上田隆弘『ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行』記事一覧~目次としてご利用ください

ドストエフスキーの旅 ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

目次

上田隆弘『ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行』記事一覧~目次としてご利用ください

2022年11月初旬から12月末にかけて、私はヨーロッパを旅しました。

ドイツ、スイス、イタリア、チェコ。

これらの国を私は巡ったわけですが、私がこれらの国を訪れたのはロシアの文豪ドストエフスキーゆかりの地であるからです。

フョードル・ドストエフスキー(1821-1881)Wikipediaより

私はこの3年半、「親鸞とドストエフスキー」をテーマに学び続けてきました。そしてその集大成として私はこの旅を計画し、『ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行』という旅行記を執筆しました。

この旅行記については上の記事でお話ししていますのでここでは割愛しますが、以下この旅行記の記事をまとめていきます。この旅行記の目次としてご利用いただけましたら幸いでございます。

この旅行記ではフィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノなどの有名どころだけでなく、ドイツのドレスデン、バーデン・バーデン、スイスのバーゼル、ジュネーブ、ヴヴェイなども訪れます。

特にドイツのバーデン・バーデンやフィレンツェ、バーゼルの記事はぜひおすすめしたい記事となっています。

では、早速始めていきましょう。

(1)妻アンナ夫人と出会うまでのドストエフスキー(1821~1866年「誕生から『罪と罰』頃まで)をざっくりとご紹介

この記事ではドストエフスキーが妻アンナ夫人と出会うまでの前半生をざっくりと振り返っていきます。彼の波乱万丈な人生を短くまとめるのはなかなかに難しいことではありますが、できるだけコンパクトに要点をまとめてみました。

ドストエフスキーがいかに苦しい人生を送ってきたかを知れば、アンナ夫人との出会いがいかに幸運なものであったかがはっきりすることでしょう。

(2)ドストエフスキーとアンナ夫人との出会い~絶望的な状況で始められた『賭博者』の口述筆記

この記事ではいよいよ今回の物語の主人公であるドストエフスキーとその妻アンナ夫人の出会いについてお話ししていきます。

二人が出会ったのは1866年の10月のこと。ドストエフスキー45歳、アンナはなんと20歳の年でした。この時彼女は速記の講義に通う学生だったのです。

なぜこうも年の差ある二人が出会うことになったのか。まずはアンナ夫人の声を聞いていくことにしましょう。

(3)ドストエフスキーとアンナ夫人の恋のはじまり~『賭博者』口述筆記の共同作業を通して急接近する2人

前回の記事ではドストエフスキーとアンナ夫人の出会いをお話ししました。

今回の記事ではそんな2人の恋の始まりについてお話ししていきます。

「・・・いつになったらあなたの旅行記は始まるんですか?」

まあまあ、まずは2人の馴れ初めから結婚までゆっくり見ていこうではありませんか。その方が必ずや旅の空気というものが伝わるというもの。今しばらくお付き合い願います。

では、始めていきましょう。

(4)文豪ドストエフスキーの一風変わったプロポーズ!アンナ夫人に小説仕立ての愛を告白したドストエフスキーの大勝負!

『賭博者』の執筆は順調に進み、期限までに完成することになります。

しかし、この仕事が終わってしまえばもう二人は今までのように会うこともなくなってしまいます。せっかく恋が芽生え始めたのにそれも終わってしまうのか・・・

さあ、どうするドストエフスキー!

そしてついに、彼は一世一代の大勝負に出ます。

・・・プロポーズだ!

そしてこのプロポーズが何ともドストエフスキーらしくてたまらない。

この記事では文豪ドストエフスキーの一世一代のプロポーズを紹介します。ぜひ彼のプロポーズを皆さんも見届けてください。

(5)結婚初期のドストエフスキーの危機的な経済状況~なぜ彼はいつまでも貧乏なままだったのか

前回の記事で見たように、めでたく結ばれた二人は翌1867年2月15日に結婚式を挙げ、同居をスタートします。

ですが案の定と言うべきか、幸せいっぱいに思われた新婚生活は問題が山積みでした。

この記事ではそんな二人の第一の問題である経済状況を見ていきます。この経済問題があったからこそ二人は後に西欧へと旅立たねばならなくなってしまったのです。

(6)ドストエフスキーが生涯苦しんだ持病てんかんの発作を目の当たりにするアンナ夫人

前回の記事ではドストエフスキーの経済状況についてお話ししましたが、彼の抱えていた問題は借金だけではありませんでした。

ドストエフスキーのてんかんは彼の代表作『白痴』の主人公ムイシュキン侯爵や『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフを通して描かれています。特に『白痴』はアンナ夫人とのヨーロッパ旅行中に執筆されたものであることも意味深いです。ドストエフスキーは常にてんかんの発作に怯えて生きていかなければならなかったのでした。

