「理想は人を救わない」と説くチェーホフの真意とは~『決闘』から見るチェーホフとトルストイの関係
チェーホフは作家として確固たる地位を抱いてから晩年にいたるまでトルストイと親しく交流していました。
しかし芸術家トルストイ、そして人間トルストイとしては亡くなるまで尊敬の意を持っていましたが作家、思想家としてのトルストイとは距離を置くようになっていきます。彼の中でトルストイ思想との決別があったのです。
それがいよいよ形になって現れ出てくるのが『決闘』という作品だったのです。
チェーホフは作家として確固たる地位を抱いてから晩年にいたるまでトルストイと親しく交流していました。
しかし芸術家トルストイ、そして人間トルストイとしては亡くなるまで尊敬の意を持っていましたが作家、思想家としてのトルストイとは距離を置くようになっていきます。彼の中でトルストイ思想との決別があったのです。
それがいよいよ形になって現れ出てくるのが『決闘』という作品だったのです。
チェーホフはこの作品の主人公に「ロシアの余計者」の血を引くラエーフスキーという人物を置きました。
ロシア文学の伝統とも言える「余計者」たちは人生に飽き、生きることに投げやりな存在でした。しかしチェーホフはこの作品においてそんな余計者の末裔ラエーフスキーに試練を与えます。
チェーホフは人生の意味は何かを問い続けた作家です。その彼にとって「人生は意味のない虚しいものだ、どうせ自分にはどうしようもない」と投げやりになっている余計者たちの思想をどう乗り越えていくのかというテーマは非常に重要なものであったように思われます。
この作品のタイトルは『退屈な話』ですが、読んでみると退屈どころではありません。とてつもない作品です。
地位や名誉を手に入れた老教授の悲しい老境が淡々と手記の形で綴られていきます。
『魔の山』で有名なドイツの文豪トーマス・マンが「『退屈な』とみずから名乗りながら読む者を圧倒し去る物語」とこの作品を評したのはあまりに絶妙であるなと思います。まさしくその通りです。この作品は読む者を圧倒します。
そしてあのトルストイもこの作品の持つ力に驚嘆しています。ぜひおすすめしたい名著です
『曠野』はチェーホフが実際に旅した見聞が基になって描かれました。
そして重要なことはこの作品がチェーホフという作家がいよいよロシア第一級の作家として文壇に登場するきっかけとなったという点です。
この作品までのチェーホフは「A チェーホンテ」というペンネームで作品を発表していました。「チェーホンテ」というペンネームが示すようにどこかおどけたようなユーモア作家らしい雰囲気を出していました。
ですが彼はこの作品から「A チェーホンテ」ではなく、本名の「アントン チェーホフ」の名乗ることになります。
この作品はチェーホフの作家としての目覚めを知る上で非常に重要な作品となっています。
目に見える姿と真実の姿のずれ。
特に傍から見れば羨ましく思えてしまうようなものにこそ実は悲しむべき真の姿がある。そうしたことを思わされます。
チェーホフ文学の特徴が非常にわかりやすく出ているのがこの作品です。
短い物語の中にチェーホフらしさが凝縮されています。非常におすすめです。
チェーホフ作品を読んでいると、これはまるで仏教書ではないかと思うことが多々ありました。
彼の小説がそのまま仏教の教科書として使えてしまうくらい、それくらい仏教に通じる物語を書いていたのです。これは驚きでした。
なぜチェーホフがそのような思想を持つようになったのかということを、『チェーホフ芸術の世界』ではわかりやすく解説してくれます。
これから先チェーホフ作品をご紹介していきますが、基本的にはこの著作を参考にして読んでいきたいと思います。
ドストエフスキー亡き後のロシアで活躍した作家、チェーホフ。1880年代以降のロシアは革命前の暗い時代に突入していきます。
チェーホフを学ぶことで当時の時代背景や、ドストエフスキーやトルストイがどのようにロシア人に受け止められていたかが見えてくるようになります。これはドストエフスキーを学ぶ上でも大きな意味があります。
というわけで今回は年表を用いてチェーホフとは一体どんな人なのかということををざっくりとお話ししていきたいと思います。
人生の苦悩の中に光明が、救いがある。苦悩を苦悩として引き受けていく、そこにドストエフスキー作品の救いがあるとベルジャーエフは述べます。
ドストエフスキーは重くて暗い作品ばかり書いたというイメージが根強い作家ですが、それは真のドストエフスキーではないと彼ははっきり言うのです。ここに彼のドストエフスキー観の特徴があります。
クドリャフツェフの『革命か神か―ドストエフスキーの世界観―』と対比しながら読むとそれぞれの思想の違いが際立ってさらに面白くなります。
この本は前回ご紹介した佐藤清郎著『観る者と求める者 ツルゲーネフとドストエフスキー』と共にものすごい本でした。ぜひ2冊セットで読むことをおすすめします。そうするとこの本の持つ意味がより深まると思います。
ソ連時代にドストエフスキーがいかにしてソ連化していったのかがとてもわかりやすいです。そしてドストエフスキーが非信仰者であるという論説がどのようにして生まれてきたのかも知ることができます。これはドストエフスキーとキリスト教を学びたいと思っていた私にとっては非常に興味深かったです。あまりに面白かったので夜寝る時間が大幅に遅れてしまったほどです。読んでいて途中で切り上げるなんて到底できなくなりました。それほどこの本はすごいです。
ドストエフスキーの『悪霊』が書かれたのはまさに1870年頃のことです。
これはツルゲーネフが描こうとした70年代の青年とぴったり重なります。
ツルゲーネフは社会主義思想を信ずる過激派が農村に潜入し暴動を起こす流れを描写しました。
それに対しドストエフスキーはある街を舞台に、社会主義革命家が起こす大混乱と陰惨な事件を描きました。
舞台は違えど2人の問題意識は共通するものがあります。
物語の深刻さ、どす黒さという点では『悪霊』のほうが圧倒的に際立っていますが、『処女地』の視点も非常に興味深いです。文学スタイルの違う2人の作品を見ることでより深くこの時代の人間精神を学ぶことができるような気がします。