福田恆存『人間・この劇的なるもの』~シェイクスピア翻訳で有名な劇作家による名著!「個性などというものを信じてはいけない」「人間は必然を求める」

名作の宝庫・シェイクスピア

福田恆存『人間・この劇的なるもの』概要と感想~シェイクスピア翻訳で有名な劇作家による名著!

今回ご紹介するのは1960年に新潮社より発行された福田恆存著『人間・この劇的なるもの』です。私が読んだのは2021年第13刷版です。

著者の福田恆存はシェイクスピア作品の翻訳で有名で、私もいつもお世話になっています。私は新潮社版のシェイクスピアが好きで格好いいセリフや言葉遣いにいつも痺れています。

では、早速『人間・この劇的なるもの』について見ていきましょう。

人間はただ生きることを欲しているのではない。現実の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。それに関らずには、いかなる人生論も幸福論もなりたたぬ。一胸に響く、人間の本質を捉えた言葉の教々。愛するということ、自由ということ、個性ということ、幸福ということ……悩ましい複雑な感情を、「劇的な人間存在」というキーワードで、解き明かす。「生」に迷える若き日に必携の不朽の人間論。

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翻訳家、劇作家、批評家として第一線で活躍してきた福田恆存の人間観、人生論がこの本で語られます。私がこの本を読むきっかけとなったのはニーチェ研究者の西尾幹二著『光と断崖ー最晩年のニーチェ』の中でこの本が絶賛されていたからでした。

博学な西尾氏が「私の一冊」として挙げるほどの作品がこの『人間・この劇的なるもの』でした。

実際、この本を読んで私も衝撃を受けました。この本はものすごいです。

今回はその中でも特に印象に残った箇所をいくつか紹介したいと思います。

「個性などというものを信じてはいけない」

個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割ということにすぎぬ。他はいっさい生理的なものだ。右手が長いとか、腰の関節が発達しているとか、鼻がきくとか、そういうことである。

また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば、他に支障が生じ、時間が停滞する―ほしいのは、そういう実感だ。私たちが自由を求めているという錯覚は、自然のままに生きるというリアリズムと無関係ではあるまい。他人に必要なのは、そして舞台のうえで快感を与えるのは、個性ではなくて役割であり、自由ではなくて必然性であるのだから。

生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。その必然性を味わうこと、それが生きがいだ。私たちは二重に生きている。役者が舞台のうえで、つねにそうであるように。

新潮社、福田恆存『人間・この劇的なるもの』P16-17

「個性などというものを信じてはいけない。」

「私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ」

演劇作品に長く関わった著者ならではの鋭い指摘ですよね。

「生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる」という言葉には思わず声が出てしまうほどでした。「私たちは偶然性を嫌い、自分に起きることに必然性という意味を持ちたがる」というのは非常に鋭い指摘ではないでしょうか。

人間は必然を求める

また、著者は必然性を求める私達人間の性質についてこうも述べています。

自分が失敗したり、落ち目になったり、いや、すでに失敗しそうだという予感においてさえも、私たちはそれが必然だったという口実を捜し求める。遺伝とか、過去における異常な経験とか、社会の欠陥とか、もし、ひとがその気になれば、現代はこれらの口実にこと欠かぬ。むしろ、ありすぎるくらいある。『芸術とはなにか』の冒頭で書いたように、古代の呪術や神託にかわって、現代では科学がその口実を提供してくれる。その代表的なものが、フロイディズムとマルクシズムだ。いずれも、私たち個人を、ひとつの完全な必然性のうちに位置づけてくれる。しかも、しごく調法なことに、現実に即して。それらは、いずれも現実の必然性を、眼前に見るがごとく、描きだしてくれる。

逆に成功者には口実は要らない。支配者は口実を嫌う。口実というのは、自己以外の権威を容認することであり、自己の外部に自己の作因を求めることだからだ。成功者は、自己の成功をつねに自己に帰したがる。が、おそらくそこでは、失敗者とは別の、しかし、同じ現実の必然性が作用しているにちがいない。それを、当人だけは多かれ少かれ、自己の内部の必然性によって、たとえば才能とか、カとか、計算とか、努力とか、そういうものによって、成功したのだと考える。したがって、失敗者のように現実それ自体の必然性を認めない。すくなくとも、現実の必然性を見ぬき、それを操りうる自己の力量を、かれは信じている。自己の必然性が現実の必然性を組み伏せたのだと信じている。じっさいはそうでないばあいでも、つまり、けがの功名のばあいでも、あたかもそれを計算して勝ち得たもののごとく、事後になって得意げに語るひとたちに私たちはよく出あう。すくなくとも、偶然の当りについて、自分がそれだけの値うちのない人間だとおもっているひとに私は出あったことがない。人は、人生が与えるどんな思いがけない過分の贈物でも、それを当然のことのように、大きな顔をして受けとる。

新潮社、福田恆存『人間・この劇的なるもの』P24-26

この箇所も恐ろしいですね・・・著者の人間洞察のあまりに鋭いこと・・・!さすがシェイクスピアの翻訳を手掛けた人物ですよね。

失敗者は失敗の必然を、成功者は成功の必然を欲する

著者は続けてこう結論します。

失敗者は失敗の必然を、成功者は成功の必然を欲する。だが、ひとびとは、なぜそうまで必然性を身につけたがるか。いうまでもなく、それは自己確認のためである。私たちは、自己がそこに在ることの実感がほしいのだ。その自己の実在感は、自分が居るべきところに居るときに、はじめて得られる。いいかえれば、自己が外部の現実と過不足なく一致しているときに。あるいは自己表現が、自己の内部の心情と過不足なく一致しているときに。

新潮社、福田恆存『人間・この劇的なるもの』P26

私たちは「自分の必然性」を求めている。そして「自分が居るべきところに居る」という感覚を求めている。

少し前の箇所では著者はこうも述べています。

私たちが欲しているのは、自己の自由ではない。自己の宿命である。そういえば、誤解をまねくであろうが、こういったらわかってもらえるであろうか。私たちは自己の宿命のうちにあるという自覚においてのみ、はじめて自由感の溌刺さを味わえるのだ。自己が居るべきところに居るという実感、宿命感とはそういうものである。

新潮社、福田恆存『人間・この劇的なるもの』P23

現代は自分らしさや個性、ありのままが大切と大々的に宣伝される時代です。

そして好きなことを自由に追求し、自分の道は自分で切り開くことこそ理想の生き方とされています。

しかし、はたしてそれで本当に人は幸せになれるのか。余計に苦しくなっていくだけではないかと私は疑問に思っていました。この記事では長くなってしまうのでお話しできませんが、福田恆存の『人間・この劇的なるもの』を読んでそうした私のもやもやが一気に晴れたような気がしました。私が感じていたもやもやの根源はここにあったのかと目が開かれるような思いでした。

この本は1956年に初めて刊行され、今でも重版されている名著中の名著です。現代においてもまったく古さを感じません。

自分とは何か、個性とは何か、自由とは何か。

私たちの根源に迫るおすすめの1冊です。非常におすすめです!ぜひ手に取って頂ければなと思います。

以上、「福田恆存『人間・この劇的なるもの』シェイクスピア翻訳で有名な劇作家による名著!」でした。

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