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ロシアの文豪ツルゲーネフの生涯と代表作を紹介―『あいびき』や『初恋』『父と子』の作者ツルゲーネフの人間像

目次

はじめに―『あいびき』や『初恋』『父と子』の作者ツルゲーネフはどんな作家?その生涯と代表作を紹介

ツルゲーネフ(1818-1883)Wikipediaより

ツルゲーネフと言えばトルストイやドストエフスキーと並ぶロシアを代表する文豪です。代表作は『あいびき』や『初恋』、『父と子』などが挙げられます。

今となってはトルストイやドストエフスキーの方が有名ですが、かつての日本では二葉亭四迷が『あひびき』という邦訳でツルゲーネフの作品をいち早く紹介し、ロシア文学といえばツルゲーネフの方が有名だったのです。

そんなツルゲーネフですがドストエフスキーの生涯を知る上で度々出てくる人物であります。

ドストエフスキーとこの人物との因縁は生涯続きます。『貧しき人びと』で華々しく作家デビューした若きドストエフスキーはあっという間に彼と不仲となります。いや、ドストエフスキーが一方的に彼を嫌ったという方が正確かもしれません。

大貴族の御曹司で社交界でも優雅に立ち振る舞う色男ツルゲーネフと、元々神経質で自惚れやすい自意識過剰な文学青年たるドストエフスキーではまったく噛み合う要素がありません。

人間性の違いによる不和もそうですが彼らはやがて文学における立場でも袂を分かつことになります。

ドストエフスキーはスラブ派というロシア主義、ツルゲーネフは西欧派というロシアの西欧化を目指す人々の代表となっていきます。

こうした思想的な違いによっても両者は対立するようになっていくのです。

ツルゲーネフを知ることでドストエフスキーが何に対して批判していたのか、彼はどのようなことに怒り、ロシアについてどのように考えていたかがよりはっきりしてくると思われます。

また、ツルゲーネフの文学は芸術作品として世界中で非常に高い評価を得ています。

それに対しドストエフスキーの文学は芸術作品としてはそこまでの評価は得ていません。いや、むしろ芸術性に関しては批判されているくらいです。しかしそれを補ってやまない圧倒的な思想力がドストエフスキー作品の魅力となっています。

文学としての芸術とは何か、そしてそれを補ってやまないドストエフスキーの思想力とは何かというのもツルゲーネフを読むことで見えてくるのではないかと感じています。

芸術家ツルゲーネフの凄みをこれから見ていくことになりそうです。

ツルゲーネフの主要作品一覧

1847 『猟人日記』第一作目『ホーリとカリーヌイチ』
1849 『猟人日記』『シチグロフ県のハムレット』
1850 『猟人日記』『あいびき』
1852  『猟人日記』刊行
1854 『ムムー』
1856 『ルーヂン』『ファウスト』
1858 『アーシャ(片恋)』
1859 『貴族の巣』
1860 『ハムレットとドン・キホーテ』『その前夜』『初恋』
1862 『父と子』
1864 『まぼろし』
1867 『煙』
1877 『処女地』

ツルゲーネフはどんな作家?

ツルゲーネフは『あいびき』や『父と子』、『初恋』などで有名な作家ですが、どのような特徴を持った作家なのかと言いますと、なかなか日本では知られていません。

そこでロシア文学者佐藤清郎の『ツルゲーネフの生涯』にわかりやすい解説がありましたので少し長くなりますが引用します。

ロシヤ文学・思想史において、ツルゲーネフは、ふつう十九世紀中葉の代表的西欧派、穏健な自由主義者ないし漸進主義者として規定されている。いずれもそれなりに肯けるものであり、とりわけ西欧派という規定は、ツルゲーネフ自身が誇りをもって自認し、かつ宣言しつづけたものである。

しかしながら、同じく西欧派と言っても、べリンスキーやゲルツェンと比べてみれば、その間の違いは顕著である。(中略)

ツルゲーネフには、べリンスキーやゲルツェンに見られるような未来志向の「熱っぽい」革命家的気質はない。また、ゴンチャローフのような、近親者との交際さえ断つほどの「冷たい」孤立者的な気質も持ち合せていない。

