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レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』あらすじと感想~教養という切り口から見る現代日本の闇。インフルエンサーの人気のメカニズムに切り込む刺激的作品

目次

レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』感想~教養という切り口から見る現代日本の闇。インフルエンサーの人気のメカニズムに切り込む刺激的作品

今回ご紹介するのは2022年9月に集英社より発行されたレジー著『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』です。

早速この本について見ていきましょう。

【「教養=ビジネスの役に立つ」が生む息苦しさの正体】


社交スキルアップのために古典を読み、名著の内容をYouTubeでチェック、財テクや論破術をインフルエンサーから学び「自分の価値」を上げろ――このような「教養論」がビジネスパーソンの間で広まっている。
その状況を一般企業に勤めながらライターとして活動する著者は「ファスト教養」と名付けた。
「教養」に刺激を取り込んで発信するYouTuber、「稼ぐが勝ち」と言い切る起業家、「スキルアップ」を説くカリスマ、「自己責任」を説く政治家、他人を簡単に「バカ」と分類する論客……2000年代以降にビジネスパーソンから支持されてきた言説を分析し、社会に広まる「息苦しさ」の正体を明らかにする。

Amazon商品紹介ページより

Twitterのタイムラインで流れてきてものすごく気になった作品、『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』。

この本のタイトルになっている「ファスト教養」とはそもそも何なのか、著者は「はじめに」で次のように述べています。重要な箇所ですので少し長くなりますがじっくり読んでいきます。

教養の現在地としての「ファスト教養」

ひろゆき、中田敦彦、カズレーザー、DaiGo、前澤友作、堀江貴文。

この面々は、ニ〇ニ一年の年末にエンターテインメントサイト「モデルプレス」で発表された「ビジネス・教養系YouTuber影響カトレンドランキング」の上位陣である。

ここまでの文字列に、何とも言えない居心地の悪さと日本の「教養」への不安を覚える人は少なくないのではないか。断定的な口調でたびたびネットを騒がせるインフルエンサーたちが発信するものは果たして教養なのか?教養とはビジネスの成功者によって語られる概念になったのか?そもそも、「ビジネス」と「教養」は同列に並べられるべきものなのか?

ここ数年、「ビジネスパーソンには教養が必要」といったメッセージがさまぎまなメディアで取りざたされるようになった。たとえば、書店を見渡してみると、ビジネス書のコーナーに『教養としての〇〇』という本が並んでいるさまをよく目にするだろう。(中略)

なぜこれほどまでに、ビジネスパーソンに向けて「教養」が押し出されるようになったのだろうか。

もちろん、教養の重要性は以前からたびたび言われてきているものではある。欧米のエグゼクティブには教養がある、それに比べて日本のおえら方は……というような比較も昔から存在していた。

しかし、最近の「教養が大事」論は、過去のものとはやや位相が異なっているのではないかと筆者は感じている。過去の「教養」という言葉と比較して、今の「教養」がとくに色濃く帯びているもの。それは、ビジネスパーソンの「焦り」である。

手っ取り早く何かを知りたい。それによってビジネスシーンのライバルに差をつけたい。そうしないと自分の市場価値が上がらない。成長できない。競争から脱落してしまう……。

今の時代の「教養が大事」論は、そんな身も蓋もない欲求および切実な不安と密接に結び付いている。ビジネスで役に立つ知識としての教養、サバイバルツールとしての教養。そういう風潮と歩調を合わせるかのごとく、中田敦彦は自身のYouTubeチャンネルを「新時代を生きるための教養」と銘打ってスタートさせ、堀江貴文は自著で「骨太の教養書を読め」と煽る。

現代のビジネスパーソンは、なぜ「教養が大事」というかけ声に心を揺さぶられてしまうのか。そして、「教養が大事」と発信するビジネス系インフルエンサーはどのようにして時代の風を捉えて勢力を拡大してきたのか。

