(19)宗教改革の街ジュネーブでドストエフスキーゆかりの地を巡る~夫妻の旅の転換点となった街に思う

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

【スイス旅行記】(19)スイス・ジュネーブでドストエフスキーゆかりの地を巡る~夫妻の旅の転換点となった街に思う

前回の記事「ドストエフスキー夫妻待望の第一子ソーニャの誕生と早すぎた死~ジュネーブでの天国と地獄」ではドストエフスキーの喜びと悲しみの両極を見ることになった。

彼にとってバーデン・バーデンのギャンブル地獄とは全く質の違うどん底を見たのがジュネーブでの滞在だったのである。

私たちもそんなドストエフスキーが歩いたこの街をこれから歩いていくことにしよう。

レマン湖のほとりの国際都市ジュネーブ

バーゼルから鉄道でおよそ3時間、私はジュネーブの街へとやってきた。ジュネーブはレマン湖のほとりの国際都市。写真にあるように、レマン湖の大噴水でも有名だ。

ジュネーブはスイス、フランスの国境線近くの街で、国際都市の名の通り多様な人々が行き交う。

ジュネーブに着いた瞬間から言葉や案内表示がドイツ語からフランス語に切り替わったのには驚いた。同じスイス国内なのに使用する言語が違うのか。カフェに入っても言葉は完全にフランス語。たしかに地図を見ればジュネーブはフランスのすぐそば。フランスから通勤している方も多いのだそう。

そして街の雰囲気もバーゼルとは大きく異なる。バーゼルでは固くてかっちりした空気感を感じたのだが、ジュネーブはもっとゆったりした開放的な雰囲気だった。さすがは国際都市。開放的な空気はレマン湖のおかげもあるだろう。

ジュネーブはカルヴァンの宗教改革の本拠地としても知られる。

こちらの大聖堂もカトリックや正教とはやはり雰囲気が異なる。階段にいる人と比べてみればわかるようにとても巨大な建築だ。

ケルン大聖堂 ブログ筆者撮影

ドイツのケルン大聖堂のような天高く昇っていく軽やかさと比べると、ジュネーブ大聖堂の重心の低さを感じる。作られた時代の違いもあるだろうが、それにしてもその違いは大きい。

ドイツとスイスはどちらも固いイメージがあったのだが、スイスはそこに輪をかけた重厚感を感じることとなった。

教会内部もプロテスタント聖堂らしいシンプルな作り。カトリックや正教に慣れた私にとってはやはり落ち着かない。だが、プロテスタント文化の人たちからすればカトリックや正教の教会の方が落ち着かないだろう。文化や地域、民族が変われば「心地よい、馴染み深い」と感じるものも変わる。同じキリスト教といえど多様性があることをスイスでは特に感じた。やはりカルヴァンがここを本拠地に宗教改革を進めることができたというのはそれだけカトリック圏とは違うものをこの街がそもそも持っていたということだろう。

ドストエフスキーの暮らした家

ドストエフスキーがジュネーブに来て最初に住んだ家は残念ながら現存していない。「ギヨーム・テル通りとべルテイエ通りの角にあるかなりひろい二階の部屋で、中央の窓からはローヌ川にかかる橋とジャン・ジャック・ルソーの小島が見わたせた。」とアンナ夫人は述べているが街の区画整備によって通りそのものが消滅してしまったのだ。

上の写真はローヌ川対岸よりドストエフスキーの家があったであろうエリアを撮影したものだ。

こちらがルソーの島。思っていたよりもかなりこじんまりしている。アンナ夫人が「ジャン・ジャック・ルソーの小島」と表現するのもよくわかる。

そしてこちらがアンナ夫人の出産のために引っ越した家だ。

「一八六七年十二月の中ごろ、出産をひかえて、すぐ近くの、同じ並びにイギリス国教会のあるモン・ブラン通りに新しい住居を借りた。今度はふた部屋あって、一つはとてもひろく、窓が四つもあり、教会が望まれた」

とアンナ夫人が述べるように、この写真の右手側で工事中の建物がイギリス国教会。目抜き通りであるモン・ブラン通りはどこに行くにも便利な場所で、5分も歩けばレマン湖にも出られる。

ここでアンナ夫人は出産し、ドストエフスキーは『悪霊』のシャートフのようにどたばたのパパっぷりを見せつけることになったのだ。

子煩悩の父ドストエフスキーや『白痴』を執筆するドストエフスキーはまさにこの家で生きていたのである。

1階部分の壁には記念プレートもはめられていた。人通りの多いモン・ブラン通りでどれほどの人がこのプレートの存在に気づいているのだろうか。だが、私にとってはこの家を見られたのは本当に大きな意味がある。私は天国と地獄を見たドストフスキー夫妻のここでの生活を偲ばずにはいられない。私はジュネーブ滞在中毎日ここに通い、この家を眺めつづけた。

