(24)プラハに滞在したかったドストエフスキー夫妻~あのスメタナともニアミス!泣く泣くドレスデンへ。二人の旅も終盤へ
【ドイツ旅行記】(24)プラハに滞在したかったドストエフスキー夫妻~あのスメタナともニアミス!泣く泣くドレスデンへ。二人の旅も終盤へ
娘の出産のためにフィレンツェからプラハへ向かったドストエフスキー夫妻。
前回の記事「(23)ドストエフスキー夫妻のヴェネツィア滞在~美しき水の都にドストエフスキーは何を思ったのだろうか」ではその途中に立ち寄ったボローニャとヴェネツィアを紹介した。
今回の記事ではそのプラハでの夫妻と最終的に落ち着くことになった二度目のドレスデンについてお話ししていきたい。
まずは改めてなぜドストエフスキー夫妻がプラハを目指したのかを再確認しよう。
プラハを目指した理由
イタリアに滞在した九カ月間に、わたしはイタリア語を学んでいくらか話せるようになった。女中と話したり、店で用を足したりするのに不自由せず、『ピッコラ』や『セコラ』といった新聞も読めて、たいていわかるくらいになっていた。仕事にかかりきりの夫にはもちろん言葉をおぼえるひまはなく、わたしが通訳してやっていた。いまや、喜びがせまってきたので、夫がフランス語かドイツ語かで医者や産婆や店員たちと不自由なく話せるような国へ移り住む必要があった。どこに行くべきか、どんな所なら夫が知識人社会に行きあえるか、といった問題を長いあいだ話しあった。わたしは夫に、故国ですごすような、ロシアに近いプラハで冬を越しては、と言ってみた。ここなら夫も、すぐれた政治活動家たちとも知合いになれるだろうし、その人たちをつうじてそこの文学者や芸術家のサークルにもはいって行けるかもしれない。夫は、一八六七年のスラヴ会議に出席できなかったことをくりかえし残念がっていたので、さっそくこれに賛成した。彼はロシアで起こっていた汎スラヴ運動に共鳴していたので、その地の人々をもっと親しく知りたいと望んでいた。こうして、結局、プラハに行って冬のあいだすごすことに決めた。わたしの体の具合では旅行はむりだったので、途中いくつかの都市で休み休み行くことにした。
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P204
フィレンツェ滞在中、アンナ夫人の第二子懐妊がわかり、そのため二人は引っ越しを考えていた。そこで候補地に挙がったのがプラハだった。ここで述べられている通り、プラハはロシア人であるドストエフスキーとも語れる知識人が多く住んでいた。そしてチェコは当時ハプスブルク帝国の一部ではあったが、チェコ人はスラブ系の人が多いというのもドストエフスキーにとってはありがたいものがあった。ロシア人もスラブ系。同じスラブ系の人々と語ってみたいというドストエフスキーの考えも納得できる。
ヴェネツィアからトリエステまでの船旅はひどい荒模様だった。フョードル・ミハイロヴィチはわたしのことを気づかって一歩もはなれないほどだったが、さいわい何ごともなくてすんだ。その後二日間ウィーンにいて、旅に出てから十日後にようやくプラハにたどりついた。だが、ここに待ちうけていたのは大きな失望だった。そのころプラハには、家具つきの部屋は独身者用しかなく、家族用の部屋、つまりいっそう静かで住み心地のいいのは全くなかった。プラハにとどまるためには、アバートを借り、半年分の家賃を前払いしたうえ、家財道具いっさいを自分でそろえなければならなかった。これは資力にあまるので、三日間さがしまわったあげくに、残念でならなかったが、短期間ながらすっかり気にいった黄金のプラハをあとにしなければならなかった。こうして、スラヴ世界の活動家たちと関係をもちたいという夫の夢もやぶれた。けっきょく、わたしたちに生活条件のわかっているドレスデンにおちつくほかはなかった。
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P205
百塔の街プラハ。世界で最も美しい街の一つ。文化の香る中世の街並みと美しきモルダウの流れ。ここは個人的にも私が最も愛する街でもある。
どこを歩いてもうっとりするほどの景色。
「それにしても美しい。プラハはなぜこんなに美しいのか!」
これは春江一也の『プラハの春』という小説に出てきた一節だ。これほど見事にプラハの魅力を言い当てた言葉がほかに存在するだろうか。
だが、それだけではない。目に見える美しさだけが私を虜にしたわけではないのだ。
目には見えない内面的なもの。きっとそれが感じられたからこそ、私はここまで惹かれたのだろう。プラハが生きてきた歴史、文化、精神性。それが香ってくるのだ。
きっとドストエフスキーもそうしたプラハの精神性を感じたに違いない。
「もしドストエフスキーがこの街に滞在することができたなら・・・」
