面白くてわかりやすい簡単な情報〈ファスト情報〉の罠~メディア・ネットによって知らぬ間に思考力を奪われる恐怖とは

ディストピア・SF小説から考える現代社会

面白くてわかりやすい、簡単な情報〈ファスト情報〉の罠~メディア・ネットによって知らぬ間に思考力を奪われる恐怖とは~『華氏451度』より

今回の記事では前回紹介したレイ・ブラッドベリ『華氏451度』を参考に、私たちが現在直面している情報化社会の危険について考えていきたいと思います。

私たちの身の回りには情報が溢れています。スマホをタッチすればいつでも簡単に情報にアクセスできます。電車を見回せばほとんどの人がスマホを見ているなんてこともよくありますよね。私たちは私たちが思っている以上にスマホに接続されて今を生きています。

私たちはスマホを使用することによって、より多くの情報に瞬時にアクセスすることができるようになりました。わからないことがあったり、困った時にはすぐにスマホが知識を与えてくれます。

では、私たちはスマホを使用することによってより賢くなったのでしょうか。外面的にはスマホによって問題を解決できたり、わからないことを調べて知ることができたのですから、より賢くなったようにも見えます。

ですが、何かを知るということには本来多くの時間がかかります。本を読んだり、経験を積んだりして私たちは多くのことを学んでいきます。しかし、スマホが答えを与えてくれるならそんな時間は無駄ではないか、せっかくスマホが答えを与えてくれるのになぜわざわざ自分で学んで調べなければならないのか、その時間は無駄であり、他のことに時間を使えばいいのではないか、そんな考えも浮かんできます。

しかし、そんな一見合理的なスマホによる情報獲得にも大きな罠があります。しかも、これはスマホに限らずあらゆるメディア媒体にも言うことができます。私たちは便利な世界に暮らしつつも、大きな危険に身を晒しています。

そのことを警告しているのがレイ・ブラッドベリの『華氏451度』なのです。

この作品では本が禁止され、見つけられ次第全て焚書していく世界が描かれます。なぜそんなことになってしまったのか、それをこれから見ていきたいと思います。これを読むと私たちが生きる現代社会がまさしく言い当てられていることに皆さんもきっと気づくと思います。

では早速始めていきましょう。ここから先、主人公モンターグの上司ベイティが彼に世界の真相を語っていくシーンになります。

「この状況はいつから始まったんだろう?当然そういう疑問はわくな。どうしてこんなことになったのか、どこで、いつ?まあ、おれの見るところ、そもそもの始まりは南北戦争とかいうものがあったころだ。もっとも服務規定書によれば、基盤ができたのはもっと早いというがね。実際のところ、われわれの暮らしにまとまりができはじめたのは、写真術が確立されてからなんだ。つぎには―活動写真、二十世紀初頭のころだな。ラジオ、テレビジョン。いろんな媒体が大衆の心をつかんだ」

モンターグはべッドにすわったまま動かない。

「そして大衆の心をつかめばつかむほど、中身は単純化された」とべイティー。「むかし本を気に入った人びとは、数は少ないながら、ここ、そこ、どこにでもいた。みんなが違っていてもよかった。世の中は広々としていた。ところが、やがて世の中は、詮索する目、ぶつかりあう肘、ののしりあうロで込み合ってきた。人口は二倍、三倍、四倍に増えた。映画や、ラジオ、雑誌、本は、練り粉で作ったプディングみたいな大味なレベルにまで落ちた。わかるか?」

「わかると思います」

べイティーは宙に吹き上げた煙の模様に目をこらした。「十九世紀の人間を考えてみろ。馬や犬や荷車、みんなスローモーションだ。二十世紀にはいると、フイルムの速度が速くなる。本は短くなる。圧縮される。ダイジェスト、タブロイド。いっさいがっさいがギャグやあっというオチに縮められてしまう」

「あっというオチね」ミルドレッドはうなずいた。

「古典は十五分のラジオプロに縮められ、つぎにはカットされて二分間の紹介コラムにおさまり、最後は十行かそこらの梗概となって辞書にのる。もちろん、これは誇張だよ。辞書は参考に使うものだ。ところが『ハムレット』について世間で知られていることといえば(お前は題名ぐらい知っているな、モンターグ。あんたには多分どこかで聞いたことのある名前だな、といった程度でしょう、ミセス・モンターグ)、つまりいまもいったように『ハムレット』について世間で知られていることといえば、《古典を完全読破して時代に追いつこう》と謳った本にある一ページのダイジェストがせいぜいだ。わかるか?保育園から大学へ、そしてまた保育園へ逆もどり。これが過去五世紀かそれ以上もつづいてる知性のパターンなんだ。

早川書房、レイ・ブラッドベリ、伊藤典夫訳『華氏451度』p91-93

この箇所を読んで皆さんはどう感じましたか?

