「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う」~お釈迦様のことばに聴く

子 仏教コラム・法話

「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う」~お釈迦様のことばに聴く

三三 悪魔パーピマンがいった、

「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執着するもとのものは喜びである。執着するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」

三四 師は答えた、

子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない。

中村元訳『ブッダのことば』「第一、蛇の章、二.ダニヤ p17」

前回は蛇の節の中から数句をご紹介しました。

本日はその次のダニヤの節から2つの詩句を読んでいくことにしましょう。

この2つの詩句は悪魔のことばとそれに答えるお釈迦様のやりとりであります。

少しややこしい言葉遣いではありますが、大体の意味としては、

「悪魔はこう言いました。子どもや財産(特に牛)があることは喜びである。執着の元は喜びだ。執着するものがなければ喜びもないと。

それに対しお釈迦様はこう答えました。人は子供や財産を憂う。執着の元は憂いだ。執着するものがなければ憂うこともないと」

こうして読んでみましてもなかなかピンときません。何と言うならば悪魔のことばのほうがしっくりくるほどであります。

というわけでここでひとつ考えてみましょう。

ある家族がある街に住んでいました。それは東京かもしれませんし、あなたの住む街かもしれません。

その家族は夫と妻、そして子ども2人の4人暮らしです。

夫は安定した職に就き収入もよく、休日にはいつも家族と楽しい時を過ごす良き父親でもあります。

妻も家族を大切にする夫にとても満足していて、子供たちもそんな両親の愛情の下、のびのびと過ごしています。

さて、この家族、絵に描いたように幸せそうな一家であります。

しかし、先の詩句でお釈迦様はこの家族の在り方こそ憂いの元であると述べているのであります。

いかに幸せそうに感じても、家族や財産は執着の元なのだからそれを捨てて執着を断ちなさいと言うのです。

皆さんいかがでしょうか。

ちなみに私がお釈迦様のこのような言葉を初めて聞いたとき、「そんな無茶な・・・」と思った記憶があります。

お釈迦様の言うことはあまりに現実離れしすぎているように当時は感じられたものでした。

それに対し悪魔は子どもや財産は喜びの元なのだから、もしそれがなければ人生に喜びはないと言います。

喜びのない人生なんて何の意味があるんだい?幸せな家族、満ち足りた生活こそ生きる意味じゃないか。そう悪魔は宣言するのであります。

実のところ、これこそまさに私たちの偽らざる本音に近いのではないでしょうか。

幸せに生きたい。

このことはきっと誰しもが願うことでありましょう。

でも幸せに生きるってそもそも一体何なのでしょう。

喜びのない人生なんてつまらない。それはとても実感できる。でもお釈迦様はそれは違うと言う・・・いよいよさっぱりわからない。

お釈迦様は一体何を言いたいのでしょうか。

この詩句だけを読んでもそれはおそらくなかなか見えてきません。やはりじっくりとお釈迦様のことばを聴き続けていくしかなさそうです。

きっとお釈迦様はこちらの混乱を見越してそう言っているに違いありません。

そう考えてみるとお釈迦様はとてつもない逆説家であるようにも思えてきます。

お釈迦様は私たちの意表を突くような形で問いをかけてきます。

慌ただしく駆け回り続けている私たちをふと立ち止まらせ、じっくり考えさせようとしているかのようです。

本日は前回とは違い解説もなく完全に一読者としての立場でここまでお話しさせて頂きました。

今後も、お話しできるところは解説も交えながらもこのような形でお釈迦様のことばを引き続き皆さんと一緒に読んで参りたいと思います。

本日も最後までお付き合い頂きありがとうございました。

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