ツルゲーネフの生涯を概観するとき、私の前には、良心的(後にはむしろ積極的)な中道主義者のイメージが浮かぶ。思想的には左と右の、理想主義と現実主義の、作家としてはクロニクル作家とロマン作家の、生活者としては行動家と傍観者の、まさしく中道を歩いた人としてのイメージである。

歴史を直接動かす者が行動家であるなら、中道者は観察し、記録し、批判する。行動家の心に「明日」への志向があるのなら、中道者の心には「昨日」への回顧と「今日」の「事実」への凝視がある。ゲルツェンの「明日」への志向に対して、終始ツルゲーネフがクールな「今日の事実」で立ち向ったことは広く知られているとおりである。

筑摩書房 佐藤清郎『ツルゲーネフの生涯』P3

ツルゲーネフは極端な立場を取らず、中道主義者として世界を観察し、「今日の事実」を凝視します。つまり熱烈な思想家というより世界の観察者、芸術家という側面が強い作家であるといえるでしょう。

ここからさらに佐藤清郎はドストエフスキーやトルストイと比べながらツルゲーネフを論じていきます。

彼はトルストイやドストエフスキーのように神や、「絶対」や「体系」を追い求めない。(中略)

「簡単に申しますと、私はすぐれてリアリストなのです。何よりも興味を覚えるのは人間の相貌の生きた真実であって、あらゆる超自然的なものに無関心です。いかなる絶対的なものも、体系も信じません、何よりも自由を愛します。」(一八七五年二月二十二日、ミリューチナ宛) (中略)

これらの見解は、彼自身の思想宣言と言っていい。ためらいのゆえに中道を歩むのではない。相対主義が彼の哲学であったからだ。「羊の性格」と自嘲する彼は、一方では「私は救済を求めない、真理を求める」と言いきる強さを持っていたのである。(中略)

気むずかしい友人トルストイの中に彼はすばやく、「エゴイスト」をかぎとりながら、その「エゴイズム」の中に強引に人を引き寄せる硬質の、不思議な力を感じてそれを讃美し、ドストエフスキーの中に未整理の「混沌」を見、その中に美からは遠い醜をすら感じながら、その真摯な探求に脱帽する寛容さを彼は持っていた。

その寛容さがあって初めて、フランス文人の中にあって敬愛の的になり、最初の国際的ロシヤ作家たりえたのだ。

エミール・ゾラ、モーパッサンをロシヤに紹介したのも、トルストイを西欧に宣伝したのも彼である。彼はトルストイとの絶交の間でさえ、相手の芸術をたたえ通すことのできた男なのだ。まさに美と芸術に憑かれた男であったからだ。(中略)

われわれは当然のことながら、第一義的に彼を芸術家として見ていかねばならない。まず第一に、すばらしい言葉と文体の創造者としての彼を忘れてはならない。ゴーリキーが近代ロシヤ語の創始者としてプーシキン、ツルゲーネフ、チェーホフの三人の名を挙げているのも理由のあることである。

筑摩書房 佐藤清郎『ツルゲーネフの生涯』P4-5

なるほど。トルストイやドストエフスキーと比べてみるとそのような違いがあるのですね。

そしてここで面白いのはツルゲーネフがエミール・ゾラやモーパッサンをロシアに紹介し、トルストイをはじめとしたロシア文学をヨーロッパに広めた功績があるという点です。

ツルゲーネフは作家人生の大半をロシアではなくヨーロッパで過ごしました。そのためヨーロッパの作家たちとの交流が非常に多かったのです。

特にエミール・ゾラは私のブログでも紹介させて頂いていたフランスの文豪です。

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エミール・ゾラの書簡集を読んでいたとき、ツルゲーネフの名前が出て来てとても驚いたことを覚えています。

ツルゲーネフは芸術に対する真摯な愛があったからこそ政治的、思想的立場にとらわれず文学作品を批評することができました。先程出てきました中道的、観察者的立場であるツルゲーネフならではの幅の広さが、ヨーロッパで国際的な文学者として敬愛される理由となったのです。

ツルゲーネフの出自

ツルゲーネフは1818年生まれでドストエフスキーの3歳年上にあたります。

彼の代表作『猟人日記』の巻末解説にその出自がわかりやすくまとめられていましたので引用します。

イワン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフ Ивaн Сергеевич Тургенев(1818-83)は、ヨーロッパ・ロシヤの中央部にあるオリョール市に生れた。