「つまりいまもいったように『ハムレット』について世間で知られていることといえば、《古典を完全読破して時代に追いつこう》と謳った本にある一ページのダイジェストがせいぜいだ。」という箇所はまさしくその通りになっていませんでしょうか。

わかりやすい本、手っ取り早く簡潔に解説された本、情報が氾濫する現代・・・

そしてベイティ―はこう続けます。

「フィルムもスピードアップだ、モンターグ、速く。カチリ、映像、見ろ、目、いまだ、ひょい、ここだ、あそこだ、急げ、ゆっくり、上、下、中、外、なぜ、どうして、だれ、なに、どこ、ん?ああ!ズドン!ピシャ!ドサッ!ビン、ボン、バーン!要約、概要、短縮、抄録、省略だ。政治だって?新聞記事は短い見出しの下に文章がたった二つ!しまいにはなにもかも空中分解だ!出版社、中間業者、放送局の汲みとる力にきりきり舞いするうち、あらゆるよけいな込み入った考えは遠心分離機ではじきとばされてしまう!」

早川書房、レイ・ブラッドベリ、伊藤典夫訳『華氏451度』p93

この箇所は特にドキッとしました。まさしく最近ファスト映画の問題が騒がれましたよね。

さらに言えば、最近の流行りはtiktokやTwitter、YouTubeなどでいかにキャッチ―なものを作れるかが大きなウェイトを占めています。tiktokに関してはそれが特に顕著で、短い時間にいかにキャッチ―なサビを作れるか、わかりやすく共感しやすいものを作れるかが売れ行きに重大な影響をもたらしています。

とにかく速く、簡単に、共感できるもの。これが音楽に限らずあらゆるものにおいて重要になっています。映画もそうですよね。視覚的にきれい、刺激的、どきっとするようなストーリー。よくよく考えてみると、「わかる」より「感じる」ことに重きを置いていることに気づかされます。何も考えずに気持ちよくなれるものを私たちは大量に浴びているというのが現実なのではないでしょうか。

まだまだベイティ―の言葉は続きます。

「就学年限は短くなり、規律はゆるみ、哲学、歴史、外国語は捨てられ、英語や綴りの授業は徐々に徐々に遠ざけられ、ついにはほとんど完全に無視されてしまうだろう。時間は足りない、仕事は重要だ、帰りの道ではいたるところに快楽が待っている。ボタンを押したり、スイッチを入れたり、ボルトやナットを締める以外にいったいなにを学ぶ必要がある?」(中略)

「ジッパーがボタンに代わり、おかげで人間は夜が明けて服を着るあいだ、ものを考えるたったそれだけの時間もなくしてしまった―哲学的なひととき、いうなれば愁いのひとときを」(中略)

「人生は挫折の集合体になったんだ、モンターグ。バン、ボコッ、ワーオ!なにもかもがこのとおりさ」(中略)

「劇場には道化役者がいるだけでいい。あとの役者はみんなお払い箱だ。部屋にはどれもこれもガラスの壁をはり、壁には紙吹雪か血糊かシェリー酒かソーテルヌワインみたいに五彩の光が流れるようにしろ。お前、野球は好きか、モンターグ?」

「野球はすばらしいと思います」(中略)

「お前、ボウリングはどうだ、モンターグ?」

「ボウリングは好きです」

「じゃ、ゴルフは?」

「すばらしいゲームだと思います」

「バスケットボールは?」

「いいですね」

「ビリヤードは?フットボールは?」

「いいゲームですよ、どれも」

「民衆により多くのスポーツを。団体精神を育み、面白さを追求しよう。そうすれば人間、ものを考える必要はなくなる。どうだ?スポーツ組織をつくれ、どんどんつくれ、スーパースーパースポーツ組織を。本にはもっとマンガを入れろ、もっと写真をはさめ。心が吸収する量はどんどん減る。せっかち族が増えてくる。ハイウェイはどこもかしこも車でいっぱい、みんなあっちやこっちをやどこかをめざし、結局どこへも行き着かない。誰もかれもがガソリン難民だ。街はモーテルの集合と化し、人間は遊動民族となって潮の満ち干のままここからそこへと動き、お前がきょうの昼までいて、おれがその前の夜いた部屋に、今夜は自分が泊まるはめになる」

早川書房、レイ・ブラッドベリ、伊藤典夫訳『華氏451度』p95-97

昨今のスポーツを取り巻く状況を考えてみればこのベイティーの言葉は何を意味しているでしょうか。スポーツはどんどん巨大産業化し、ますます力をつけているように私には思えます。そして今回の東京オリンピックでも様々な問題が暴露されることになりましたよね。純粋にスポーツを楽しむという理念だけで済まないものがそこにはあるということを私たちは突きつけられたように感じます。