(7)客だらけのドストエフスキー家の家庭状況と新婚早々親類からの嫁いびりに苦しむアンナ夫人

これまでドストエフスキーの経済状況、持病のてんかんと彼の抱える問題を見てきましたがその最後に彼の家庭環境を見ていきます。

実はアンナ夫人の新婚生活にとって最も苦しかったのがこの家庭環境だったのでした。

嫁いびりといえばよくあることのように思えてしまうかもしれませんがそこはあのドストエフスキー家です。やはり一筋縄ではいかない苦難をアンナ夫人は味わうこととなりました。

(8)いよいよ旅の始まりへ~ドストエフスキー夫妻はなぜヨーロッパへ旅立たねばならなかったのか

前回の記事では心理描写の鬼ドストエフスキーも家庭ではどうしようもないただの夫にすぎなかったことを見ていきました。

誰にも理解されず、孤独を味わうアンナ夫人はいよいよ精神的に追い詰められていきます。

そしてついにコップの水が溢れるように、その時は来たのです。

彼女は悲しみあまり泣き崩れてしまうのでした。そしてこれが彼らの4年にもわたる西欧放浪のきっかけとなるのです。

この記事ではドストエフスキー夫妻が旅に出ることになったその顛末をお話ししていきます。

(9)ドストエフスキー夫妻最初の滞在地ベルリンへ~初々しい2人のけんかと仲直り

ドストエフスキー夫妻は4月14日、ペテルブルクを出発しヨーロッパへと向かいました。

そのルートはベルリン、ドレスデン、バーデン・バーデン、バーゼル、ジュネーブ、ミラノ、フィレンツェ、ボローニャ、ベネツィア、プラハ、ドレスデンというもの(※経由地は除きました)。

出発当初は3カ月ほどの予定だった彼らの旅はなんと4年にも及びました。

この記事はそんな彼らの最初の滞在地ベルリンについてお話ししていきます。

(10)ドストエフスキー夫妻のドレスデン滞在~『システィーナの聖母』や『アキスとガラテイア』などの名画を堪能

ドストエフスキー夫妻はベルリンに2日ほど滞在し、ほどなく次の街へ出発しました。彼らが目指したのはこの街の南に位置する古都ドレスデンです。

ここで夫妻は絵画や音楽を楽しみ暮らしました。

この記事ではそんな二人の様子と私の現地での体験をお話ししていきます。

『システィーナの聖母』や『アキスとガラテイア』という、ドストフスキー定番の絵以外のものも観れたので大満足でした。ドストエフスキーの絵の好みを知る上でも、様々な絵画を比べながら観ることができたドレスデン絵画館での体験はとてもありがたいものでありました。

(11)妻を残しカジノの街ホンブルクへギャンブルに行くドストエフスキー~地獄への扉が開き始める・・・

ドレスデンでの平穏で幸福な日々を過ごしていた矢先、ついに悪魔の囁きがドストエフスキーをつつき始めます。

これから2人を苦しめ続けた、あのギャンブル中毒という恐ろしい悪魔がついに顔を出し始めたのです。「最悪のダメ人間」ドストエフスキーの始まりです。

ドストエフスキーは異国の街で妻を一人残しカジノに行ってしまったのでありました。

(12)バーデン・バーデンでの賭博者ドストエフスキーの狂気~ドストエフスキー夫妻の地獄の5週間

ドレスデンで妻を一人残し、ホンブルクへカジノへ出かけたドストエフスキー。そこから彼は賭博熱に完全に呑み込まれてしまった・・・

ドイツ西部の有名保養地バーデン・バーデンへと移った二人。ドストエフスキーはここのカジノで狂ったようにルーレットにのめり込みます。

今回の記事ではそんなドストエフスキーの狂気とアンナ夫人の絶望の日々を見ていきます。

(13)バーデン・バーデンでドストエフスキーゆかりの地を巡る~カジノで有名な欧州屈指の保養地を歩く

この記事でぜひ皆さんに紹介したいものがあります。これは全世界に声を大にして伝えたいです!ここバーデン・バーデンに世界最高レベルの傑作彫刻があるのだと!

