【ヴェネツィア旅行記】(23)芸術の都ヴェネツィアを訪ねて~美しき水の都にドストエフスキーは何を思ったのだろうか

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

【ヴェネツィア旅行記】(23)色彩豊かな芸術の都ヴェネツィアを訪ねて~美しき水の都にドストエフスキーは何を思ったのだろうか

前回の記事「(22)フィレンツェでのドストエフスキーの日々~ゆかりの地や彼お気に入りのラファエロ作品『小椅子の聖母』などをご紹介!」ではフィレンツェでのドストエフスキー夫妻をご紹介した。

今回の記事ではドストエフスキー夫妻が次に訪れたヴェネツィアについてお話ししていく。

では早速アンナ夫人の言葉を聞いていこう。

フィレンツェからヴェネツィアへ向かうドストエフスキー夫妻

イタリアに滞在した九カ月間に、わたしはイタリア語を学んでいくらか話せるようになった。女中と話したり、店で用を足したりするのに不自由せず、『ピッコラ』や『セコラ』といった新聞も読めて、たいていわかるくらいになっていた。仕事にかかりきりの夫にはもちろん言葉をおぼえるひまはなく、わたしが通訳してやっていた。いまや、喜びがせまってきたので、夫がフランス語かドイツ語かで医者や産婆や店員たちと不自由なく話せるような国へ移り住む必要があった。どこに行くべきか、どんな所なら夫が知識人社会に行きあえるか、といった問題を長いあいだ話しあった。わたしは夫に、故国ですごすような、ロシアに近いプラハで冬を越しては、と言ってみた。ここなら夫も、すぐれた政治活動家たちとも知合いになれるだろうし、その人たちをつうじてそこの文学者や芸術家のサークルにもはいって行けるかもしれない。夫は、一八六七年のスラヴ会議に出席できなかったことをくりかえし残念がっていたので、さっそくこれに賛成した。彼はロシアで起こっていた汎スラヴ運動に共鳴していたので、その地の人々をもっと親しく知りたいと望んでいた。こうして、結局、プラハに行って冬のあいだすごすことに決めた。わたしの体の具合では旅行はむりだったので、途中いくつかの都市で休み休み行くことにした。まずヴェネツィアまで行く予定だったが、ボローニャで途中下車して、そこの美術館にラファエロの「サンタ・チェチリア」を見に行った。いままで模写でしか見たことがなかったのに、こうして原画が見られてとても幸せそうだった。わたしは、汽車が出てしまうのを案じながら、このみごとな絵のまえに立ちつくしている夫をそこから引きはなすのにたいへん骨折った。

みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P204

フィレンツェ滞在中、アンナ夫人の第二子懐妊がわかり、そのため二人は引っ越しを考えていた。

そしてその候補に上がったのがプラハだった。この街については後に改めてお話ししていくが、ドストエフスキー夫妻はその道中、まずはボローニャで途中下車したのであった。私も彼ら夫妻にならってフィレンツェからこの街で途中下車することにした。

ボローニャ国立絵画館のラファエロ『サンタ・チェチリア』

フィレンツェからボローニャへは高速鉄道で約40分ほどで着いてしまう。思っていたよりも近い。

ドストエフスキー夫妻が見たラファエロの『サンタ・チェチリア』は現在ボローニャ国立絵画館に展示されている。駅からは徒歩でおよそ20分ほど。

こちらがそのボローニャ国立絵画館。早速私も入場する。

鉄道の時間の関係で私もドストエフスキー夫妻と同じく時間がなかった。一目散にラファエロの絵に向かう。

これがドストエフスキーが立ちつくしてしまった『サンタ・チェチリア』だ。思っていたより大きな絵だ。もう少し寄ってみよう。

サンタ・チェチリア(聖セシリア)は二世紀頃のローマ帝国の殉教者で、音楽家と盲人の守護聖人として有名だ。

だからこそこの絵も楽器が描かれている。だが、音楽の守護聖人なのに足元には壊れた楽器が無造作に置かれているという何とも不思議な構図である。一人一人の顔やポーズ、服の描写はやはりラファエロらしさがある。無類のラファエロ好きのドストエフスキーにはやはりどんぴしゃな作品だったのだろう。

