恐怖や孤独に打ち勝つ心の強さとは~ボスニア紛争経験者ミルザさんとの対話 ボスニア編⑫

スレブレニツァメモリアルホールの見学を終え、私たちは一路サラエボへの道を引き返していきました。

スレブレニツァからサラエボまでの道のりは片道およそ3時間ほど。

私はその間、ミルザさんと様々な話をしました。

ボスニアの文化のことやミルザさんのイタリア時代のこと、コーヒーのことやサッカーのことなど、ここでは話しきれないほどたくさんのお話をしました。

そしてスレブレニツァでの衝撃的な体験の後に、私の中にどうしてもミルザさんに聞いてみたいことが生まれてきました。

私はこの帰り道、思い切ってそれをミルザさんに打ち明けてみることにしたのでした。

映画『アイダよ、何処へ?』の舞台となったスレブレニツァ・メモリアルホールを訪ねて ボスニア編⑪

スレブレニツァのお墓をお参りした後、私たちが向かったのはスレブレニツァメモリアルホール。

メモリアルホールといっても、外観は古びた工場といった趣。

ですが、古びた工場というのもあながち間違いではありません。実はここはかつて実際に工場として使われていた建物で、紛争中この工場は国連軍の管理下に置かれ近郊から避難してきたムスリムの収容所として使用されていました。

しかし国連の監視下で安全を確保されるはずでしたが、結果的には多くの人が虐殺されることになってしまいました。

その時の犠牲者のご遺体がついさっきまでお参りしていたお墓に埋葬されているのです。

ボスニア紛争で起きた惨劇、スレブレニツァの虐殺の地を訪ねて ボスニア編⑩

2019年4月29日、私は現地ガイドのミルザさんと二人でスレブレニツァという町へと向かいました。

そこは欧州で戦後最悪のジェノサイドが起こった地として知られています。

現在、そこには広大な墓地が作られ、メモリアルセンターが立っています。

そう。そこには突然の暴力で命を失った人たちが埋葬されているのです。

私が強盗という不慮の暴力に遭った翌日にこの場所へ行くことになったのは不思議な巡り合わせとしか思えません。

私は重い気持ちのまま、スレブレニツァへの道を進み続けました。

ボスニア

上田隆弘、サラエボで強盗に遭う。「まさか自分が」ということは起こりうる。突然の暴力の恐怖を知った日 ボスニア編⑨

当時のことを思い出すと、恥ずかしながら心にほんの少しの緩みがあったことを私は認めなければなりません。

ここまで無事にやって来れたという自信が、知らないうちに「自分は大丈夫だ」という過信に変わってしまっていたのでした。

そんな私が災難に遭うのは必然のことだったのかもしれません。

幸い無事に逃げることができましたが、私にとって非常に恐ろしい出来事になりました。

ボスニア紛争経験者ミルザさんの物語(後編)~サラエボ包囲からの脱出とその後の日々 ボスニア編⑧

ミルザさんとはサラエボに滞在していた5日間、たくさんお話しさせて頂いた。

ここで語ることができたのはそのほんの一部に過ぎません。

ですが、それでもできるだけその時の雰囲気を伝えられるよう書いてみたつもりです。

ミルザさんの体験が少しでも皆さんに伝わることができたならこんなに嬉しいことはありません。

私自身も紛争や戦争について本当に考えさせられました。いや、日本に帰ってきた今も考え続けています。

誰かの体験を直接聞くということがどれほど貴重な体験であるかということを心の底から感じたサラエボでの日々でした。

ボスニア

ボスニア紛争経験者ミルザさんの物語(前編)~紛争の始まりと従軍経験 ボスニア編⑦

わかりやすい構図で語られる、紛争という巨大な出来事。

ですが、事実は単にそれだけでは済まされません。民族や宗教だけが紛争の引き金ではありません。あまりに複雑な事情がこの紛争には存在します。

わかりやすい大きな枠組みで全てを理解しようとすると、何かそこで大切なものが抜け落ちてしまうのではないだろうか。なぜ紛争が起こり、そこで一体何が起こっていたのか。それを知るためには実際にそれを体験した一人一人の声を聞くことも大切なのではないでしょうか。

顔が見える個人の物語を通して、紛争というものが一体どのようなものであるのか、それを少しでも伝えることができたなら幸いです。

ボスニア

サラエボ市街地にてボスニア紛争を学ぶ~たった1本の路地を渡ることすら命がけだった日々 ボスニア編⑥

サラエボは1992年4月から1995年10月まで約3年半の間、セルビア人勢力に包囲され、攻撃を受け続けました。その間の犠牲者はおよそ12000人。

1990年生まれの私は当時2歳。その頃の記憶は当然ありません。ですが、平和に暮らしていた私の幼少期に、遠く離れたボスニアでは悲惨な紛争が続いていました。それも多様な民族や宗教が共存していたその国で。

文化の多様性がその国の持つ良さであったはずなのに、それが瞬く間に崩壊してしまった。

一体、ここで何が起こってしまったのでしょうか。

ボスニア

サラエボ旧市街散策~多民族が共存したヨーロッパのエルサレムの由来とは ボスニア編⑤

2019年4月28日。

この日もBEMI TOURのミルザさん、松井さんと共にサラエボを散策。

この日はサラエボウォーキングツアーということで、サラエボの文化と歴史、そして紛争当時のことを学ぶ半日のスケジュール。

この記事ではサラエボの文化と歴史に焦点を当てて述べていきます。

サラエボ事件で有名なラテン橋や、日本ではなかなか見ない飲み方のボスニアコーヒーもご紹介します。

ボスニア

サラエボオリンピック競技場の墓地とヴレロボスネ自然公園と~平和の象徴が紛争犠牲者の墓地に… ボスニア編④

1984年の冬季オリンピックの会場がまさしくここサラエボ。

平和の祭典オリンピックが行われてから10年と経たない内に、この地は紛争へと突入していくことになってしまったのでした。

紛争中、サラエボ市内では多くの犠牲者を出すことになりました。そのためもともとあった墓地区画に遺体を埋葬しきれなくなるという事態に。

そこで急遽オリンピック競技場のサブグラウンドを墓地として利用することになったのでした。

平和の祭典の会場がそのまま紛争の犠牲者となった人たちのお墓となっている。こんな皮肉があっていいものなのだろうか。

私はなんともいたたまれない気持ちで目の前のお墓を呆然と見続けたのでした。

ボスニア紛争とトンネル博物館~サラエボの奇蹟!市民の命をつないだトンネルを見学 ボスニア編③

この記事からボスニア紛争、特にサラエボ包囲についてお話ししていきます。

私がまず向かったのはトンネル博物館。街を包囲されたサラエボ市民が唯一国外とアクセスできた、文字通り市民の生命線となった場所です。

そしてそこに向かう途中、スナイパー通りも通りました。ここはサラエボ包囲中、最も危険な通りの一つでした。

紛争経験者のガイドさんから当時のお話を聴きながら私は現地を歩きました。