軍職にあった父が二年後に退職すると、一家はオリョール県下の母の領地に移り住んだ。

母は権勢欲の強い、わがままで、ヒステリックな婦人で、農奴にたいする仕打ちは苛酷であった。元来、彼女は孤児としてみじめな青春をすごしたのであったが、すでに老嬢となってから、はからずも莫大な資産の相続人となったのである。

そこへ、古い家柄の出ではあるが、零落した士族であるツルゲーネフの父があらわれて、二人は結婚をした。夫から見て、いわば金が目当てであるこの結婚は、妻にとって幸福であり得なかった。

二人の間にはとかく風波が絶えず、その家庭生活がどんなに味気ないものであったかは、ツルゲーネフの自伝的短篇小説『初恋』(一八六〇)に描かれているところである。

父は早死をするが、やもめになった母はますます頑固に、矯激になっていき、晩年は短篇『ムムー』(一八五四)の女地主さながらの横暴な生活を送るようになった。(たとえば、お辞儀のしかたが悪いというだけの理由で、二人の農奴をシベリヤ送りにしたことさえあった。)

このような環境の中でツルゲーネフは幼時から、農奴制度というものを深く憎むようになった。そしてその反面、ロシヤの自然を愛し、民衆に同情する気持をはぐくまれたのである。

岩波書店 佐々木彰訳『猟人日記 下』P299

ツルゲーネフの幼少期は幸福なものではありませんでした。

両親の不仲。暴君のような母。虐待される農奴の姿。

彼はそんな悪しきロシアの姿をその目に焼き付けていたのです。

だからこそ彼は旧態依然のロシアを嫌い、ヨーロッパへと目を向けるようになったのです。幼少期の原体験が彼の文学人生の方向性を決めることになったのです。このことは非常に重要です。

ドストエフスキー側からだけツルゲーネフを見ていくとただ単に嫌な人間という感じで描かれますが、彼は彼でとてつもない苦労を味わっているのです。伝記を読んでいてもそれを感じます。たしかに全面的に彼の行動や考え方に賛同することはできないのですが、一面的にツルゲーネフを切って捨ててしまうのは申し訳ないことだなと感じました。

ツルゲーネフの生涯は非常に興味深い出来事の連続です。ツルゲーネフという人もドストエフスキーと同じく奇妙奇天烈な人間でした。

彼の生涯をすべて紹介することはここではできませんので、以下年表を用いて彼の生涯をざっくりと見ていきましょう。

ツルゲーネフ年表

ここからは河出書房新社『世界文学全集9 プーシキン ツルゲーネフ』巻末の年表と、筑摩書房、佐藤清郎『ツルゲーネフの生涯』巻末の年表を参考にざっくりとツルゲーネフの生涯をたどっていきたいと思います。

では早速始めていきましょう。

1818 (0歳)オリョール県スパスコエ村に生まれる

1829(11歳)兄と共にアルミャンスク専門学校の寄宿学校に入る

1833(15歳)モスクワ大学文学部に入学

1834(16歳)ペテルブルグ大学に哲学部に転校。父セルゲイ死去 この後母の横暴がより強くなる

1835(17歳)ゴーゴリの世界史の講義を聴講

1837(19歳)憧れの人プーシキンをエンゲリガルト家の広間で見かける。その数日後プーシキンはダンテスとの決闘により死去
日本では大塩平八郎の乱が起きた年

1838(20歳)ベルリン大学へ遊学。ヘーゲル哲学に熱中

1841(23歳)夏、ロシアへ帰り、モスクワでスラブ主義の人々と交わって失望、ゲルツェンなどの進歩的な人々と交際、ますます西欧派としての自覚を高める

1842(24歳)農奴の娘イヴァーノヴァとの間に娘ポーリーヌ誕生(※イヴァーノヴァとは結婚はしていない)。教授への道を諦め作家生活に入る
ゴーゴリ『死せる魂』

1843(25歳)オペラ歌手ポーリーナ・ヴィアルドー夫人に恋に落ち、生涯にわたる交際が始まる。批評家ベリンスキイと近づく。
ディケンズ『クリスマス・キャロル』

1845(27歳)『貧しき人びと』を完成させたドストエフスキーと知り合う

1847(29歳)『猟人日記』の最初の一篇『ホーリとカリーヌィチ』を発表。絶賛される。

1848(30歳)ブリュッセルでフランス二月革命勃発を知り、ただちにパリに向かい、革命後のパリをさまよう。
デユマ・フェス『椿姫』

1849(31歳)ドストエフスキーシベリア流刑

1850(32歳)母ヴァルヴァ―ラと対立深まる。娘ポーリーヌをヴィアルドー家に送る。『あいびき』発表。母ヴァルヴァ―ラ死去
ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』