頭上の天使たちの楽し気な様子が妙に印象深かったのを覚えている。中央のサンタ・チェチリアはローマ帝国によって斬首の刑にあったという悲劇的な終わり方を迎えただけになおこの表情は意味深いものを感じる。

ちなみにこのサンタ・チェチリアはローマにも有名な彫刻作品がある。

ここはローマ市内にあるサンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会。この中央祭壇にステファン・マデルノ作の『聖セシリアの殉教』という作品が納められている。

私はこの彫刻を観た時の衝撃を忘れられない。ただ単にリアルだとかそういう次元の話ではないとてつもないショックを受けた。実はフィレンツェに来る前に私はローマに10日間ほど滞在していた。そのローマ滞在を通して最も衝撃を受けた彫刻は間違いなくこれだ。ベルニーニをはじめとした天才たちの作品と比べてもこの作品の持つパワーは異常であると私は思う。ラファエロの絵を観ながら私はこの彫刻のことを思わず思い出してしまった。

それにしてもアンナ夫人が「わたしは、汽車が出てしまうのを案じながら、このみごとな絵のまえに立ちつくしている夫をそこから引きはなすのにたいへん骨折った」と言っていたのは興味深い。ドストエフスキーの絵画に対する感受性の強烈さは注目に値するのではないだろうか。ドレスデンではラファエロの『システィーナの聖母』やクロード・ロランの『アキスとガラテイア』に夢中になり、バーゼルでもハンス・ホルバインの『棺の中の死せるキリスト』に凍り付いた。絵画に対する強い関心はフィレンツェでも見てきた通りだ。

ドストエフスキーは絵画という芸術媒体に強い感受性を持っていた。だが演劇やオペラにはあまり関心を持っていない。面白いことに、これはツルゲーネフとは正反対だ。ツルゲーネフはオペラに夢中で、オペラ歌手ポーリーヌ・ヴィアルドーに熱烈に恋し、その関係は生涯続いた。彼女を追ってバーデン・バーデンに邸宅を構えたほどである。

そしてもう一人の文豪トルストイになるとさらに強烈。トルストイは晩年の著書『芸術とは何か』で語るように、そもそも芸術そのものを否定する。道徳的にためになるものでなければ芸術などけしからんと否定してしまう。

絵画的なドストエフスキー。オペラ的・音楽的なツルゲーネフ。芸術批判のトルストイ。

三者三様の個性があって非常に面白い。

そんなことを思いながら私も急ぎ絵画館を出発しヴェネツィアへ向かったのであった。

いよいよ水の都ヴェネツィアへ

ヴェネツィアには三、四日しかいなかったが、彼はサン・マルコ寺院の建築にすっかりひきつけられて、何時間も美しいモザイクの壁をながめていた。いっしょにドゥカーレ宮殿にかよったが、夫はそのすばらしい建築を賛嘆していた。そして十五世紀のもっともすぐれた画家たちのえがいた総督邸の天井のおどろくべき美しさにうっとりしていた。ヴェネツィアにいた四日間とも、わたしたちは昼も夜も魅惑的な印象を与えるサン・マルコ広場から立ち去ることができなかったと言っていい。

みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P205

私は鉄道でヴェネツィアに入った。ヴェネツィアに近づくと、列車が海の上を走っていることに感動する。ヴェネツィアは本当に海の上にあるんだと実感した。街が見え始めた時は思わず高揚してしまったことをよく覚えている。

駅を出たらいきなり運河!おぉ~これがあのヴェネツィアか!と興奮せずにはいられない。この街のスペクタクル、エンターテインメント感は突き抜けている。着いてすぐに「俺はヴェネツィアに来たんだ!」と感動させるなんてそう簡単にできることではない。さすがのヴェネツィアである。

私は水上バスに乗り込み、街の中心部に向かった。ヴェネツィアには車や電車という交通手段がない。その代わり運河を利用した水上バスが頻繁に走っている。これもなんともヴェネツィアらしい演出である。

まだ夕暮れの時間には早いのだが海の向こう側がオレンジ色に染まっていた。

そしてこの景色を見ている内に私ははっとした。かつて読んだ「ローマの線描に対するヴェネツィアの色彩という図式」という言葉が強烈に頭の中に差し込んできたのだ。

ヴェネツィア絵画は鮮やかな色彩が特徴だとそこでは述べられていた。

たしかにこの景色はまさにそれを表している。目の前のオレンジ色、雲の陰影、雲間から差し込む光と水色の空、そして海の深く暗い青・・・

これはまさにヴェネツィア絵画そのものではないか!

