松村昌家『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』~ヴィクトリア朝繁栄の背景を知るのにおすすめ!

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松村昌家『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』概要と感想~ヴィクトリア朝繁栄の背景を知るのにおすすめ!

今回ご紹介するのは2003年に世界思想社より発行された松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 です。

早速この本について見ていきましょう。

リージェンシー(摂政時代)のダンディの世界から、ディケンズ時代の煙突小僧の世界にいたるまで、十九世紀ロンドンのあらゆる種類・身分の人びとの生活の場に踏み込んで、そのありのままの生活風景や心情を多くの挿絵を援用しながら活写する。

Amazon商品紹介ページより

松村昌家氏の著作は以前当ブログでも紹介しました。

松村氏はヴィクトリア朝の研究者で、上の本では世界初の万国博覧会となったロンドン万博について語られましたが、この本ではヴィクトリア朝に入る直前のリージェンシー時代からヴィクトリア朝初期にかけてのロンドンについて解説していきます。

ちなみに、リージェンシー時代といっても私達には聞き慣れない言葉でなかなかピンとこないですよね。リージェンシー時代というのはそもそもどのような時代なのか、著者は次のように述べます。

「リージェンシー」とは、年代的にいうと一八一一年から一八二〇年までの十年間、すなわち、イギリス国王ジョージ三世(在位一七六〇-一八二〇)が精神疾患のため国政の座から退いたあと、皇太子が代わって摂政を務めた期間を指す。この摂政皇太子(のちにジョージ四世、在位一八二〇-一八三〇)は「快楽の王子」と呼ばれるだけあって、生涯を通じて放蕩と贅沢の限りをつくし、国民から不評を買ったが、その型破りの「非凡さ」が独特の文化遺産を残す結果になったこともまた事実であった。なかでも彼の名を不朽ならしめているのが、ロンドン随一の目抜き通りとして知られるリージェント・ストリート(図1)の建設である。

世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P4-5

リージェンシー時代は1811年から1820年までの10年という短い期間ですがこの時代が後のヴィクトリア朝につながる重要な時期であると著者は述べます。

そして興味深いのは当時の政治のトップが「快楽の王子」と言われるほど放蕩と贅沢の限りを尽くしていたという点です。結果的にこうした「非凡さ」が型破りの文化遺産を残すことになったというのはフランス第二帝政(1852-1870)のナポレオン3世の治世にも似ているなと感じます。

ナポレオン3世も放蕩好きな面があり、型破りな土地改革、経済改革を行った人物です。今のパリの大部分はこの時代にパリ大改造という大改革によってなされたものです。ナポレオン3世の治世については「ナポレオン三世とフランス第二帝政の特徴6つをざっくりと」でまとめていますのでぜひご参照ください。

さて、このリージェンシー時代ですが、まさしくロンドンの街並みを決定づける大改造が行われます。それが有名なリージェンシー・ストリートになります。少し長くなりますが、後のヴィクトリア朝における発展の光と影がすでにこの時代に現れていることがわかる箇所ですのでじっくりと見ていきます。

リージェント・ストリート Wikipediaより

ロンドンの脊柱ともいうべきこの幹線街路を設計したのは、摂政皇太子お抱えの建築家ジョン・ナッシュ(1752-1835)であった。(中略)

皇太子の全面的なあと押しを受ける身となったナッシュは、新しい都市計画を打ち出すことによって建築家としての天分を発揮し、後世にその名を残すようになるのである。

彼はまず、リージェンツ・パーク(当時はマリルボン・パーク)に王室用の遊園地を作り、周囲に数々の別荘風の建物をめぐらすことを考え、この公園と、セント・ジェイムズ・パーク北東角にあった皇太子の宮殿カールトン・ハウスとを結んで、南北にのびる大通りを建設する案を打ち出した。この案が実現したあかつきには、「ナポレオンのパリも影が薄くなるであろう」と、摂政皇太子はこれに大いなる期待をかけていた、ということである。