その問いに答えるためのキーワードが、本書のタイトルにもなっている「ファスト教養」である。ファストフードのように簡単に摂取でき、「ビジネスの役に立つことこそ大事」という画一的な判断に支えられた情報。それが、現代のビジネスパーソンを駆り立てるものの正体である。

本書では、「ファスト」になっていく教養のあり方を、関連する書籍やビジネスパーソンの生の声などを頼りに掘り下げる。そうしたプロセスを通じて見えてきたのは、ファスト教養の体現する価値観を受け入れるようになっていく日本社会の変遷と現在地である。

集英社、レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』P8-11

この本は単に「ひろゆき、中田敦彦、カズレーザー、DaiGo、前澤友作、堀江貴文」をはじめとしたインフルエンサーを批判したいがために書かれた作品ではありません。

それよりも、そのようなインフルエンサーになぜ私たちは魅力を感じてしまうのかという現代社会のメカニズムを丁寧に追っていく作品となっています。

著者は上の文章に引き続き次のように述べています。

「古き良き教養論」の向こう側へ

このファスト教養の問題について筆者が考え始めたきっかけのひとつとして、自身の働き方に関するバックグラウンドがある。

現在筆者は企業に勤めながら、社外では音楽ブロガー・ライターとして個人で活動しており、いわゆる副業(もしくは複業)を含めてキャリアのあり方を考えている。

前者においては転職を複数回経験し、自分のスキルと市場価値を見極めながらどう動くのが最適かを日々試行錯誤している。一方で後者においては、ブログをきっかけとして商業媒体で執筆する機会を得るようになり、アーティストや音楽業界で働く人々とも関係を築きながら日本の音楽シーンに関する批評を発信している。

ニつの足場を行き来する中でたびたび感じているのは、教養を取り巻く意見について相容れないものがそれぞれの場所で流通しているということである。簡単に言ってしまえば、一般のビジネスパーソンの世界ではファスト教養が相応の支持を集めており、片や音楽業界のようないわゆる「文化系」の領域では冒頭に名前を挙げたようなインフルエンサーに対する嫌悪感が渦巻いている。

筆者は、そのような極端な分断を目にするたびに、そんな単純な二項対立で本当にいいのだろうかと疑問を抱いた。

文化を愛する人たちは、ファスト教養の「浅さ」や「不完全さ」を否定する。確かにその指摘は正しいかもしれないが、そういった意見は日々の仕事に追われるビジネスパーソンの焦燥感を理解していないからこそ発せられるものである。一方で、ファスト教養の影響下にあるビジネスパーソンが音楽も映画も読書もすべて「コスパ」と「ビジネスの役に立つか否か」で判断するような態度をとっているのを見ると、「文化はコスパや役に立つか否かで判断できるものではない」と違和感を通り越して義憤にかられることもある。

ファスト教養が流布している今の状況は批判的に捉えられるべきというのが筆者の基本的な意見である。ただ、だからと言って、ビジネス系のインフルエンサーを見下し、「古き良き教養に戻れ」といったメッセージを出したところで何の役にも立たないこともよく理解しているつもりである。

本書が目指すのは、理想を示しながらも、より現実的で、かつ実践的な行動指針を導き出すことだ。

集英社、レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』p11-13

どちらかといえば私はこれまで当ブログでも「文化系」の領域側から思う所を述べてきました。

レイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』を題材にして「わかりやすさ」について考えた記事や、ニーチェを題材にそれこそ「教養とは何か」ということを考えてみました。

ですがやはり「ファスト教養が流布している今の状況は批判的に捉えられるべきというのが筆者の基本的な意見である。ただ、だからと言って、ビジネス系のインフルエンサーを見下し、「古き良き教養に戻れ」といったメッセージを出したところで何の役にも立たない」というのは私も感じていたことでありました。自分の無力感と言いますか、そうしたものを感じ続けていた日々でした。

ですがそんな中著者は単に彼らを否定するのではなく、それがもてはやされるようになった土壌の分析をすることでこの難問に挑んでいきます。

なぜ現代人はファスト教養に夢中になってしまうのか、そのメカニズムは単に「けしからん!」、「教養は金儲けの道具ではない」という批判をするだけでは捉えきれない巨大なものがあります。