バーデン・バーデンでの日々はこの旅で最も強い衝撃を受けたものになりました。この旅のハイライトです!

ドストエフスキーが狂ったカジノ、山の中の散歩道、丘の上に立つドストエフスキーの彫刻、ぜひ皆さんにお薦めしたい記事となっています。

(14)ドストエフスキーとアンナ夫人の結婚は運命だとしか思えない~なぜアンナ夫人は彼を愛し、守ろうとしたのか

ここまでこの旅行記に付き合って頂いた皆さんもそろそろ思い始めているかもしれません。

「それにしても、なぜアンナ夫人はこんなにもドストエフスキーを好きなのだろう。なぜこんなにひどい目にあっても逃げ出さないのだろう」と。

まさにその通り。私もこのバーデン・バーデンで改めてそう思わずにはいられませんでした。特に、最終夜にカジノを体験し、翌朝こうしてアンナ夫人が泣き暮らしたであろう家を最後に見た時には強く感じたものです。

しかしやはりこの二人の結婚は運命だったのだ。この記事では私がそう確信する理由をお話ししていきます。

(15)ホルバインの『墓の中の死せるキリスト』に衝撃を受けるドストエフスキー~『白痴』にも大きな影響を与えた名画とは

バーデン・バーデンでの地獄の5週間を過ごしたドストエフスキー夫妻はスイスのジュネーブへ向けて旅立ちました。

そしてその途中、バーゼルという街で二人は1泊しある絵を観に行くことになります。

それがハンス・ホルバイン作『墓の中の死せるキリスト』という絵でした。

この絵はドストエフスキーに強いショックを与え、彼の長編『白痴』にも大きな影響を与えることになります。

この記事ではそんなホルバインの絵とバーゼルの街におけるドストエフスキーをご紹介します。

(16)ジュネーブでのドストエフスキーの日々~『白痴』執筆開始と名マネージャーアンナ夫人の誕生

レマン湖のほとりに位置するジュネーブ。ルソーやヴォルテールで有名なこの街にドストエフスキーは滞在しました。

バーデン・バーデンの地獄を乗り切った二人。その関係性は明らかに変わりました。出発当初のドストエフスキー夫妻とは明らかに違います。苦難の日々を耐えたことで二人の間には強固な絆が生まれました。

この記事ではそんな二人の思わずほっこりしてしまうエピソードをご紹介します。仲睦まじい二人の様子をぜひ多くの方に知って頂けたらなと思います。

(17)共産主義、社会主義革命家を批判したドストエフスキー~ジュネーブでの国際平和会議の実態とは

前回の記事ではジュネーブでのドストエフスキー夫妻の仲睦まじい姿をご紹介しましたが、今回の記事ではドストエフスキーという人物を考える上で非常に重要なポイントをお話ししていきます。

ドストエフスキーのジュネーブ滞在は共産主義、社会主義に対する彼の反論が生まれる契機となりました。

ここでの体験があったからこそ後の『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』に繋がっていったと考えると、やはりドストエフスキー夫妻の西欧旅行の持つ意味の大きさというのは計り知れないものがあると私は思います。

(18)ドストエフスキー夫妻待望の第一子ソーニャの誕生と早すぎた死~ジュネーブでの天国と地獄とは

前々回、前回と2回にわたってジュネーブでのドストエフスキーについてお話ししてきましたが、今回はそのジュネーブ滞在の中でも最大の出来事、ソーニャの誕生とその早すぎる死についてお話ししていきます。

ドストエフスキー夫妻にとって最大の喜びと最悪の悲しみがほとんど同時にやってきてしまったのです。その顛末をこれから見ていくことにしましょう。かわいい我が子を溺愛する父親ドストエフスキーの姿にきっと皆さんも驚かれるに違いありません。

