シェイクスピア『ハムレット』あらすじと感想~名言「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」を生んだ名作

ハムレット 名作の宝庫・シェイクスピア

名言「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」を生んだ名作 シェイクスピアの代表作『ハムレット』あらすじ解説

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)Wikipediaより

『ハムレット』は1600年にシェイクスピアによって書かれた劇作品です。

私が読んだのは新潮社、福田恆存訳の『ハムレット』です。

『ハムレット』は私も大好きな作品でこれまでも何度も読み、舞台にも観に行ったりしていました。

では早速あらすじを見ていきましょう。

To be, or not to be, that is the question…….

永遠の古典。シェイクスピア悲劇の最高傑作。

新潮文庫版102刷、146万部超えのロングセラー。

城に現われた父王の亡霊から、その死因が叔父の計略によるものであるという事実を告げられたデンマークの王子ハムレットは、固い復讐を誓う。道徳的で内向的な彼は、日夜狂気を装い懐疑の憂悶に悩みつつ、ついに復讐を遂げるが自らも毒刃に倒れる―。恋人の変貌に狂死する美しいオフィーリアとの悲恋を織りこみ、数々の名セリフを残したシェイクスピア悲劇の最高傑作である。

Amazon商品紹介ページより

『ハムレット』の舞台はデンマーク。主人公ハムレットはその王子様です。

彼の目の前に現れた父の亡霊がきっかけで彼の運命は動き出すことになるのです。

阿刀田高氏の『シェイクスピアを楽しむために』では『ハムレット』について次のように述べています。

ギリシャ古典劇が運命の悲劇だと言われるのに対し、シェイクスピア劇は性格の悲劇だと評される。ギリシャ劇では登場人物がどうしようもない不運に見舞われ、運命の非情を嘆くよりほかにない。だが、シェイクスピアの場合は、非運も関わっているけれど、この主人公でなかったならば、こうはならない、と主人公の性格がドラマの結末に大きく影響しているケースが多い。性格の悲劇と言われる所以である。〈ハムレット〉はその代表的な一例と言ってよいだろう。

ひるがえって私たちの日常でも、悲劇は、運命と、そこに在る人間の性格との微妙な組合せから惹起することが多い。この二つの要素が、ギリシャ劇とシェイクスピア劇という形で演劇の歴史の中に強く影を落としていることは偶然ではあるまい。

新潮社、阿刀田高『シェイクスピアを楽しむために』P40-41

ギリシャ悲劇とシェイクスピア悲劇ではそのような違いがあるのですね。

たしかに『ハムレット』を読んでいて、もしハムレットが悩むことのない直情豪快な人間だったらこんな悲劇は起こりようはなかっただろうなと思いました。

ですが、だからこその面白さがあります。私達ひとりひとりの人間はただ運命によって人生が決められているわけではありません。私達には性格や意志があります。そして運命に対峙し私達ひとりひとりがどう感じ、どう行動するかで人生は動いていきます。

運命に真向かいになって私たちはどう動いていくのか。それを感じられることがシェイクスピアの醍醐味なのではないかとこの解説を読んで感じたのでありました。

感想―ドストエフスキー的見地から

これまで様々な国の様々な作家の作品を読んできましたが一貫してドストエフスキー的見地からの感想という形で書いてきました。

シェイクスピアについてもそうしていくつもりなのですが、正直ドストエフスキーと直結して話していくのは難しいです。ですが、あくまでシェイクスピアもドストエフスキーを学ぶ上で読んでいくという意味で「ドストエフスキー的見地からの感想」とさせて頂きます。

さて、ハムレットといえば「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という名言が有名ですね。ですが私が読んだ新潮社版の福田訳ではこの部分は、

生か、死か、それが疑問だ

新潮社、福田恆存訳『ハムレット』P94

と訳されています。

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」とはだいぶ印象が異なります。

となると、あの名言はどこから来たのでしょうか。

調べてみると、「鎌倉湖畔棒銀堂 池田眞也の世界」というHPにて

いままで「ハムレット」は明治時代から現代まで40以上の翻訳本が出ているといわれています。2003年に若手の東大教授河合祥一郎さんが野村萬齋さん主演の舞台のために書かれた翻訳で、この有名な訳を採用していますが、それ以前はTo be, or not to beを「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」と訳した完訳本は一つもありませんでした。意外ですね。