この本ではそんな現代社会の闇ともいうべき状況を丁寧に見ていくことになります。

この目次を見て頂ければわかりますように、この作品では数多くの実例を用いながらなぜ「ファスト教養」に多くの人が魅力を感じるのかというメカニズムを見ていきます。このメカニズムの解説が非常に丁寧で、私達の生きる現代日本で今何が起こっているのかということを深く考えさせられます。読んでいて「よくぞここまで丁寧にファスト教養という切り口から時代背景を紐解いてくれました!」という感謝の念が浮かんだほどです。

「ファスト教養」とは何かを知るには、まずそれが生まれてくる時代背景を見ていかなければならない。そうした背景を知ることで初めて見えてくるものがある。

時代背景を学ぶこと、広い視野でじっくりと物事を考えていくこと、それは私がこれまで当ブログを更新していく上でも大切にしてきた考え方でした。

私は昨年からマルクスについて学んできましたが、それはまさに「なぜマルクスはこれほど世界に影響を与えることができたのか」ということを考えるためでした。マルクス思想が生まれてきた背景にはそれを求めていた時代精神、土壌があったはず。それを知ることは今後宗教とは何かを考える上でも大きな意味を持つだろうと私は考えたのでした。

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マルクス主義者ではない私がなぜマルクスを学ぶのか~宗教的現象としてのマルクスを考える マルクスは宗教を批判しました。 宗教を批判するマルクスの言葉に1人の宗教者として私は何と答えるのか。 これは私にとって大きな課題です。 私はマルクス主義者ではありません。 ですが、 世界中の人をこれだけ動かす魔力がマルクスにはあった。それは事実だと思います。 ではその魔力の源泉は何なのか。 なぜマルクス思想はこんなにも多くの人を惹きつけたのか。 そもそもマルクスとは何者なのか、どんな時代背景の下彼は生きていたのか。 そうしたことを学ぶことは宗教をもっと知ること、いや、人間そのものを知る大きな手掛かりになると私は思います。

このことについては上の「マルクス主義者ではない私がなぜマルクスを学ぶのか~宗教的現象としてのマルクスを考える」でもお話ししていますが、この『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』のなかでもまさに教養と宗教についての話が出ていました。私はこの本の中でも特にその箇所が印象に残っています。

せっかくですのでその部分を紹介します。

何のために教養を学ぶのか。動機づけは個人の自由であるというのは大前提だが、歴史的経緯を振り返ると、教養というものの重要性が認識され直すきっかけになった出来事の一つとして一九九〇年代半ばに起こった一連のオウム真理教に関する事件があったという(ちょうど一九九〇年代初頭から国立大学で教養部の解体が進んでいたタイミングでもあった)。(中略)

受験における偏差値が高くても、その能力をおかしなことに使ってしまっては元も子もない。カルトにはまらないための多様な視点を身につけるとともに、人としての倫理を獲得するための方策として教養というものが求められた—そんな過去の流れと現在の状況を改めて見比べた時に、ビジネスシーンで振り回すための大雑把な知識をコスパ重視で学ぼうという今のファスト教養のあり方は「オウム」的なものへの対抗策になっているのだろうか。ビジネスでの成功に何よりも高い価値を置く人たちの示す教養が主流になることで、経済的なメリットのために深い思考プロセスや守るべき倫理観を平気で放棄できる新しい「オウム」が生まれかねないのではないか。

ファスト教養を取り巻く状況をたどっていくと、「ビジネスで成功したい」という欲望と「使えない人材になりたくない」という恐怖の狭間で平衡感覚を失っていくビジネスパーソンの姿が描き出される。次章では、そういった今のムードが生まれるに至るまでのストーリーを追いかけてみたい。キーパーソンとなるのは、本項でも名前を挙げているかつて「時代の寵児」と呼ばれた人物である。