ティントレット『最後の晩餐』(1592-1594)Wikipediaより

その地域の環境がその地の文化を形成するということを強く感じた。こうした絵が好まれるのはこのような環境にあるからなのだ。ヴェネツィアには美しい色彩がすでにして溢れているのだ。

間もなくサン・マルコ広場近くの中心部へ到着。

水上バスを降りて近くの小路に入ってみる。本当に隅から隅まで運河がある。ゴンドラがあるとはいえどうやって車もないのにものを運ぶのだろうと不思議に思ってしまう。

では、ここからドストエフスキー夫妻も歩いたヴェネツィアの街を見ていくことにしよう。

ヴェネツィアの中心サン・マルコ寺院とサン・マルコ広場

ドストエフスキー夫妻も絶賛したサンマルコ寺院と広場。姪ソーニャ・イヴァーノヴァへの手紙でもドストフスキーはサン・マルコ寺院を「これは何ものにもたとえがたい驚嘆すべきものです(1869年8月29日付)」と褒め称えている。

私個人としては昼よりも夜のサン・マルコ広場に心惹かれた。月明りが雲を不気味に照らし、ヴェネツィアらしいドラマチックな雰囲気を作り出していた。ドストエフスキーのいた頃には当然電気もない。街全体はもっと薄暗かったはずだ。だがその分月明りはより強烈で、明かりに使われていた火の効果も大きかったことだろう。美しく照明に照らされた現代と、かつての自然光だけの時代。どちらが美しく見えるのか気になってしまった。

柱の間から見たサン・マルコ広場はまさに額縁に入った絵画そのもの。どこに行っても芸術家を刺激してやまない美しい街がヴェネツィアなのか。

夜道のヴェネツィアも素晴らしかった。幻想的。なるほど、これはティントレットの絵も生まれてくるなと大いに納得した。

ヴェネツィア絵画の殿堂ドゥカーレ宮殿の天井画と壁画に驚く

サン・マルコ広場すぐ近くに位置するドゥカーレ宮殿。ここもドストエフスキー夫妻は訪れている。

宮殿に入ってすぐに気づくのはやはり天井画の豪華さだ。これでもかと金の額縁が天井を覆い、色鮮やかな絵画が描かれている。

とにかく天井!天井!天井!

天井を飾ろうとする飽くなき情熱のようなものを感じた。壁も当然びっしり絵が飾られているのだがやはり天井!明らかに力の入れようが違う。

ティントレットの壁画のある部屋に入った時は「やっちゃったなぁ~・・・」という謎なつぶやきが私の口から自然と漏れてきた。

情熱というよりもう「渇望」と言ってもいいのではないか。ここまで突き抜けて天井を飾るのはある意味あっぱれである。開いた口が塞がらない。

そしてティントレットの巨大な壁画も素晴らしい。まさに人の洪水。大波が打ち付けるかのような人の群れ。頻繁に洪水に襲われる海の街だからこそのインスピレーションなのだろうか。圧倒されるほかない。

翌日には私はアカデミア美術館にも足を運びヴェネツィア絵画を堪能した。

やはりヴェネツィア絵画は独特だ。見れば一目でわかるその色彩、ドラマチックな構図。激しさすら感じる。これも内陸性のミラノやフィレンツェと違う地中海のならではの文化ということなのだろうか。イタリアは地域によって全くその雰囲気が違うので色々と巡ってみるとその違いを感じられて非常に面白い。

