マルクスの誤算?ヴィクトリア朝ロンドン市民の生活とは!19世紀のロンドンに思う

産業革命とイギリス・ヨーロッパ社会

ヴィクトリア朝ロンドン市民の生活とは!19世紀のロンドンに思う~ルース・グッドマン『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』より

前回の記事ではルース・グッドマンの『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』という本をご紹介しましたが、今回の記事では引き続きこの本の中から私が特に興味深く感じた箇所をいくつか紹介していきたいと思います。

ヴィクトリア朝のロンドンはあのマルクスがいた時代になります。マルクスはまさしくこの時代のロンドンで生活し、人々の姿を見、大英博物館の図書室にこもって研究に没頭していたのでありました。

マルクスはどんな世界を見て『資本論』を書いていたのか、そして彼と同時代人のロンドン人はどんな生活をしていたのか、そうした面からもこの本は私にってものすごく興味深いものでありました。

では、早速始めていきましょう。

女性がコルセットをつける意味とは

Wikipediaより

世間では長年のあいだ、女性の内臓には支えが必要だと強く信じられていた。(中略)

ヴィクトリア朝では、子宮などの生殖器があるせいで女性の上腹部は男性より弱く、問題を抱えていると考えられていた。皮肉にもおそらくこのことが、コルセットをつけた女性、特に子どもの頃からつけていた女性が筋肉の張りを失ってしまうという事態を招いたのだろう。コルセットに大部分を支えられた背中と腹部の筋肉はほとんど使われなくなるため、ある程度まで衰弱する。このような女性が一日かそこらコルセットをはずせば当惑と疲れを感じ、胴体に力が入らず苦労するだろう。ふたたびコルセットを装着してほっとし、やはりこれがなくてはと確信する可能性が高い。

『女性の美(Female Beauty)』などの雑誌には、「ステイズ〔コルセットの古い呼び方〕を非常にきつく締めつけている女性は、これなしではまっすぐ座ることができないのだとこぼす。そればかりか、就寝中も夜用のステイズを着用せずにはいられない」と書かれている。男女ともにまっすぐな姿勢が良しとされていたことで、人々のこうした思いはさらに強まった。ニ一世紀の偏見のない大らかな文化とは違い、ヴィクトリア朝の人々は、くつろいだ姿勢をだらしないふるまいや不品行に伴うものだと考えていた。見目麗しい人、成功者、おしゃれな人、権力者は、常に背筋がぴんと伸びていた。(中略)

医師たちは概して女性のコルセット着用を称賛し、非常に支持していた。唯一認められないのは、コルセットそのものではなく、「きつすぎる紐締めタイト・レーシング」―女性の体形を劇的に変えるためにコルセットを使用こと―だった。当時主流だった医学的意見では、コルセットをつけない女性は、きつく締めすぎている女性と同じくらい愚かだった。その一方で、コルセットを適度に体に沿わせ、適切に着用すれば、子宮を支える靱帯の損傷を防げる。負傷も避けられ、産後の回復も早まり、消化も促進され、生き生きと日々を過ごせるようになる―というか、そう思われていた。

原書房、ルース・グッドマン著、小林由果訳『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』上巻P83-84

ヴィクトリア朝では見た目の面だけでなく、医学的にもコルセットは高く評価されていたのでした。ですが科学は未だ発展途中であり、当時の科学はまだまだ厳密さを欠いていました。しかし当時の人にとっては科学的な見解は信用を増すものだったことでしょう。

そしてこのすぐ後で著者は鋭い指摘をします。

結局のところ、きちんとコルセットをつけた体形は社会が女性に期待したものだった。コルセットの着用には、まともな人間であること、そして何より、自尊心があることを自らと隣人たちに毎日示しているという意味があった。コルセットをつけない女性は自制心に欠けると見なされ、社会に認めてもらえず悪く言われただろう。コルセットなしで生きていたのは、世間からつまはじきにされる覚悟のある人々だけだった。

