ナポレオンってどんな人? ドストエフスキー『罪と罰』との関係(前編) 神野正史『世界史劇場 駆け抜けるナポレオン』を参考に

ドストエフスキーとフランス

本日はベレ出版の神野正史『世界史劇場 駆け抜けるナポレオン』を参考に、ナポレオンとは一体何者だったのかということをまとめていきたいと思います。

ナポレオンといえばその知名度は抜群ではあるものの、実際にいつ頃活躍し何をした人物かと問われれば意外とこれに答えるのは難しいのではないでしょうか。

正直に申しますと、今回フランスのことを学ぶまで私もよくわかっていませんでした。知れば知るほどなるほどなるほどと面白い発見でいっぱいでした。

さて、いよいよナポレオンに突入していくのでありますが、ドストエフスキーとナポレオンには深い関係があります。

彼の代表作『罪と罰』にはまさしく、ナポレオンが重大な主題として現れてきます。

主人公ラスコーリニコフは人間を世界の大多数を占める凡人と極々少数の非凡人に分け、ナポレオンのような歴史を変えるほどの非凡人はたとえ人を殺そうとも何をしても許されるという思想を生み出します。つまり非凡人には善悪、罪と罰は存在しないという思想です。

彼の殺人はこうした思想が原因の一つとなって行われたのです。彼は次のように言います。

「ああいう人間はできがちがうんだ。いっさいを許される支配者、、、というやつは、ツーロンを焼きはらったり、パリで大虐殺をしたり、エジプトに大軍を置き忘れ、、、、たり、モスクワ遠征で五十万の人々を浪費、、したり、ヴィルナ(訳注現在リトアニア共和国の首都)でしゃれをとばしてごまかしたり、やることがちがうんだ。それで、死ねば、銅像をたてられる、―つまり、すべて、、、が許されているのだ。いやいや、ああいう人間の身体は、きっと、肉じゃなくて、ブロンズでできているのだ!」『罪と罰』上巻P480 新潮文庫、工藤精一郎訳、平成20年第57刷

本文でさらっと出てくるこの言葉は流してしまいがちですが、ナポレオンが歴史上行ったこれらの出来事を知れば、よりラスコーリニコフの言わんとしているところが見えて来るのではないでしょうか。

では、いよいよ本題に入っていきましょう。

ナポレオンは1769年、イタリア半島の西のコルシカ島という小さな島に生まれます。ここはもともとジェノバという国の属国でしたが彼が生まれる直前にフランスに併合された島でした。彼の両親もコルシカ人で、併合後にフランスに帰順し、父親はフランスの貴族として認められることになります。

ナポレオンといえば生粋のフランス人というイメージがありますが、実はフランスの属国の小さな島が出身だったのですね。

彼の幼少期もなかなか興味深いです。教育のため、9歳の頃彼は故郷コルシカを離れてパリ近郊の士官養成学校(※今の小学校に相当)に送られることになりましたが、そこでの生活は順風満帆のものではなかったようです。

その様子を『世界史劇場』から引用します。

「やさしい母親から引き離された哀しみからか、学校での彼は暗く、陰気。

そのうえ、まだフランス語が拙く、田舎者まるだしのコルシカ訛りでしか話せなかったためか、無口で、人づきあいも悪い。

いつも独り黙々と本を読む少年でした。

いつの時代にもこうした子はいますが、まさか彼がヨーロッパ全土に覇を唱える皇帝になるとは、誰ひとりとして予想できなかったことでしょう。

さらに、背も低くガリガリに痩せていて肉体的に恵まれていたわけでもなく、生来の自尊心の高さと傲慢さも手伝って、格好のイジメの対象になっていたといいます。」P17

さて、そんな幼少期を過ごしていたナポレオンでしたが、無事士官学校の砲兵科を卒業し少尉となり、兵舎を転々とする生活を送ることになります。この時は特に何も特筆した出来事もなく、ただ時間だけが過ぎていく日々だったようです。

しかしそんな中1789年、ついにフランス革命が勃発します。

この時彼は20歳を目前に迎えた19歳と11か月。

いよいよナポレオンの快進撃が始まるのか!・・・と思いきや彼はこの時目立った行動は特にとっていません。

パリにいて革命の混乱を目にしていたのですが我関せず。彼にとってはあくまで自身はコルシカ人であり、一歩引いた目でその革命を見ていたのでしょうか。

さて、そんなナポレオンが歴史の表舞台に登場するのは時を経た1793年のことです。フランス革命が起きてから4年も経っています。

ですがフランス革命の混乱はまったく収まる気配はありません。いや、むしろ混乱はどんどん拡大していっていると言ってもよいでしょう。フランス国内外問わず戦乱は続いていました。

そして軍人として彼に白羽の矢がたったのは1793年のトゥ―ロン攻囲戦。先程のラスコーリニコフの言葉にも出てきましたあのツ―ロンです。

イギリスと手を組んだ反革命派の軍勢とフランス革命政府軍との戦いが膠着状態になり、それを打開するためにナポレオンが砲兵大佐として作戦の指揮を任されることになったのです。

彼が指揮するやいなや瞬く間にトゥ―ロンの戦いは圧勝!ナポレオンの評価はうなぎのぼりです。彼はこの1年で大尉から少佐(93年10月)、大佐(11月)、准将(12月)、少将(翌2月)と驚くべきスピードで出世街道を駆け上って行きます、

これで天下のナポレオン伝説の開幕かと思いきや、フランス革命の政治のごたごたに巻き込まれすぐに失脚。若くして栄光を掴みかけたナポレオンは生活に困るほどのどん底に追い込まれます。

彼の苦難の生活はその後しばらく続き、歴史の表舞台からまたもや消えてしまいます。

しかしそんな彼にもまた転機が訪れます。

1795年10月、パリでヴァンデミエールの反乱という革命政府の打倒を狙った大規模な反乱が起きてしまったのです。

パリの街中に現れた2万5千の反乱軍。それに対して政府軍はたったの5千。政府軍は他国との戦争に駆り出されてパリ護衛が手薄になっていたのです。

革命政府は大ピンチです。「まずい!このままでは政府が倒れてしまう・・・!」

ですがここで政府首脳は思い出します。そうだ!我々にはあのナポレオンがいるじゃないか!急いで呼び戻せ!

それまで冷遇されていたナポレオンが政府中枢に復活した瞬間でした。

ナポレオンはパリ市内にも関わらず大砲を40門用意、さらに同じ国民でもあるにも関わらず反乱軍相手に容赦なく一斉砲撃を開始。まさかパリ市内で大砲を打ってくると思っていなかった反乱軍は大混乱に陥ります。

これはなかなか出来ることではありません。想像してみてください。パリ市内で大砲による一斉砲撃をするということは、花の都が火に包まれることを意味します。今だったら東京のど真ん中でミサイル弾を乱射するようなものです。

ましてやそれを向ける相手は同じフランス国民です。同胞相手に躊躇なく砲撃するのはなかなか出来ることではありません。

首都パリの炎上や一般人の犠牲などの危険から上官の反対もあったものの、ナポレオンは押し切ります。

そしてその結果トゥ―ロンに引き続き、ナポレオンはまたもやあっという間に勝利を収めてしまうのでありました。ラスコーリニコフの言うパリの大虐殺はこの戦いに当たります。

ナポレオンはまさにここから破竹の勢いで歴史の舞台を駆け抜けていくのです。

続く

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