ヴェネツィア滞在を通して思う~テーマパーク的都市ヴェネツィアとドストエフスキー夫妻

夕暮れのヴェネツィア・・・文句なしの美しさだ。色彩の強さをフルに感じる。

夜は夜でどこに行ってもムード満点でロマンチック・・・。

そんなヴェネツィアを一人で歩く私・・・・

さすがの私もここでは寂しさを感じてしまった。一人行動が全く気にならない私ではあるが、この街ではどうもそうはいかない。ここはパートナーと一緒に歩きたい街だ。何というか、テーマパークのように感じてしまうのだ。一人で黙々と芸術を観るという感じではない。ここがローマやフィレンツェと全く異なる点だと思う。パートナーとの思い出作りに来るなら最高だと思う。

そして帰国してから気づいたのだが、どうもドストエフスキーもそんなことを思っていた節があるのである。アンナ夫人は『回想』で、

ヴェネツィアには三、四日しかいなかったが、彼はサン・マルコ寺院の建築にすっかりひきつけられて、何時間も美しいモザイクの壁をながめていた。いっしょにドゥカーレ宮殿にかよったが、夫はそのすばらしい建築を賛嘆していた。そして十五世紀のもっともすぐれた画家たちのえがいた総督邸の天井のおどろくべき美しさにうっとりしていた。ヴェネツィアにいた四日間とも、わたしたちは昼も夜も魅惑的な印象を与えるサン・マルコ広場から立ち去ることができなかったと言っていい。

みすず書房、アンナ・ドストエフスカヤ、松下裕訳『回想のドストエフスキー』P205

と、ヴェネツィアの美しさを絶賛し、ものすごく楽しんで過ごしたことをここで記しているが、ドストエフスキーは1869年8月14日付のA・N・マイコフ宛ての手紙で次のように書いている。

ヴェニスとウィーンは恐ろしく妻の気に入りました(独自の意味で)

河出書房新社、米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集17』P258

これはどういう意味だろうか。

実はドストエフスキーはヴェネツィア絵画についてはほとんど何も口にしていない。アンナ夫人はドストエフスキーと共に天井画を見て楽しんだと書いてはいるが、それについてのドストエフスキーのコメントもない。ドストエフスキーはこれまで見てきた通り、絵画には非常に敏感だ。そして気になった絵に関してはその印象を述べている。ドレスデンでもバーゼルでもフィレンツェでもボローニャでもそうだった。しかし、ヴェネツィアに関しては、それがない。

だが、私はそれはそうだろうと思う。実際に私もこの街の絵画を見てきたが、まずドストエフスキーが好むタイプの絵ではないと思った。しかもあの熱烈に飾った天井画はドストエフスキーの芸術観とはどうもそぐわない気がする。ドストエフスキーが好むのはラファエロのような調和だ。そう考えるとこの街の激しい色彩や劇的すぎる構図はおそらくドストエフスキーの好みには合わないのではないか。

ではドストエフスキーはこの街で楽しんでいなかったのか。

それも違うと思う。なぜならドストエフスキーは愛するアンナ夫人と一緒にいたから。

まるでテーマパークのようなこの街で二人はロマンチックに過ごしていたのだと思う。だからドストエフスキーは「ヴェニスとウィーンは恐ろしく妻の気に入りました(独自の意味で)」という意味深な言葉を書いたのではないだろうか。マイコフとはかなり立て込んだ話や芸術・文学談議もするほどの間柄だ。ドストエフスキー自身としてはヴェネツィアの絵画はそこまで印象には残らなかった。だがアンナ夫人がとても喜んでくれたからそれはそれでよかった。そういうことの含みを持たせてこう言ったのではないか。

・・・う~ん、私の考え過ぎだろうか。答えはわからない。

だが二人がヴェネツィアを楽しんで過ごしたのならそれはそれで嬉しいことだ。これまで散々苦しい思いをしてきたのだ。ぜひとも二人で楽しい時を過ごしてほしいではないか。別の手紙では「ヴェニス、なんという素晴らしい町でしょう!(1869年8月14日付、N・N・ストラーホフ宛て)」とも述べているので楽しかったのは事実だろう。

私のヴェネツィア滞在はそんな二人を思い浮かべながらの滞在であった。

続く

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