(19)宗教改革の街ジュネーブでドストエフスキーゆかりの地を巡る~夫妻の旅の転換点となった街に思う

前回の記事「ドストエフスキー夫妻待望の第一子ソーニャの誕生と早すぎた死~ジュネーブでの天国と地獄」ではドストエフスキーの喜びと悲しみの両極を見ることになりました。

彼にとってバーデン・バーデンのギャンブル地獄とは全く質の違うどん底を見たのがジュネーブでの滞在だったのです。

私たちもそんなドストエフスキーが歩いたこの街をこれから歩いていくことにしましょう。

(20)ドストエフスキー夫妻のヴヴェイ滞在~悲しみのジュネーブを去り、愛娘の死を悼み暮らした夏

生後3カ月で亡くなってしまった最愛の娘ソーニャ。二人の悲しみはあまりに大きく、もはやソーニャの面影が残るジュネーブにいられなくなってなってしまいます。

この記事ではそんな二人が夏を過ごしたヴヴェイという街について紹介します。

バーデン・バーデンの地獄の日々を乗り越え、ジュネーブ、ヴヴェイで幸せと悲しみを共有した二人。

ドストエフスキーとアンナ夫人の結婚生活で、この時期が二人の関係性における決定的なものではないかと私は思います。

(21)ドストエフスキーお気に入りのミラノ大聖堂と夫妻のイタリア滞在の始まり

愛娘を喪い悲しみに暮れるドストエフスキー夫妻。ヴヴェイでの悲しみの夏を過ごした後、二人はいよいよイタリアへ向かうことになります。

彼ら二人が最初に滞在したのはミラノ。ここにはドストフスキーお気に入りのミラノ大聖堂があります。

この記事ではそんな二人がここでどのように暮らしたのかを見ていきます。

(22)ドストエフスキーお気に入りのラファエロ『小椅子の聖母』やゆかりの地をご紹介!

夫妻はバーデン・バーデン・ジュネーブ・ヴヴェイでどん底を見ました。そんな彼らに恐いものはもう何もありません。這い上がるしかないのです。

悲しみや苦しみを分かち合い、今や二人は強固な絆で結ばれました。彼らの復活はいよいよここから始まっていきます。自分たちをミコーバー夫妻になぞらえたフィレンツェでの生活はこの旅の大きなポイントになったのではないでしょうか。

あぁ、美しきフィレンツェ!できるなら私ももっともっとゆっくり滞在したかった!さすがは花の都。この街の芸術には感嘆させられっぱなしでした。

ドストエフスキー夫妻にとってもこの街での滞在はかけがえのない日々だったと私は信じたい。

(23)色彩豊かな芸術の都ヴェネツィアを訪ねて~美しき水の都にドストエフスキーは何を思ったのだろうか

この記事ではドストエフスキー夫妻が訪れたヴェネツィアと、その道中で立ち寄ったボローニャをご紹介します。

誰もが憧れる水の都ヴェネツィア。ドストエフスキー夫妻はわずか数日の滞在でしたが、楽しい一時を過ごしたようです。私も夫妻が過ごしたヴェネツィアを歩き、彼らの滞在に思いを馳せながらこの街のゆかりの地を巡ったのでありました。

どこを撮っても美しい写真が出来上がる驚異の街でした。

(24)プラハに滞在したかったドストエフスキー夫妻~あのスメタナともニアミス!泣く泣くドレスデンへ。二人の旅も終盤へ

娘の出産のためにフィレンツェからプラハへ向かったドストエフスキー夫妻。

プラハにはスラブ系知識人のコミュニティーがあり、ドストエフスキーは彼らとの交流を願っていました。そして何より、夫妻は美しきプラハに滞在することを楽しみにしていたのです。

ですが、プラハに滞在することは叶わず、ドレスデンへ移ることになります。

歴史に「もしも」は禁物ですが、もし夫妻がここに滞在できたらあのスメタナやドヴォルザークともドストエフスキーは接点があったのかもしれませんでした。

(25)カジノの街ヴィースバーデンでドストエフスキーのギャンブル中毒が消滅!!旅の終盤、彼の身に起こった奇跡とは!