集英社、レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』p75-77

ここでオウムの話題が出てきたのは非常に重要な意味があると私は思います。

私自身、自分が僧侶として生きていく上で「私はオウムと何が違うのか」という問題にずっと悩み続けてきました。

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私が今も宗教について学んでいるのもこれが大きな原点となっています。

「ビジネスでの成功に何よりも高い価値を置く人たちの示す教養が主流になることで、経済的なメリットのために深い思考プロセスや守るべき倫理観を平気で放棄できる新しい「オウム」が生まれかねないのではないか。」という著者の言葉は強く胸に刺さるものがありました。

この本を読めばわかるのですが、「ファスト教養」はいかに手っ取り早くビジネスに役立つものを摂取できるかにかかっています。そして自分が競争に生き残るための戦略として「ファスト教養」は意味を持ちます。

様々な可能性や立場をじっくりと考えるというプロセスは放棄され、(本人が思う)合理的思考に沿ってサバイバル競争に突き進むことになります。ですがこうした学びははたして世の中にとって良い影響を与えるものなのでしょうか、私は大いに疑問を持っています。著者も後の箇所で次のように述べています。

ファスト教養に欠落しているもの

本章では、個人がお金を稼いで生き残る術に特化したファスト教養の考え方が広く支持されるに至った必然性について述べてきた。いわゆるビジネス書や自己啓発書といったジャンルのヒット作は以前から多数存在していたが、自己責任をべースに加速するファスト教養は二一世紀に入ってからの日本の社会全体の流れが生み出した現象と言える。そして、この勢いは今後しばらく続くのではないだろうか。

ここまでいくつかのキープレイヤーを紹介しながら論を展開してきたが、大きく共通してるのは「公共との乖離」である。彼らは人々が支え合う社会といったモデルを、うっとうしいと否定するかの如く、個人としてのサバイバルを重視する。堀江や橋下、およびひろゆきそれぞれがべーシックインカムの導入を主張するのも、「一定程度金を渡すからあとはそれで何とかしろ」という手法が強烈な個人主義的思想と相性が良いからだろう。また、中田敦彦にしろDaiGoにしろ、自身の学びを社会全体や弱者に対して還元するような姿勢は見受けられない。

埼玉工業大学非常勤講師で批評家の藤崎剛人は「ライフハック、やりがい搾取、個人主義…〝NewsPicks系〟な人々の『不自由な思考』(文藝春秋 digjtal)において、個人の努力にすべてを帰結させる発想や社会のすべてをビジネス思考で考える態度(「むしろ最低限の公正さを担供するための法規制でさえ、ビジネスの観点からみると目の上のたんこぶとなる」)など本章で取り上げてきた面々が共通して持つ考え方を「責任概念なき個人主義」と評した。

努力して何かを学ぶこと自体に咎められる要素は何もない。その成果が金銭的な対価として着実に個人に返ってくる社会のあり方は、一つのあるべき姿ではある。成果を出すために世の中においてニーズのあるスキルに絞って勉強するのは戦略として正しい。それを進めるための効率的なやり方を志向するのは当然で、時にはリスクをとってルールすれすれのチャレンジを行うことも必要かもしれない。

ただ、「自分が生き残ること」にフォーカスした努力は、周囲に向ける視線を冷淡なものにする。また、本来「学び」というものは「知れば知るほどわからないことが増える」という状態になるのが常であるにもかかわらず、ファスト教養を取り巻く場所においてはどうしてもそういった空気を感じづらい。『勉強が死ぬほど面白くなる独学の教科書』における中田敦彦とYouTubeチャンネル「予備校のノリで学ぶ『大学の数学・物理』(ヨビノリ)」を運営するヨビノリたくみとの対談における中田の反応が象徴的である。

中田:今、わからないことは全体の何パーセントくらいあるんですか?
たくみ:感覚的にいうと、わかっていることが0・001パーセントぐらいだと思います。
中田:え?少ない……。もっとわかっているような印象を持っていました。