『ハムレット』2「生きるべきか死ぬべきか」 〜言葉遊びと翻訳家の戦い 構成について〜

と述べられていました。

驚きですね。この名言はずいぶん最近のものだったそうです。

シェイクスピアの翻訳についてはこれまでも多くの議論がされてきました。

シェイクスピアを日本語に翻訳するのは非常に難しく、この問題を考えるだけで膨大な時間がかかります。

翻訳者さんや演出家さんがどのように訳するかによるかでその作品の雰囲気が変わってきます。そうした違いを考えるのもシェイクスピアの面白い点かもしれません。

そして私が個人的に感じた『ハムレット』の魅力はそのセリフの格好良さにあります。舞台ならではの演劇がかったセリフがすごくいいんです。思わず声に出して読みたくなるような、マネしたくなるようなセリフです。

そのいくつかを紹介します。

おのれの宿命がはじめて目をさましたのだ。体内の血管は力に満ち溢れ、ニミアの獅子の筋のごとく、それ、このように張りつめている。

新潮社、福田恆存訳『ハムレット』P41

おお、満天の星!この大地!そのほかに何があるというのか?地獄?ええい、ばかな!しっかりしろ、気をたしかにもて。五体をささえる筋肉ども、萎えるなよ、それ、すっくと……(立ちあがる)忘れるなと?哀れなやつ、心配するな、このひっくりかえされた玩具箱のなかに、すこしでも記憶力の落ちつく余地のあるかぎり大丈夫だ。忘れるなと?よし、本からおぼえた金言名句、幼い目に映った物の形や心の印象、一切合財、いままで記憶の石板に写しとっておいた愚にもつかぬ書きこみは、きれいさっぱり拭いさり、ただきさまの言いつけだけを、この脳中の手帳に書きしるしておくぞ。そのほかの由なしごとは消えてしまえ―うむ、きっとだ!おお、なんという非道の女!それに、ああ、あの悪党、悪党め、微笑をたたえて、ええい大悪党!手帳にはっきり書きとめとおいてやる、(手帳に書き込む)微笑して、微笑をたたえながら、しかも悪党たりうる、このデンマークでは、どうやらそんなことが出来るらしい……やい、クローディアス、もう逃れられぬぞ。さあ、わが身の守りことばだ、「父を忘れるな、父の頼みを」……(跪き、剣の柄に手をかけ)固く誓ったぞ。(祈り続ける)

新潮社、福田恆存訳『ハムレット』P46-47

いかがでしょうか。演劇らしい言葉となんとも勇ましいリズム。口に出して読んでみればそれが特に感じられます。

シェイクスピアの演劇はこうした言葉のオンパレードです。

このセリフの格好良さ、心にグッとくる響きがなんともたまりません。

これは「読んでみればわかる。舞台を観ればわかる」感覚ですのでぜひシェイクスピアに触れて頂きたいなと思います。

最後に阿刀田氏による『ハムレット』の魅力を引用してこの記事を終わりたいと思います。

〈ハムレット〉を復讐談として眺め、一篇のミステリーとして楽しむことは、もちろん充分に可能であるけれど、同時に現代人の暗愁を実感し、台詞の楽しさに酔い、役者の大みえに拍手し、本筋から外れた座興で遊び、人生の教訓まで得て、

―今日はよかったな―

全体として観客が満足を覚える、それが〈ハムレット〉の味わいであり、シェイクスピアの真骨頂なのである。セルバンテスが描いた猪突猛進のドン・キホーテ型人間に対して、沈思黙考、優柔不断のハムレット型人間を提示するなど、文学性の高いこの戯曲においてさえ、シェイクスピアは芸術性より大衆の喜びを念頭に置いて書いているように私には感じられてならない。

新潮社、阿刀田高『シェイクスピアを楽しむために』P67

以前紹介した「ツルゲーネフ『ハムレットとドン キホーテ』あらすじ解説―ツルゲーネフの文学観を知るのにおすすめ」の記事でもお話ししたように、『ハムレット』は世界文学に絶大な影響を与えました。

しかし阿刀田氏の言うように、大衆の喜ぶ演劇としての『ハムレット』の魅力もやはりとてつもないものがあるのです。これがあったからこそ『ハムレット』は世界中で愛されることになったのです。

シェイクスピアの演劇というと小難しいイメージもあるかもしれませんが、実際はまったくそんなことはありません。現代人たる私たちが見てもとても楽しめる作品です。その中でも『ハムレット』は特にドラマチックで感情移入しやすい作品となっています。一旦見てしまえば引き込まれること請け合いです。とてもおすすめです。

以上、「シェイクスピアの代表作『ハムレット』あらすじ解説―名言「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」を生んだ名作」でした。

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