歴史において「もし」は禁じ手ではあるがあまりに魅力的な「もし」である。
面白いことにドストエフスキー夫妻がやって来た1869年はあの『ヴルタヴァ(モルダウ)』で有名なスメタナが活躍していた時代だ。ドヴォルザークも彼の楽団に所属し頭角を現し始めていた。
その彼らとドストエフスキーが接点を持つこともありえたかもしれないのだ。私は個人的にスメタナに強い関心があったのでこれは非常に気になるところではある。
プラハやスメタナについては当ブログでもこれまで紹介してきたので、ぜひ以下の記事も参照頂ければと思う。プラハの魅力をぜひ知って頂けたら嬉しい限りだ。
ドレスデンへの到着と第二子の出産
八月の初めにふたたびドレスデンにやってきて、イギリス地区ヴィクトリア通り五番館の三部屋の家具つきアパートを借りた(母が出産の手つだいにまた来てくれた)。この家で、一八六九年九月十四日、次女のリュボーフィが生まれる家庭の幸福にめぐまれた。夫はこの非常な幸福をマーイコフに知らせて、教父になるようにたのんでいる。「三日まえに娘のリュボーフィが生まれました。すべてうまくはこび、赤ん坊は大きく、丈夫そうで、器量よしです」(一八六九年九月二十九日、ロシア暦十七日づけ)。もちろん、かわいくてならず、喜びいっぱいの父親の目からは、ばら色のちいさな生きものはたしかに「器量よし」に見えるしかなかったろう。
この子が生まれてからは、また、家庭に幸福がかがやいた。彼のかわいがりようは並たいていでなく、彼女にかかりっきりで、自分で湯をつかわせる、抱く、寝かしつけるといったぐあいで、幸せのあまりストラーホフにこう書いたほどだった。「ああ、どうして結婚しようとなさらないのですか、子どもを持とうとなさらないのですか、尊敬するニコライ・ニコラーエヴィチ。誓って申しますが、このことのなかにこそ生きる喜びの四分の三があり、そのほかはみな、わずか四分の一にしかあたらないのです」(一八七〇年三月十日、ロシア暦二月二十六日づけ)
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P205-206
第一子を生後三カ月で失い、絶望の淵に暮れていたドストフスキー。その彼が第二子の誕生でどれほど慰められていたかは上のアンナ夫人の言葉が裏書きしているだろう。
ドストエフスキーはこの後もずっと子供たちを溺愛し続ける。ドストエフスキーといえば厳めしくて暗い作家というイメージがあるかもしれないが、こういう子煩悩のパパという側面もあったのである。その溢れんばかりの子供への愛が作品にも影響している。その典型が『カラマーゾフの兄弟』だ。この作品にはたくさんの子供が出てくる。そしてその役割は極めて大きい。ドストエフスキーが子煩悩だったということを念頭に置いて読んでみると、きっとまた違った『カラマーゾフ』が見えてくるのではないかと思う。ぜひお試しいただきたい。
『永遠の夫』の執筆と『偉大な破戒者の生涯』の構想~『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』の萌芽
ドレスデンでは、ロシア語や外国語の新聞がそろった立派な読書室が見つかった。また定住しているロシア人のあいだに知合いもでき、夕べのおつとめのあと、みんなはたいへん客好きな神父の家に集まったりした。新しく知人になった人々のなかには、思慮に富んだ知識人もいて、夫はその人たちと話すのをたのしんだ。これはドレスデン生活のいい面だった。
フョードル・ミハイロヴィチは、「永遠の夫」を書きあげると雑誌『黎明』に渡し、一八七〇年の一月号と二月号に発表された。(中略)
一八六九年から七〇年にかけての冬は、夫は、「偉大な破戒者の生涯」と名づけようと思っていた新しい小説のプランを練るのにいそがしかった。夫の考えでは、この作品は(おのおのが印刷紙十五台ほどの)五つの小説から成り、その一つ一つが雑誌に発表しても単行本にしてもいいように独立した作品をなすはずだった。そしてこの五つの小説に、彼が生涯にわたって悩みつづけてきた神は存在するかという重大で苦痛にみちた問題をあつかうつもりだった。第一の小説の事件は一八四〇年代に起こることになっていたが、その素材やその時代のさまざまなタイプは彼にはよくわかっていたし、なじみでもあったので、ひきつづき外国にいても書けるはずのものだった。夫はこの小説を『黎明』に発表するつもりだった。しかし、事件が修道院でおこる二番目の小説のためには、どうしてもロシアに帰らなければならなかった。夫はこの小説で、もちろん名を変えてはあったが、聖チーホン・ザドンスキーを主人公にしようとしていた。彼はこの長篇に大きな期待をかけ、自分の文学活動の総決算になるだろうと考えていた。これはのちに実をむすんで、書かれるはずだった長篇の多くの主人公たちが「カラマーゾフ兄弟」に出てくることになった。だがそのときは、計画は実現しなかった。別のテーマに没頭していたからで、このことについて彼はストラーホフにこう書きおくっている。「いま『ロシア通報』のために書いている作品には、大きな望みをかけています。だが、それは芸術的な面からではなくて、傾向的な面からです。わたくしはいくばくかの思想を述べてみたいのです。たとえこれでわたしの芸術性が失われるとしても、自分の理知と心情につもったものがわたしを引きつけてやまないのです。たとえパンフレットにおわろうとも、わたしはそれを述べるつもりです」(一八七〇年四月五日、ロシア暦三月二十四日)