知識を得ることで全能感を持ち、他者に対して優越感を覚えながらサバイブに対する自信を深める学びのあり方は、どうにも幼稚に感じられる。堀江や橋下がたびたび強調する「シンプルな決断」というのは、本来は何かを学べば学ぶほど難しくなってくるはずである。だが、ファスト教養的な世界観が浸透した先にあるのは、未知のものへの畏れや例外的な出来事への配慮、違う立場に対する想像力や思いやりが醸成されることなく、ビジネスシーンで求められる「シンプルな意思決定」ばかりがあらゆる場面で持て囃される社会である。ここまで本書で名前を挙げてきた面々は、この先形成される可能性のあるそんな社会のあり方についてどう考えているのだろうか。「自分は何があっても生き残れる」という自信をべースに、「社会なんてどうでもいい」という本音を開陳するのだろうか。そして、彼らが掲げる価値観にシンパシーを覚える人たちは、「自己責任」「スキルアップ」「公共との乖離」といった発想を内面化して(その一方では「いつか脱落するかもしれない」という恐怖感に苛まれながら)何者かになるべく突き進むのだろうか。

別にそれでも構わないというスタンスも当然あるとは思うが、本書ではそんな社会の姿はさすがにバランスを欠いているのではないか?という立場をとりたい。自身のスキルアップのために教養を使うというファスト教養としての学びのあり方を一定レべルでは肯定しつつも、社会への眼差しや品格も含めた次の時代の教養のあるべき姿を検討していきたいと思う。

集英社、レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』p123-126

このまま「ファスト教養」どっぷりの世界観が日本にはびこり続けるならば私は大きな脅威を感じます。

上にも出てきましたが「新たなオウム」がいつ生まれてもおかしくない状況です。現にインフルエンサーの顧客集めの手法はカルトに近いのではないかと私は考えています。

過激なことを言い、自信満々に断言し、極論も厭わない。そして巧みに敵を作りだし、相手を罵り、自分たちが正義だと思わせる。

「悪いのはあなたを理解しない社会の方。でも私について来ればあなたは成功する。悪いのはあなたを無下に扱う敵なのだ。私の言う通りに努力するあなたは人間として素晴らしい。」

そして教祖は信者の意思、主体性を奪っていきます。信者は自分の意思でやっていると思っています。ですがその実態は?

ここではカルトについては話が反れてしまうのでこれ以上はお話しできませんが、「ファスト教養」が流行する土壌がそこと密接に繋がっているということは改めて注意したいと思います。

さて、ここまで長々とお話してきましたが私も『「ファスト教養」は「絶対悪」で、なくなるべきだ』という考えは持っていません。もっと勉強したい、もっと学びたいという思いを持つことは大切なことだと思います。

ただ、問題はその教養をどのような目的に使うのか、そもそも自分はどうなりたいのかということにあると思います。本書でも「ではこれからどうすべきか」ということを第6章でじっくりと考えていくことになります。

単に「けしからん」と切り捨てるのでもなく、だからといって傍観もできない。そんなやきもきするような現状においてこの本は非常に貴重な一冊だと思います。とにかく丁寧。相手を誹謗中傷するような攻撃的な言葉も用いません。冷静に時代背景を読み解いていくこの作品はぜひおすすめしたい名著です。

ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

以上、「レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』感想~教養という切り口から見る現代日本の闇。インフルエンサーの人気のメカニズムに切り込む刺激的作品」でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 問題はファスト教養ではなく主体性を失うこと、という意見に同意します。
    私はファスト教養肯定派です。無知よりは良いと思うからです。
    従業員に求められることは没個性と服従ですから、彼らに教養を学ぶ機会を提供するには、ビジネスと結びつけることは現状やむを得ないのではないかと思います。全員サラリーマン、起業家不足の現状が問題の中核のように思います。

    ブログとても勉強になりました。ありがとうございました。
    自宅に居ながらにして様々な人の意見を知れる。問題は山積ながらも、今が良い時代であることに感謝します。

    • コメントありがとうございます。
      少しでも当ブログがお役に立てましたら何よりでございます。嬉しいコメントありがとうございました。
      今後ともよろしくお願いします。

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