トクヴィル『フランス二月革命の日々』~ドストエフスキーのシベリア流刑とフランス二月革命の関係

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トクヴィル『フランス二月革命の日々』概要と感想~ドストエフスキーのシベリア流刑とフランス二月革命の関係

さて、ここまでの記事でフランスの歴史をざっくりと眺めてきましたが前回の記事「ナポレオン以後のフランスの流れをざっくりと~フランス七月革命と二月革命」の終盤に出てきました二月革命、これがドストエフスキーのシベリア流刑と関係があるとしたら皆さんはどう感じますでしょうか?

実はドストエフスキーの流刑も、フランスの政治情勢と深い関係があったからこそ起きてしまった出来事だったのです。

今回はそのフランス二月革命とドストエフスキーの流刑の関係についてお話ししていきます。

フランス二月革命はどのような意味を持った革命だったのか

フランスはこの革命の前までに1789年のフランス革命をはじめとした多くの革命、政治的混乱を経験しています。

しかし1848年の二月革命はそれまでの革命とは違う独特な意味を持っていました。

1815年に始まった復古王政の頃から、フランスも本格的に産業革命の波が押し寄せ、パリは急速に工業化していきます。

そして農村から職を求めて人々が殺到しました。

こうした社会背景の下、フランスには新たな思想の流れが生まれてきます。

今回もトクヴィル『フランス二月革命の日々』 を参考にしていきましょう。

産業革命は、三十年このかた、パリをフランスで第一の工業都市にしたのであり、その市壁の内部に、労働者という全く新しい民衆を吸引した。それに加え城壁建設の工事があって、さしあたって仕事のない農民がパリに集まってきた。物質的な享楽への熱望が、政府の刺戟のもとで、次第にこれらの大衆をかり立てるようになり、ねたみに由来する民主主義的な不満が、いつのまにかこれら大衆に浸透していった。経済と政治に関する諸理論がそこに突破口をみいだして影響を与えはじめ、人びとの貧しさは神の摂理によるものではなく、法律によってつくられたものであること、そして貧困は、社会の基礎を変えることによってなくすことができることを、大衆に納得させようとしていた。

岩波書店、トクヴィル、喜安朗訳『フランス二月革命の日々』P110

フランス全土から多くの人々が集まり、労働者という新しい階級が出来上がり、搾取されながらも彼らは徐々に力を蓄えていきます。

ここで言う力とは、お金や腕力というだけではなく、知識という精神的な能力のことを言います。

世の中の不公平は神の摂理ではなく、人間が作った法によって決められている。

それならば今の法を壊して作り変えれば、世の中は理想的な状態になる。

こうした思想が民衆に広く伝わり出したという所にこの時代の大きな意味があります。

そしてこのような思想は二月革命に大きな影響を与えていくことになります。

私がすでに二月革命の哲学とまえもって呼んでおいたもの、それは社会主義の理論のことであった。この理論は後に真の激情に火をつけることになり、ねたみ心をかき立て、ついに階級の戦いをあおり立てることになった。(中略)

二月二十五日から数多くの奇異な理論が、激しい勢いで改革者たちの精神から噴き出し、群衆の心のなかに広まっていった。(中略)

一人は財産の不平等をうちこわせと主張し、他の一人は知識の不平等をなくせという。第三の者は、最も古くからの不平等、つまり男と女の間にある不平等をなくすことを計画していた。貧困に対する特効薬や、人類発生以来の苦悩の種である、労働にともなう弊害への対策が指摘されたりした。

こうした理論は、それぞれ、ずいぶんと異なっていて、相互に矛盾することもしばしばで、敵対するものすらあった。こうしたものすべては、政府よりも、もっと底辺のところにねらいをつけていて、彼らを支える社会自体を手に入れようと努力していたのであり、社会主義という共通の名称を掲げていた。

社会主義は二月革命の基本的な性格として、また最も恐るべき想い出としてあり続けるであろう。

岩波書店、トクヴィル、喜安朗訳『フランス二月革命の日々』P130-131

二月革命は単なる国の主導権をめぐる戦いというだけではなく、思想の戦いだったのです。

社会主義思想と一言で言っても、上にありますように様々な考えがあります。

ただ、共通しているのは「今の悪い仕組みをぶち壊してしまえ」という考え方、行動の理論でした。これは政府からすれば非常に脅威な発想だったのでした。

ドストエフスキーの流刑と二月革命

さて、話はフランスからロシアへと移っていきます。

フランス二月革命勃発の知らせはロシア皇帝を震撼させます。

またもやフランスで王政打倒の革命が起きてしまった。しかもその影響は瞬く間にヨーロッパ中に拡散され、社会主義思想は広まるばかり…

あちこちの王座がぐらつき、ロシア皇帝も次は我が身かと戦々恐々です。

そこで皇帝ニコライ一世は社会主義思想に対する警戒を強め、当時ドストエフスキーが入会していた社会主義思想グループ、ペトラシェフスキーのサークルに目を付け、秘密裏に監視下に置くことになったのです。

ドストエフスキーが参加していたこの会は、空想主義的社会主義というものを議論するグループで、武力革命を起こすような過激思想のグループではありませんでした。

どちらかというと、平等な理想主義的ユートピアを夢想するような、現実逃避に近い議論を好んでいたとすら言われます。

しかし、ドストエフスキー逮捕の直前、彼らの中の数人かが実際の武力革命を目指していたかどうかは別として、過激化し始めます。そしてドストエフスキーもその中に入ってしまったのです。

こうした過激化の流れを察知したスパイはただちに国家に報告。

そしてドストエフスキーは逮捕され、シベリアへと流刑となってしまったのが1849年の出来事だったのです。

※この流れは以前私のブログで紹介しました参考書、E.H.カー『ドストエフスキー』に詳しく紹介されていますので興味のある方はこちらの本もどうぞ。

まとめ

1848年、ロシアから遠く離れたフランスで勃発した二月革命。

もしこの革命がなければロシア皇帝による社会主義思想弾圧も起こらなかったかもしれませんし、ドストエフスキーがシベリア流刑になることもなかったかもしれません。

もし彼がシベリア流刑になっていなかったら、私たちの手に彼の偉大な作品たちが届くことはなかったことでしょう。

世界は繋がっています。遠く離れた地のとある出来事がその人の運命を変えてしまうかもしれない。

ドストエフスキーとフランス二月革命の関係を知ったことで、そのことを強く感じたのでありました。

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