これは、一八七一年に発表された長篇「悪霊」のことだった。
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P206-208
ドストエフスキーは晩年の大作群『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』に直結する構想『偉大な破戒者の生涯』をここドレスデンで進めていた。
『偉大な破戒者の生涯』自体はこれらの作品に姿を変えていってしまったのでもはや残されていないが、もしドストフスキーがあと五年でも長生きしてくれていたらあと一作品は日の目を見れたかもしれない。だが、それは「もし」の話だ。これ以上は控えておこう。
重要なのは、晩年の作品への道筋がこの旅の最中に着想されたということだ。この長い西欧旅行を経てドストエフスキーが得たものは非常に大きい。そのことはぜひ強調したい。(上の解説に出てきた聖チーホン・ザドンスキーについては以下の記事参照)
ホームシックに苦しむドストエフスキー夫妻
1867年4月にロシアを出発したドストエフスキー夫妻。彼らはほんの3、4カ月のつもりで旅に出たのだが、気づけばもう丸三年以上の月日が経っていた。
外国生活もはじめの三年間は、ロシアをなつかしむことこそあっても、善きにつけ悪しきにつけ新鮮な印象がつぎつぎに起こって、わたしの望郷の念もかき消されがちだった。だが四年目にはいってからは、もはやそれを押えることができなくなってきた。身のまわりには、夫や子ども、母や弟といった愛する最も親しい人々がいたにもかかわらず、なにか大切なものが欠けている感じだった。祖国が、ロシアが欠けていたのだ。郷愁はだんだんと病的になり、苦悩となっていった。そして未来がまったく絶望的にさえ思われるようになった。もう決してロシアに帰ることはないだろうと思い、帰ろうとするといつも何かしら大きな障害がおこるような気がしてならなかった。金がなかったり、あっても妊娠していたり、子どもが風邪を引くのがこわかったりして、立つことができなかった。外国はわたしには、そこにほうりこまれて、けっして逃れることができない牢獄のように思われた。どれほど身内のものに説得されようと、事態がかわりさえすればきっと国に帰ることができるとどれほど慰められようと、これらの言葉がみなむなしいものに感じられた。わたしは慰めの言葉を信じなくなり、自分は永久に異郷にとりのこされると運命づけられているのだとかたく信ずるようになっていたから。自分がこれほど国を恋しがることが、同じように祖国を遠くはなれて言うに言われぬつらい思いで暮している愛する夫を苦しめることになるとはよくわかっていた。だから、彼のいるところではできるだげ辛抱し、泣かないように、こぼさないようにしてきたが、わたしの沈んだようすは、しばしば自分を裏切ることになった。自分が不断誇りにしているなつかしい祖国で暮すことができさえすれば、どんな不幸も、貧乏も、どん底生活さえも我慢しよう、と自分に言いきかせるのだった。そのころの気もちをふりかえってみると、苦しく耐えがたいほどで、たとえ憎い敵でも味わわせたくないほどだ。
みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P212-213
これまで様々な困難を乗り越えてきたアンナ夫人にもさすがに限界がやって来た。ドストエフスキー自身はこの旅の早い段階から早く帰りたいとこぼしてはいるが、アンナ夫人の心が折れてしまったら万事休すである。彼はすっかりアンナ夫人に頼り切っている。アンナ夫人がしっかりしていなければドストエフスキーも共倒れなのだ。
放浪の旅も4年目を迎え、二度目のドレスデンに滞在した二人。バーデン・バーデンの地獄ともジュネーブでのどん底とも違った苦難が二人を襲っていたのであった。
次の記事ではそんなドストエフスキー夫妻にとって青天の霹靂とも言える出来事をお話ししていく。
なんと、ドストエフスキーがギャンブル中毒から完全に立ち直るという奇跡のような事件が起きたのだ!
続く
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