怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない―お釈迦様のことばに聴く

怨みに報いるに 仏教コラム・法話

ブッダの有名なことば「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない」

三 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにむことがない。(中略)

五 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P10

さて、今回のことばはこのお経の中でも特に有名なことばです。

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」

怨みは晴らすことでは収まらない。それを捨ててこそ怨みから解放される。

お釈迦様はこれを「永遠の真理」と述べるのです。

被害者意識を捨てること

お釈迦様は怨みについてこう仰られました。

『「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにむことがない。』

このことばで何が重要かと言いますと、私たちは知らず知らずのうちに「被害者意識」に飲み込まれてしまうということなのです。

被害者意識に飲み込まれてしまうと私たちの心に何が起きるのでしょうか。少し見ていきましょう。

「自分は何も悪いことをしてないのにこんな目にあってしまった。最悪だ。あいつはなんて悪い奴なんだ。許せない!あ~腹が立つ!あんな奴なんかばちが当たればいいのに。いや、いっそ仕返ししてやりたい!」

こうして私たちは怨みを募らせ怒りに身を任せてしまうことになるのです。

被害者意識の厄介なところは「自分は悪いことはしていない」、つまり無意識に「自分は正しい」という気分になってしまうところにあります。

自分は正しいのに不当な扱いを受けた。

これが私たちの心をざわつかせるのです。これは誰しもが経験のあることでしょう。

ですがこれがもし、被害者意識を捨てることができたとしたらどうなるでしょうか。

「あぁ、ついてなかったな・・・仕方がない。まあ彼(彼女)も色々あるんだろう。お互い様さ・・・」

起こってしまったことは仕方がありません。当然辛い思いもするでしょう。しかしそこから生まれてくる怨みや怒りはだいぶ収まるはずです。

つまりこれはどういうことかといいますと、私たちが怨みや怒りに焼き尽くされるかどうかというのは、その出来事自体に原因があるのではなく、私たち自身がその出来事をどう捉えるかにあります。もしそこに被害者意識を持ち、自分は正しくて相手が悪いということを思ってしまったならそこに苦しみが生まれてくるということなのです。

最近、クレーマーの問題もよく聞くかと思います。彼らクレーマーの多くもこの被害者意識に苛まれています。「自分は正しい。自分は不当に扱われた。悪いのはあんたたちだ。」こうして自らの被害者意識によって身を焦がしているのです。

であるならば私たちはどうしたらいいのかと言いますと、おすすめの方法は「世の中に何も期待しないこと」です。こう言ってしまうと何か悲しいなという気がしてしまう方もおられるかもしれませんが言い換えるなら次のようになります。

「いい対応をしてもらうのは当たり前という考えを捨てること」です。

海外に行ってから日本に帰ってくると本当に実感するのですが、日本の接客態度やサービスの良さは異常です。ありえないくらい丁寧で優しいです。

これはビジネスにおける接客だけではなく、家族や友人、仕事関係など生活のあらゆる面においてもそうです。

日本では当たり前の基準が高すぎます。みんな「いい人」であらねばならないという圧が強すぎます。

その基準が高すぎるが故に私たちの期待するものも高くなってしまい、それが満たされないとがっかりし、被害者意識がやってくるのです。

被害者意識が高まると不愉快になり怒りが募ります。

お釈迦様は自分と相手のどちらが正しいか悪いかの勝負にこだわるより、自分自身が穏やかであるように心を配れといつも仰られます。

そんな勝ち負けにこだわるくらいならすぐに道を譲りなさいと。譲ったことで自分の心は落ち着き、幸せになるだろうと述べるのです。

私も以前こんなことがありました。

慣れない山道で運転中、煽り運転に遭ったことがあったのです。たしかに怖かったですが退避できる場所を見つけたらすぐに車を停めて先に行ってもらいました。

「腹を立たせてしまってごめんなさいね、どうぞどうぞお先にどうぞ」とこちらから自発的に道を譲ると、不思議なことに気分が晴れやかなんです。

何かいいことをしたときのようなありがたい気分というのでしょうか、とにかく相手を恨むような気分にはなりませんでした。

もしそこで被害者意識に囚われ自分の正しさを主張し続けていたら、きっと怒りも恐怖も味わい続けなければならなかったことでしょう。

もちろん、生きていればどうしても引き下がれない時や明らかにはっきりさせなければならない時もあります。

ですがたいがいのことはそこまで勝ち負けにこだわる必要がないことが多いのではないでしょうか。そういう時はこちらから自発的に「道を譲ってしまえばいいのです」。

道を譲らされたのではなく、こちらから道を譲るところにポイントがあります。

こちらから道を譲れば主導権は私にあります。ここに相手に強制される受動的な姿勢との決定的な違いがあります。

こちらから道を譲れば主導権はこちらにある。どちらが正しいかの勝ち負けや被害者意識を自ら捨てることで、結果的に心の平安が得られる。

これが「怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。」とお釈迦様が仰られる大切な意味のひとつなのではないかと私は感じるのです。

もちろん、このことばには他の解釈もありますが、今回はあえて「被害者意識」ということが思い浮かんだのでそのことについて考えてみました。

皆さんは今回のことばを読んでどのようなことを感じましたでしょうか?

ぜひ、改めて読み返して頂き自分の中にどんな思いが浮かんでくる確かめて頂けましたら幸いです。

以上、「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない―お釈迦様のことばに聴く」でした。

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