もちろん私もスポーツ観戦は大好きです。しかし、その裏ではこうした側面もあることを知ることも大事なのではないでしょうか。

ひとつの問題に二つの側面があるなんてことはロが裂けてもいうな。ひとつだけ教えておけばいい。もっといいのは、なにも教えないことだ。戦争なんてものがあることは忘れさせておけばいいんだ。たとえ政府が頭でっかちで、税金をふんだくることしか考えていない役立たずでも、国民が思い悩むような政府よりはましだ。平和がいちばんなんだ、モンターグ。国民には記憶カコンテストでもあてがっておけばいい。ポップスの歌詞だの、州都の名前だの、アイオワの去年のトウモロコシ収穫量だのをどれだけ憶えているか、競わせておけばいいんだ。不燃性のデータをめいっぱい詰めこんでやれ、もう満腹だと感じるまで〝事実〟をぎっしり詰めこんでやれ。ただし国民が、自分はなんと輝かしい、、、、情報収集能カを持っていることか、と感じるような事実を詰めこむんだ。そうしておけば、みんな、自分の頭で考えているような気になる。動かなくても動いているような感覚、、が得られる。それでみんなしあわせになれる。なぜかというと、そういうたぐいの事実は変化しないからだ。哲学だの社会学だの、物事を関連づけて考えるような、つかみどころのないものは与えてはならない。そんなものを齧ったら、待っているのは憂鬱だ。テレビ壁を分解して、またもとどおりにできる人間は、まあ、いまはおおかたの人間ができるわけだが、そういう人間は、計算尺と巻尺で宇宙を測って計算して方程式で示そうとする人間よりしあわせなんだ。そんなことをしたって宇宙は測りきれないし、ぜんぶをイコールで結ぼうとすれば、人間が野蛮で孤独だってことを思い知らされるだけだからな。おれにはわかる。いまいましい話だが、やったことがあるんでな。だから必要なのは、趣味の集まりにパーティ、アクロバットに手品師、無謀な遊び、ジェットカー、バイクヘリコプター、セックスにへロイン、自動的な反射作用でできる、ありとあらゆるものってことだ。もしドラマがつまらなかったら、映画を見てもなにも伝わってこなかったら、芝居の中身がスカスカだったら、テルミン(電子楽器の一種)でガンガン刺激してくれりゃあいい。そうすればこっちは芝居に反応している気になれる。たとえそれが振動にたいする触覚の反応にすぎなくてもな。かまやしないさ。こっちはしっかり愉しめればなんでもいいんだから」

早川書房、レイ・ブラッドベリ、伊藤典夫訳『華氏451度』p102-104

この中で特に印象に残ったのは「モンターグ。国民には記憶カコンテストでもあてがっておけばいい。ポップスの歌詞だの、州都の名前だの、アイオワの去年のトウモロコシ収穫量だのをどれだけ憶えているか、競わせておけばいいんだ。」という箇所です。さあ、いかがでしょうか。皆さんも何かピンとくるものがありませんか?

そうです、最近のメディアのクイズ番組の多さは明らかにここで語られることと重なって見えてきませんでしょうか。

なぜそういう番組が多いのか、それは、「国民が、自分はなんと輝かしい、、、、情報収集能カを持っていることか、と感じるような事実を詰めこむんだ。そうしておけば、みんな、自分の頭で考えているような気になる。動かなくても動いているような感覚、、が得られる。それでみんなしあわせになれる」という言葉で語られます。

これはよくよく考えていかなければならない問題です。

こうして徐々に国民を何も考えない人間へと作り変えていくのです。しかも当の本人たちは「自分がいかに輝かしい情報収集能力があるのだ」と思っているのですから余計に巧妙です。

これこそ今私たちがメディアやスマホに接続されている世界の現実です。考えれば考えるほど『華氏451度』の世界がシャレにならないほど現実感を持って私の目の前に現れてきます。

この小説はぜひおすすめしたい作品です。私はこれを読み放心状態になってしまいました。それだけこの本が与える衝撃は凄まじいです。

ディストピア小説は私達の現在を痛烈に問うてきます。この作品はその最たるものの一つと言っていいでしょう。

手っ取り早く、簡単で、わかりやすい〈ファスト情報〉が溢れているのが現代です。私たちは多くの情報を知ったつもりになっていますが、果たしてその「知った」というのはどういうことなのでしょうか。

ただ単に〈ファスト情報〉に接続されただけに過ぎないのではないか。知ったつもり、わかったつもりになって実際は何も考えていない状態になっているだけではないか。次から次へと流し込まれる情報を摂取しては忘れ去り、摂取しては忘れ去りの連続になってはいないだろうか。

そんな恐ろしい現実を暴露するのがこの小説です。ぜひぜひおすすめしたい作品です!

以上、「面白くてわかりやすい簡単な情報〈ファスト情報〉の罠~メディア・ネットによって知らぬ間に思考力を奪われる恐怖とは」でした。

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