原書房、ルース・グッドマン著、小林由果訳『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』上巻P84

ここは非常に重要な箇所です。これは今もかつても変わらない、人間文化の非常に重要なポイントだと私は思います。

身につけるものや特定の振る舞いは、社会がひとりひとりに期待するものであり、そこから逸脱する者を識別する機能があるのです。もし定められたルールを守らないならばその人が反社会的な人間であることを示してしまいます。決められたルールを守る意思がある人間を、社会は求めます。何と言ってもその方が秩序を保ちやすくなりますし、それを維持するためにぱっと見てすぐわかる印として服装や特定の所作が求められたのでありました。

相手が何を考えているかを服装や所作で見ようとする。宮廷社会や上流階級に、厳しい礼儀作法が山のようにあるのはこうした理由もあるのかもしれません。何せそれらをマスターするには膨大な時間と労力、財力が必要です。それだけの力を費やしてまであなた達のルールを守りますよという姿勢をそれで示すことができます。

私も最近茶道を始めて気付いたのですが、使う道具から作法まで覚えなければならないことが驚くほどたくさんあります。かつての名士、特に戦国時代ではこの茶の素養があるかないかでその人の器量が試されていた面があります。茶という土俵にあなたは立ちますか。それとも、単に武で争うだけの男ですかと茶を始める前から突きつけられるものがあったのではないでしょうか。ここではこれ以上はお話しできませんが、文化の奥深さを感じます。

さて、話は戻りまして、ヴィクトリア朝の女性たちにとってはコルセットが、「まともな女性」であることを示す印となっていたのでした。

では、今の時代は何をつけているのが「まともな人間」の印なのでしょうか

これの面白い所は決して科学的に証明されているからそれが印になるのではなく、あくまで「社会が人々に期待するもの」であるという点です。ですので科学的根拠など必要ありません世の大多数の人が「そうあるのが望ましい」と信じることが重要なのです。

さて、そうであるならばまさしく今は何が求められているのでしょうか・・・身につけるもの、あるいは立ち振る舞い、考え方・・・。それをしていなければ、あるいはそれをしていることで周りから白い目で見られるもの・・・

服装は身体の動かし方にも影響を与える?

ヴィクトリア朝の服を着て感じたこと

これまでわたしは、ヴィクトリア朝の女性服を何種類も作って着用した。あまたのコルセットを耐え忍び、数台のミシンに悪態をついた。一八五〇年代半ばまでの流行服はまるごと手縫いし、それよりあとの時期の服は手回し式や足踏み(使用者がぺダルを踏むことで稼働する)式のミシンで作成した。コルセットに「風を通す」技術を身につけ、ぺチコートに織り込む馬の毛の扱い方を学び、何時間もかけてハンカチのふちをレース編みで飾った。楽しくて、時間がかかり、なんとも興味深い経験だ。当時の記録をよりよく理解し、正しく評価する助けとなるものはいくつもあるのだから。作ることでわたしが多くの学びを得たとしたら、着ることに関しても同じことが言える。(中略)

これまでわたしはヴィクトリア朝だけではなく、いくつかの時代の服を正確に再現して着てきた。どの時代でも、服装は体の動かし方に影響を与えた。座ろうと立とうと歩こうと、服によって全身の姿勢が変わるのだ。行動のとり方も変わってくる。楽に心地良くできる動きもあれば、不自然でぎこちなくなってしまう動きもある。やっている仕事や活動は同じでも、着用している服の種類によってまったく異なる取り組み方をしていることにわたしは気づいた。

原書房、ルース・グッドマン著、小林由果訳『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』上巻P 112-114

これまで19世紀の様々な文豪達の小説を読んできたわけではありますが、なるほど、服によってその体の動かし方が全く異なるというのは全く考えてもいませんでした。

言われてみればたしかにそうですよね。着ているものが変わればその着心地だけでなく、体の動かし方、感じ方も全く違ってきますよね。

しかも19世紀の人たちは現代を生きる私達とは全く違った服を着ています。その性能の差たるや途轍もないものがあると思います。そうした違いを意識することなくこれまで19世紀の小説を読んでいたなと気づかされました。服は盲点でした。これは面白い発見でした。

1847年工場法の成立と労働者の待遇改善~マルクスの誤算?