このような過程をへてリージェント・ストリートは誕生したのだが、ここで特に注意しておきたいのは、ナッシュの都市計画が、「貴族やジェントリーの生活圏となっているいろいろな通りやスクエアと、職人や商売人たちによって占められている狭い通りや貧乏長屋との間に境界を設け、両者を完全に分離する」ことを目指したものであったということである。リージェント・ストリートが完成したあと、かなり時がたってから彼が言ったことは、このあたりの事情をさらに具体的に明かしてくれている。「私の狙いは、上流階級のすべての住宅街に通じる東の入口を横切るように新街路を通すことによって、劣悪な通りをすべて東側に押しのけ、船乗りの言葉を借りて言えば、きれいな大通りに沿って航行することであった」。

リージェント・ストリートがこのように、貧困層の多い東側との接触を断ち切り、西側の上流階級の生活圏に向けてのみ開かれるように設計されたというのはきわめて重要であり、かつ興味深いことだ。

新しく登場したこの新街路は、ロンドンの表と裏、光の世界と闇の世界とのコントラストを作り出す役割を担うことになったことを意味するからである。リージェント・ストリートの西側一帯(ウェスト・エンド)の中の高級住宅地と、貧困地帯としてナッシュによって遮断された東側のソーホーとは、このようにして隣接地同士でありながら、表と裏の別世界を構成するようになったのである。(中略)

リージェント・ストリートの西と東、わずか一キロメートル余りの距離のところに、これほど極端に対照的な地域が存在していたのである。

世界思想社、松村昌家著『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』 P 5-7

この引用のリージェント・ストリートがこのように、貧困層の多い東側との接触を断ち切り、西側の上流階級の生活圏に向けてのみ開かれるように設計されたというのはきわめて重要であり、かつ興味深いことだという箇所は特に重要です。皇太子お抱えの建築家ナッシュが上流階級と貧困層を分断する大通りを意図的に作ろうとしたことがここからわかります。そしてそれは政府側の意志でもあるわけです。

当時のイギリスは「貧困層を救済する」よりは彼らを分断して遠ざける方を選んだのでありました。

そしてこの後にやってくるヴィクトリア朝では上流階級側の世界はますます栄え、反対側の貧困地区はますます悲惨さを増していくという状況になっていきます。たった一本の路地を隔てることによって世界が変わっていく。光と闇が同居するような、そんな矛盾をはらんだ街が世界の大都市ロンドンだったのでした。こうした街にディケンズがいて、マルクス、エンゲルスがいたのです。

この本ではそうしたリージェンシー時代からヴィクトリア朝初期に至るロンドンの時代背景を見ていくことができます。

次の記事からこの本の中でも特に印象に残った「ダンディーの歴史」と「スマイルズの『自助論』」についてお話ししていきます。

「ダンディー」といえば以前「なぜフランス人男性はモテるのかーパリの伊達男「ダンディー」の存在から考えてみた」の記事でもお話ししましたが19世紀中頃のフランスで一世を風靡した伊達男たちのことです。

フランスのダンディー Wikipediaより

そのフランスで一世を風靡した「ダンディー」というのが元々このロンドンのリージェンシー時代に生まれたこと、そしていかにしてロンドンで「ダンディー文化」が生まれてきたかをこの本では知ることができます。これはフランス文化を考える上でも重要ですので次の記事で改めて見ていきたいと思います。

そしてスマイルズの『自助論』、これは日本でも中村正直による翻訳『西国立志編』を通して有名になった「天は自ら助くる者を助く」という言葉の基になった作品です。こちらもロンドンの社会情勢、特に経済面にとてつもない影響を与えた本なのでこちらもじっくりと見ていきたいと思います。

『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』は19世紀前半から中頃のロンドンを知るのに最適な1冊です。非常に興味深い内容が満載でした。おすすめです!

以上、「ヴィクトリア朝繁栄の背景を知るのにおすすめ!松村昌家『十九世紀ロンドン生活の光と影―リージェンシーとディケンズの時代』」でした。

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