愛娘ソーニャが葬られたプラン・パレ墓地

そしてジュネーブ滞在でぜひ訪れたいと思っていたのが生後三か月で亡くなってしまった愛娘ソーニャの墓だった。

アンナ夫人は「プラン・パレ墓地の割りあてられた一画にほうむった。数日後には、墓のまわりには糸杉が植えられ、まん中に白い大理石の十字架が立てられた。そして毎日、わたしたちは墓に参って、花をそなえては涙をながした。あれほど熱愛して、限りない夢と希望をかけた大事な大事な赤ん坊と別れるのは、わたしたちにはつらすぎることだった!」と『回想』で述べていたが、私もできればそのソーニャのお墓参りをしたかったのである。

プラン・パレ墓地は日本のお墓と違って、ひとつひとつの墓石の区画が厳密には分けられていない。芝生の中に大きな墓石がぽつぽつと置かれているような形だ。

墓地は木々が生い茂り、ひっそりとしている。ジュネーブの街中にあるのにそれを忘れてしまうほどだった。

ほとんど人もいない。時折散歩をしている人とすれ違うが、一人の時間に閉じこもれる空間であるのは間違いない。

私はソーニャのお墓を探して歩きに歩いたのだが、どうもそれらしいものは見つけられなかった。

何せソーニャが葬られたのは1868年のこと。およそ150年前だ。しかもドストエフスキー夫妻には立派な墓石を建てる経済力もなければ、この後すぐにジュネーブを離れてしまうことになる。もしかしたら改葬されどこか違う場所に今は眠っているのかもしれない。

もしお墓の所在が分かる方がおられればぜひ教えて頂けたら幸いだ。

ソーニャの葬式をしたジュネーブのロシア正教の教会

ドストエフスキーの家から徒歩でおよそ20分ほどの距離にあるロシア正教の教会。

この教会は1866年に創建された。なんと、ドストエフスキーがジュネーブに来るちょうど1年前である。ソーニャの葬式を行ったこの教会は当時、創建されたばかりの新しい教会だったのだ。

私がこの教会の前にいると、ちょうど神父さんや信者さんが入り口から出てきて外で談笑していた。どうもこの日は礼拝の日のようで、その合間に休憩がてら外に出てきたのだろう。

信者さんが中に戻り始め、神父さんが外に残ったままちょっとした片づけをしていたので私は思い切ってロシア語で話しかけてみた。

「こんにちは。私は上田隆弘と申します。私は日本から来ました。私はロシア正教とドストエフスキーを学んでいます。入ってもいいですか?」

すると神父さんはにっこり笑って中に通してくれた。「でも、写真はだめだからね」。もちろんですとも!

この時ほどロシア語を学んでいてよかったなと思ったことはない。私は地元函館のロシア極東大学の市民講座でロシア語を2年前から習っていた。ものすごく片言だったが何とか思いを伝えることができたのである。世界情勢がこのような中、ロシアに関するものは非常にデリケートになっている。信者ではない私でも教会に快く入れてもらえたのも英語ではなくロシア語で話しかけたからではないだろうか。

函館ハリストス正教会

私が住む函館にはハリストス正教会という、ロシア正教の歴史ある教会がある。函館とロシアの繋がりは深い。

こうして私がドストエフスキーを学ぶことになったのも何か不思議な縁を感じる。

さて、教会内に入れてもらい、私も礼拝に参加することになった。

1866年創建ということで内部も新しい雰囲気がある。薄暗い堂内にろうそくの柔らかな光が灯る。そして正教の教会特有のお香のにおい。少し甘い香りのするこのにおいに私は不思議な安心感と懐かしさを感じた。私はやはりプロテスタントの教会より正教の方が肌に合うということだろう。

信者さんは50人ほどはいただろうか。外から見て想像していたよりたくさんの人がいた。

それにしてもよく声が響く教会だ。神父さんの唱える朗唱や聖歌隊の女性の声が心地よい。なんていい声だろう。胸の奥にす~っと入ってくるような、柔らかくも力強い声だ。自然と厳かな気持ちになる。ドストエフスキー夫妻はここで娘の葬儀を執り行った。その時も今の私と同じように神父さんたちの声に耳を傾け、涙を流していたのだろう。そのことに思いを馳せると私も涙が出そうになった。いや、正直に言おう。私も泣いてしまっていた。

ドストエフスキーは家庭の幸福に憧れていた。そして彼の苦しい前半生がようやく報われたと思った矢先の悲劇だった。その打撃は計り知れない。

帰り際、私は早逝してしまったソーニャと今は亡きドストエフスキー夫妻を心に偲び、ろうそくを献灯した。

この教会でお祈りの場に立ち会えたことはこの旅の中でも特に記憶に残った出来事であった。

続く

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