ヴィクトリア朝初期、平日に暇な時間はほとんどなかった。一日の労働時間が一二時間未満という人はごくわずかで、多くの人がそれよりはるかに長く働いていた。日曜は休息を取る日として一般的には仕事から解放されていたものの、家畜や馬の世話をしていた田舎の人々はこの安息日にもさまざまな雑事をこなさなくてはならなかった。

女性たちも大半は料理や家事をしていた。ただし公に認められていたわけではないが、大衆にとって月曜はのんびり過ごせる仕事日だった。職工も農民も、事務員でさえ、月曜の朝は遅く出勤した。職場に着いてからも週明け早々懸命に働こうとせず、木曜か金曜に長めに働いて月曜の埋め合わせをするほうがいいとおおかたのヴィクトリア朝の雇われ人は考えていた。実際、後述するように、労働者階級の人々がスポーツをする日は月曜が多かった。

一九世紀が進むにつれて、月曜をだらだら過ごす習慣をやめるよう雇用主は労働者に圧力をかけ、厳しい罰金を科して解雇をちらつかせるようになる。仕事優先文化が日の出の勢いにあった。一八ニ五年には年間四〇日あったイングランド銀行の休業日も、一八三四年にはわずか四日に減少していた。その一方で、従業員たちは全体的な労働時間短縮を求める運動を行った。当初は雇い主が主導権を握っていたものの、一八七〇年代初頭になると著しい変化が起こる。

経済が下り坂になり、多くの社会的機関がすでに勤務時間を短縮していたことから、平日は一〇時間、土曜は半日の労働時間にする会社が産業界全体で次々と増えていった。こうした好ましい労働状況は、すでに一八四七年の〈工場法〉で女性と子どもに限って(紡績工場や炭鉱などの特定の産業のみ)許されるようになっていたため、実業家らの心配にもかかわらず、労働時間を短縮しても大した経済的損害がないことは証明されていた。そればかりか一八七四年以降、雇用主たちは労働時間短縮によって利益が減少することはないとわかって仰天した。

労働者は効率良く仕事をこなし、機械の稼働速度は上がり、食事休憩は短くなって、作業は合理化されるようになった。月曜はしっかり仕事をする日に変わった。職工は事実上、月曜の遊びやお喋りの時間を、自由に過ごせる土曜の午後、そして平日の夜の一、二時間と交換したわけだ。
※一部改行しました

原書房、ルース・グッドマン著、小林由果訳『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』 下巻P79-80

ヴィクトリア朝の初期、つまり1840年代や60年代頃までの労働条件は極めて劣悪だったものの、1847年の工場法の成立をきっかけに徐々にその状況は変わっていきました。

そして70年代にはかなりの進歩を見せることになります。

引用の「 そればかりか一八七四年以降、雇用主たちは労働時間短縮によって利益が減少することはないとわかって仰天した。労働者は効率良く仕事をこなし、機械の稼働速度は上がり、食事休憩は短くなって、作業は合理化されるようになった。 」という箇所はそれこそ驚きですよね。

これはマルクスの『資本論』にとっても非常に難しい問題になるのではないでしょうか。

マルクスが『資本論』第一巻出版にいたるまで経済理論を研究していたのは40年代から1867年までです。ですのでこうした労働環境のポジティブな変化をマルクスは見ることなく『資本論』を書き上げたのでありました。

労働時間を減らしても利益は減らなかったとしたら、「労働時間(その時間分の労働力)を搾取して利益をあげる」というマルクスの理論はどう考えたらいいのでしょうか。ここではややこしくなるのでお話しできませんが、ここで語られたことは非常に重要であると思います。

上の引用にもありますように「資本家たちも仰天した」のですから、労働時間を短縮しても利益が出るというのはそれこそ当時としては想像もできない事象だったのでしょう。

このことについては以前紹介した「カール・B・フレイ『テクノロジーの世界経済史―ビル・ゲイツのパラドックス』産業革命の歴史と社会のつながりを学ぶのにおすすめ!」の記事でも語られていました。資本主義の発展は必ずしも労働者を搾取し続けるものではなく、全体として見れば人々の生活を豊かにしているというデータの一面をこの本でも知ることができました。