ギャンブル熱から解放されたヴィースバーデンでの出来事はドストエフスキーの旅の中でも屈指の重大事件です。作家としての誇りを取り戻した出来事と言ってもいいかもしれません。

自分の筆で、自分の仕事で家族を守る!もうギャンブルの一攫千金には頼らない!と宣言したドストエフスキー。今度こそ嘘ではない。それは歴史が証人だ。本当に彼は生まれ変わったのででした。

そしてその再生をもたらしたのはやはりアンナ夫人あってのことでしょう。やはりアンナ夫人はドストエフスキーの守護天使だったのだ。運命の相手だったのだ。そのことを思うとこの二人を祝福せずにはいられません。

(26)ドストエフスキー夫妻の4年ぶりの帰国!旅を経てすっかり丸くなったドストエフスキーとアンナ夫人の成長とは

四年前、ドレスデンから始まった二人の旅。

新婚早々のドレスデン、バーデン・バーデンの悪夢、ジュネーブでの天国と地獄、フィレンツェでの日々、そしてホームシックのドレスデン。色んなことがあった。ありすぎた。想像を絶する日々を夫妻は二人三脚で乗り越えてきました。

旅に出た当初の二人はもういません。

ドストエフスキーは自身の闇や狂気に打ち克ち、作家として一回り大きくなって帰って来ました。そしてアンナ夫人はドストエフスキーを支える名マネージャーとしてこれから抜群の活躍を見せることになります。

この四年間はドストエフスキーにとってまさに運命を変えた旅だったのだ。

(27)帰国後のアンナ夫人の無双ぶり!借金取りも撃退!ドストエフスキーも全幅の信頼を寄せるその姿!

前回の記事ではついにドストエフスキー夫妻がロシアに帰国したところまでをお話ししました。

今回の記事ではそんな旅を経て成長を遂げたアンナ夫人の姿をご紹介していきます。4年の月日が経ち、二人は出発前とは全く違う人間となって帰ってきました。一回りも二回りも成長した彼らは帰国後どんな生活を送ったのでしょうか。

(28)温泉地バート・エムスのドストエフスキーゆかりの地を訪ねて~結婚後10年経っても夫人に熱烈なラブレターを送るドストエフスキー

私にとってバート・エムスはドストエフスキーのアンナ夫人への愛を感じられる象徴的な場所です。

結婚後10年経っても妻を熱愛したドストエフスキー。

彼はエムスからアンナ夫人に熱烈なラブレターを送り続けます。

あの『悪霊』を書いた文豪とは思えぬほどのデレデレぶりをぜひ皆さんにお目にかけたいと思います。

愛妻家としてのドストエフスキーを知るならここを超える場所はないのではないだろうかと私は感じています。

(29)最愛の子アリョーシャの急死と『カラマーゾフの兄弟』のつながり~子煩悩の父としてのドストエフスキー

前回の記事では愛妻家ドストエフスキーの姿をご紹介しました。

そして今回の記事では父親としてのドストエフスキーを紹介して私の旅行記の締めくくりとしたい。

愛妻家ドストエフスキー、子煩悩の父ドストエフスキー。

妻と歩んだドストエフスキーを知る上で絶対に欠かせないエピソードをこれから皆さんにお話ししていきます。

子を愛したドストエフスキーということを知った上で『カラマーゾフの兄弟』を読めば読者の皆さんの心の中にきっとまた何か違うものが芽生えるのではないかと私は信じています。

「ドストエフスキーの旅」を終えた私の思いと今後のブログ更新について~当ブログを訪れた皆さんへのメッセージにかえて

私はドストエフスキーが好きです。ですが、何よりも「アンナ夫人といるドストエフスキー」が好きです。 そんな二人の旅路が少しでも多くの人の目に触れるきっかけとなったらこんなに嬉しいことはありません。

この後、当ブログではローマについての記事を更新していきますが、私個人としてはこれから仏教の研究に突入していきます。いよいよ私は本丸に帰ってきました。インド、アジア、中国、日本とこれから仏教が伝えられてきたルートに沿ってその歴史と思想、文化を学んでいきます。そしてその最終目的は親鸞聖人の伝記小説を書くことにあります。私の研究もいよいよ新たな局面を迎えます。4年近くにわたった「親鸞とドストエフスキー」の研究に一片の悔いもありません。

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