「何を言ったか」より「何をしているか」で判断しよう。綺麗な言葉に騙されないために~お釈迦様のことばに聴く

仏教コラム・法話

たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである―お釈迦様のことばに聴く

一九 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。―牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類に入らない。

二〇 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することのない人は、修行者の部類に入る。

岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P12-13

今回は修行者の心のあり方についての一言です。

「たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである」

率直なことばですが実に厳しいですよね。

「いくらいいことを言おうが行動が伴っていなかったらまったく意味がありません。あなたはどうですか?」

もしお釈迦様に面と向かってこう言われたら、皆さんはどう感じますか?

私だったら真っ青になってしまうかもしれません。

もちろん、できる限りのことは私も努力しているつもりです。

ですが100%行動を伴っているかと言われたらこれはもう「ごめんなさい」と平身低頭するしかありません。

「言葉を発するだけで満足していませんか。あなたは今何をしているのですか?」

お釈迦様はきっと微笑みながらそう質問されるのでしょうが、人間の本質を突く鋭い問いは私たちを震え上がらせます。

いくらいいことを言おうがそこに行動が伴わなければ「虚しい言葉」で終わってしまう。

「何を言うか」より「何をするか、何をしたか」こそ見られなければならない。

お釈迦様はそう仰られるのです。

そしてこのことについて私は思ったことがありました。

それはネットやSNSが発達した現代において、これは特に重要な視点なのではないかということです。

メディアやネットでは言葉が氾濫しています。

各々が自由に発言し、それに簡単にアクセスすることができる時代です。

私たちはそうした時代において何を信じ、何が良いか悪いかを自分で判断しなければなりません。

これは非常に難しい問題です。その問題についてはソ連の独裁者スターリンやSF小説の名作『華氏451度』を題材に以下の記事でお話しさせて頂きました。

情報が氾濫する現代においてはこの問題が特に重大なものとなっています。

こうした状況では一見「いい言葉」のように聞こえるものを何度も何度も耳にすることになります。しかしその言葉に行動は伴っているでしょうか。誠実な姿勢に裏付けされた言葉なのでしょうか。

言葉だけで判断すると、もしかしたらそこに違う意図があったとしても気付けないということが起りうるかもしれません。

私たちはその人の言葉だけでなく、「何をしているか」、「その人はどんな人なのか」にも心を配らなければなりません。

そう考えてみると言葉って恐ろしいですよね。言葉には用心してかからなければなりません。

そんなことを思った本日の『真理のことば』でした。

以上、「「何を言ったか」より「何をしているか」で判断しよう。綺麗な言葉に騙されないために~お釈迦様のことばに聴く」でした。

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