余暇の誕生とその後の産業への影響~レジャーやサッカー、ラグビー、競馬などのスポーツの発展

一八三七年の工場では週六日、午前七時に始業して午後八時に終業することになっていた。ところが一八七四年以降、始業時刻は労働者の父や祖父の代と同じく午前七時と変わらなかったが、終業時刻は月曜から金曜は午後六時、土曜は午後二時になった。当時の父親の生活を自伝につづったアルバート・グッドウィンは、このまったく新しい労働者世代の気持ちを代弁している。これまでとは違う労働慣行によって得た、余った時間に「することを見つけなくてはいけない」と。

たしかにそう考えたのは彼の父親だけではなかった。スポーツ、酒、園芸、旅行―何をするにしろ、余暇レジャー産業が誕生したことで、それまでになかった数々の活動が可能になったのだ。

とはいえ相変わらず余暇など手に入らない人々もいたことは認めざるをえない。家事使用人のハナ・カルクイックは朝六時から夜一一時まで働いていた。彼女の日記には決まった時間を自分のために定期的に確保していたらしき記述はない。もっとも、時には一日の中でちょっと時間を作ったり、夜に休みをもらったりはしていたようだ。

たとえばブライトンで働いていたときには、ある平日に「エレンと桟橋を散歩」したとある。また別のときには、勤務先の家を出て近隣家庭の召使いたちと数時間過ごしたらしい。夜に休みを与えられたときには、早めの夕食ティーをとってから皿洗いをして、雇い主一家のために冷製の夕食コールド・ディナーを食卓に並べたあと、午後七時頃家を出て午後一〇時過ぎに戻った。けれどもハナのように当時最も自由時間の少なかった人々でさえ、誰もが急速に「余暇」を経験しつつあることは否めなかった。では、この貴重な休みの時間に何をしようか。
※一部改行しました

原書房、ルース・グッドマン著、小林由果訳『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』 下巻P 80-81

1874年以降、労働時間の短縮により余暇の時間が生まれます。

そしてここからその時間をいかに過ごすかという新しい問題が生まれてきました。

その結果人々が自由に楽しむ時間、レジャーが発展していくことになったのでした。

この本ではここから、サッカーやラグビー、競馬やボクシングなどのスポーツがいかに発展していったかが語られます。最初は自分が実際にプレーするスポーツであったのが、観戦するスポーツへとなっていったこと。そしてそれに伴う産業化が語られます。

1846年当時のイングランドのフットボールの様子 Wikipediaより

レジャー産業が生まれたことで、これまで工場で単純作業を黙々と行う仕事とは全く違う体系の労働パターンも生まれてくることになりました。機械を動かし、そして機械のように単純作業を繰り返す仕事と、人々に娯楽を提供するレジャー産業ではその労働の中身は全く違ってきますよね。

こうした産業形態の多様な変化にも『資本論』発表後の晩年のマルクスは向き合わなければなりませんでした。これもマルクスにとっては意外だったのではないでしょうか。そしてそれに対する答えとしての『資本論』の続編は結局完成できないまま命を終えてしまうのでありました。

生活が変われば味覚も変わる?

ヴィクトリア朝が終わる頃には、イギリスでは食べ物が完全に新しい方法で理解されるようになっていた。とはいえ、当時の理解や普段の食事方法を現代の標準と安易に比べることはできない。生活様式が大きく変化すると、食べ物や食事について「知っている」と思い込んでいることの大半が変わるからだ。

現代のわたしたちが集中暖房設備セントラルヒーティングによって家や学校や職場などの屋内で維持している高い室温と、ヴィクトリア朝で日々生活して働く場合の気温とでは、肉体に必要とされることがずいぶん異なる。日常生活でどれほど体を動かすかについても、現代とヴィクトリア朝とでは基準が著しく違っている。

非常に基本的な次元で、こうした違いをわたしは身をもって体験した。ほぼ暖房なしのヴィクトリア朝の家でまるまるひと冬暮らし、毎日体を使って働きながらヴィクトリア朝の家庭生活と農業生活を送っていたときのことだ。わたしは自分の食欲や味覚が一時的に変化していることに気がついた。ニ一世紀の生活様式では大して気に留めないであろう食べ物が、おいしく感じられるようになったのである。