1852(34歳)『猟人日記』完稿。この作品は社会に大きな衝撃を与えたが、特にアレクサンドル二世がこの書によって農奴解放の決意を養われたという話は有名。この年ゴーゴリの死に際してモスクワ新聞に寄せた一文が官憲の怒りに触れ、郷里のスパスコエに軟禁される。そこで短編『ムムー』を執筆。
ナポレオン三世即位、フランス第二帝政がスタート

1854(36歳)軟禁を解かれる。
日本では前年ペリーが来航し、この年に日米和親条約を結ぶ

1855(37歳)トルストイに初めて手紙を書く。11月21日クリミア戦争の激戦地セヴァストーポリから帰還したトルストイがツルゲーネフを訪ね、食事を共にする。

1856(38歳)『ルージン』を発表。いよいよ名声が高まる。

1859(41歳)『貴族の巣』発表。絶賛される。ロシア文学愛好者協会の実行委員に選ばれる。ドストエフスキー、シベリア流刑より帰還
ダーヴィン『種の起源』

1860(42歳)『ハムレットとドン・キホーテ』と題する講演を行う。長編小説『その前夜』、中編小説『初恋』を発表

1861(43歳)ロシアで農奴解放令が布告。ツルゲーネフは状況を注視する。トルストイと娘ポーリーヌの教育の件で口論になり危うく決闘沙汰になる。
アメリカ南北戦争

1862(44歳)『父と子』発表。「ニヒリスト」という言葉はこの作品が起源。この作品は新旧両世代から一斉に攻撃を浴びた。ツルゲーネフはロシア社会との間の溝がますます深まったのを感じて憂愁を深めていった。
ユゴー『レ・ミゼラブル』発表。ドストエフスキー初のヨーロッパ旅行

1863(45歳)ドイツの保養地バーデン・バーデン滞在中、ドストエフスキーが訪ねてくる。

1864(46歳)ドストエフスキーの雑誌『世紀』に『まぼろし』を寄稿。

1865(47歳)バーデン・バーデンでドストエフスキーから100ターレルの借金を申し込まれ、50ターレルを貸す。これが後のいざこざの原因になる。
トルストイ『戦争と平和』

1867(49歳)『煙』発表。アンナ夫人とヨーロッパ外遊中のドストエフスキーがバーデン・バーデンのツルゲーネフを訪ね口論になる。

1877(59歳)『処女地』発表

1879(61歳)久しぶりに帰国するとロシアの知識人や民衆から熱烈な歓迎を受ける。オクスフォード大学から名誉博士の称号を与えられる。

1880(62歳)モスクワで行われたプーシキン記念碑除幕式に列席し講演。ドストエフスキーも講演。

1883(65歳)パリ近郊にて脊髄癌で死去。最晩年、手紙で文学を捨て精神的に不安定にあったトルストイに文学活動に復帰するよう忠告する手紙を書く。

まとめ

ツルゲーネフは大地主の家に生まれ、大貴族の御曹司として育ちました。

お金もままならない下級貴族出身のドストエフスキーとはまるで違った人生です。

幼少の頃から何度もヨーロッパへ外遊し、生涯にわたって国際人として活躍したツルゲーネフ。

彼が西欧派と呼ばれるロシアの近代化を目指す陣営にいたのもこうした背景がありますが、やはりその根底には幼少期の辛い体験があったと思われます。

専制的な暴君のような母親。虐待される農奴の姿。そしてその農奴からの搾取で成り立つ自らの生活。

ツルゲーネフはそうした旧きロシアの農奴制度に心からの嫌悪を感じていたようです。

ツルゲーネフの生涯をたどることでドストエフスキーの側から見たツルゲーネフ像とはだいぶ違った姿を感じることができました。

以上、「ロシアの文豪ツルゲーネフの生涯と代表作を紹介―『あいびき』や『初恋』『父と子』の作者ツルゲーネフの人間像」でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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