしょうか。

さて、今回紹介する『ジャンヌ』という作品のあらすじは以下のようになっています。

ガリア時代からの土俗信仰と融合した一途な聖母崇拝を心深くもちつづける、一点の曇りもなく無垢で美しい羊飼いの娘ジャンヌ。妖精ファド、“夜の洗濯女”、金の牛―ベリー地方の伝説が散りばめられた、神秘的な農民小説。

Amazon 商品の説明 内容(「BOOK」データベースより)

とある地方の村に美しく、高潔な心を持ったジャンヌという娘がいました。非の打ち所のない性格のよさと美しさを具えた彼女に誰しも好意を抱かずにはいられません。

そんな彼女を中心に、彼女に恋する貴族の息子たちと彼女を狙う軽薄な弁護士、そして村の人々の様々な思惑が絡み合って物語は進行していきます。

この作品ではジョルジュ・サンドの理想主義が明確に表現されています。巻末の解説では次のように書かれていました。

ところで、サンドは好んで自らの作品に「序文」や、新たな版の刊行時には「作品解題」を添えて、時に韜晦がないわけではないが、創作意図を率直に語った。指物職人を主人公にした小説『フランス遍歴の職人』(一八四〇年)に後年、付した「作品解題」で、サンドはかつてバルザックと交わした言葉を想起しながら、自らの態度を鮮明にしている。

……仮に私の描き出す類型が理想化されすぎているとして、ほかの階級の人々に対してであれば許されることを民衆に対して行う権利をどうして与えられないということがあろう?聡明な労働者がこぞってその理想の類型に似たいという欲求を抱くために、私が可能なかぎり好感の持てる、可能なかぎり真剣な人物をどうして描かないということがあろう?一体いつから、小説は現代の人間や事象の無情で冷酷な現実を必ず描くようになったのだろうか?確かにそういうこともあるだろう。大家バルザックは『人間喜劇』を制作した。私は彼の才能に常に感服してきた。この偉大な作家と友情の絆で結ばれているが、私は人間の状況をまったく異なった視点で見てきた。『フランス遍歴の職人』を執筆していた頃、彼と交わした言葉が思い出される。「あなたは『人間喜劇』を執筆されました。このタイトルは謙虚にすぎます。ドラマ、、、人間悲劇、、、、となさってもよかったでしょうに」―「確かに。ところで、あなたは人間の叙事詩、、、、、、を書きましたね」―「そのタイトルは高尚にすぎます。でも、私は人間の牧歌、、、、、人間的な詩、、、、、小説、、を書きたいのです。結局のところ、あなたは人間をあなたの目に見えるとおりに描こうとし、それがおできになる!私の方は、こうあって欲しいと私が望むように、こうあるべきだと私が信じるように描こうとしたのです」われわれは張り合わなかったから、お互いの権利をすぐに認め合ったのだ。

藤原書店 持田明子訳『ジャンヌ』P427-428

この解説でもありますように、ジョルジュ・サンドは「私の方は、こうあって欲しいと私が望むように、こうあるべきだと私が信じるように描こうとしたのです」という姿勢で作品を書いています。

ここがジョルジュ・サンドが理想主義的な小説家と言われる所以であります。ここにバルザックやゾラのように「あるがまま」の人間の姿を描く作家との違いを見て取ることができます。

ドストエフスキーとの関係

ドストエフスキーは1876年、ジョルジュ・サンドが亡くなった時、自身の『作家の日記』でジョルジュ・サンドへの追悼記事を書いています。

私が新聞でジョルジュ・サンドが亡くなったことを知った時には(彼女は〔ロシア暦〕五月二十七日―〔新暦〕六月八日に亡くなった)、《日記》の前号・五月号はすでに活字が組み上がっており、印刷にかかっていた。それでこの死については、一言も述べる暇がなかった。しかしながら、死去の知らせを読んだだけで、この人の名前が私の生涯においていかなる意義を持っていたかということがわかった―その昔、この詩人はどれほどの感激と崇拝とを私から奪い、どれほどの喜びと仕合わせを私に与えてくれたことであろうか!私はこの言葉の一語一語を臆せずに記す。

新潮社『ドストエフスキー全集18 作家の日記』川端香男里訳 P11

ドストエフスキーは若い頃、特にシベリア流刑になる1849年の前には理想主義的社会主義サークルに出入りするほど、熱く人類の理想を求めていました。

その時期に強い影響を与えていたとされているのがジョルジュ・サンドだったと言われています。

人間の高潔な理想を描いたジョルジュ・サンド。

今回紹介した『ジャンヌ』の主人公であるジャンヌも、まさしく高潔な女性そのものであります。

ドストエフスキーはこの作品について次のように述べています。

彼女は現代の百姓娘の中に、突然歴史上の人物ジャンヌ・ダルクの姿をわれわれの面前でよみかえらせてみせ、この堂々たる、奇跡的な歴史現象が現実に起り得ることをまざまざと立証している―これこそ完全にジョルジュ・サンド的課題である。なぜならば、おそらく、同時代の詩人のうち彼女をのぞいては誰も、無垢な少女のかくも清らかな理想―清らかであるとともに、その無垢のゆえにかくも力強いものとなった理想―を抱懐することはできなかったからである。(中略)

彼女のもっている誇り高き純潔は、たとえ彼女が思いがけず悪徳の巣窟のまっただ中に身を置くようになっても、悪徳との接触でけがれることを恐れもしないし、またけがれることなどあり得ないのである。雅量のある犠牲の願望(それがまるで、ほかならぬ彼女から期待されているように思われる)は、若い娘の心を感させ、娘は少しもためらわず、わが身を惜しまずに、無私無欲、献身的にかつ臆するところなく、突如として最も危険な運命の第一歩を踏み出す。彼女が見たり出会ったりすることは、いささかも彼女を困惑させたり恐れさせたりすることはない―むしろ逆にその時自分の力のすべて―無垢と正直と純潔の力―を知ったばかりの若い心は、たちまち勇気を増し、精力を倍加させる。

そしてまだそれまでは自分というものを知らなかったが、まだ生きるための妥協でけがされていない、溌剌とした清新な知性は、新しい道と新しい地平を指示されるのだ。そこには最も完璧な魅惑的な詩の形式がある―ジョルジュ・サンドは自分の物語詩をハッピーエンドで、、、、、、、、、つまり無垢と誠実と若々しい恐れを知らぬ素朴さが勝利することで結ぶことを特に好んでいた。
※長いので適宜改行しました

新潮社『ドストエフスキー全集18 作家の日記』川端香男里訳 P18-19

『ジャンヌ』に対するドストエフスキーの絶賛はここではすべては紹介できませんが、彼のこの作品への思い入れがとても伝わってきます。

悪に屈しない高潔な魂。悪に囲まれてもそれを跳ね返す誇り高き純潔の少女。

こうした高潔な少女という理想像は『罪と罰』のソーニャに反映されているのかもしれません。(とはいえ、その頃のドストエフスキーは純粋な理想主義者ではなくなっていましたが)

ドストエフスキーがかつて熱中していた理想主義を知るにはジョルジュ・サンドの作品はうってつけです。

以上、「ドストエフスキーが絶賛!フランス人女流作家ジョルジュ・サンドの傑作『ジャンヌ』」

でした。

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