パンや肉汁、豚足、ジャムを塗っただけのスエット・ペイストリー〔スエットと穀粉を混ぜて焼いたもの〕を夢中で食べることができた。地中海料理のことを考えてもばかばかしく思え、まったく魅力を感じなかった。もっと異国的な料理のことを考えてもはっきりした味が想像できず、ローリーポーリー・プディングやブローン(豚の頭をゼリー状にした料理)のことを考えるとよだれが出た。わたしの体は、ヴィクトリア朝の生活様式を維持するには大量の炭水化物と動物性脂肪が必要だとはっきり知らせていたのだ。

また、ヴィクトリア朝では強い風味が嫌われたことにも納得し始めた。一九世紀の料理をけなすときは淡泊という言葉がよく用いられる。当時はハーブや香辛料、そして玉ねぎのような簡素な香味素材でさえ、わずかしか使われなかったからである。自分があっという間にこの薄めの風味に慣れ、完全に味覚が変わったことにわたしは非常に驚いた。これはただ以前と異なる食べ方になじみ、味覚が敏感さを取り戻しただけのことなのか、生活様式とも関係があるのか、わたしにはよくわからない。

わたしはさまざまな種類のじゃがいもの微妙な違いがはっきりとわかるようになった。グレイビーの風味は急に増したように感じられた。家族全員分のマッシュポテトの風味づけは、にんにくひとかけをボウルの内側全体にこすりつけるだけで充分だった。体重に関してはどうだろう。炭水化物と脂肪の摂取量が増えて太ったか―ノー。運動や重労働が増えて痩せたか―ノー。わたしの体は、必要に応じてできる限り食物摂取量を調節していたようだ。
※一部改行しました

原書房、ルース・グッドマン著、小林由果訳『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』 下巻P 168-170

この記事の前半では服装によって体の動きが異なることをお話しましたが、ここでは生活によって味覚も変わってくるということを見ることができます。

となってくると、今とかつては服による動きや、味覚だけでけなく、視覚、聴覚、嗅覚、ものの考え方、感じ方あらゆるものが異なってくるということが予想されます。

生きている環境が違えばあらゆる感覚も違ってくる。

しかし私たちはそうしたことをあまり、いやほとんど気にせず過去の歴史や物語を見てしまいます。これはひょっとするとかなりの落とし穴かもしれませんよね。私達は今を生きる私たちの感覚で過去の人たちを見てしまっている。そうなってしまうとかなり誤解している面も多いのではないでしょうか。これはなかなかに恐ろしい問題です。これまで自分が知っていると思っていたことの前提が崩れることになってしまいますよね。

もちろん、100%過去の人たちの感覚をわかることなど不可能です。ですがだからといって今とは全く異なる感覚でかつての人は生きていたという発想を忘れてしまえばそれはそれで大きな過ちを起こしてしまいかねません。

過去の歴史や物語、思想や文化を学ぶ時には現代の私達の感覚を無邪気に当てはめては危険である。そのことをこの本では特に感じさせられることになりました。

おわりに

ここまで ルース・グッドマンの『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』 から長々と紹介してきましたがいかがでしたでしょうか。きっと意外な発見があったと思います。私達の文化を考える上でも非常に有益なことがあったのではないでしょうか。

マルクスを学ぶ上で手に取ったこの本でしたが非常に興味深く読むことができました。

この本はとても読みやすくて、まるでドキュメンタリー番組を観ているかのようにすらすらと読むことができます。イラストも多数ありますのでイメージもしやすいです。

ヴィクトリア朝のロンドンということで、ディケンズファンの方にもぜひともおすすめしたいです。彼の小説をっ理解する上でも当時の人々がどんな生活をしていたかは作品の理解に非常に役に立つと思います。

楽しい発見が次々と出てくるこの作品はぜひともおすすめです。

以上、「マルクスの誤算?ヴィクトリア朝ロンドン市民の生活とは!19世紀のロンドンに思う~『ヴィクトリア朝英国人の日常生活 貴族から労働者階級まで』より」でした。

次の記事はこちら

前の記事はこちら

関連記事

HOME