ボスニア紛争経験者ミルザさんの物語(後編)~サラエボ包囲からの脱出とその後の日々 ボスニア編⑧

ボスニア・クロアチア編

ボスニア紛争経験者ミルザさんの物語(後編) 僧侶上田隆弘の世界一周記―ボスニア編⑧

1992年4月6日。

それは突然始まった。

この日を境にサラエボ市民は1425日にわたって、セルビア軍の包囲下で極限の生活を強いられることになったのだ。

「私達も戦争は教科書で習った昔のものだと思っていました。

しかし現実にそれは起こってしまいました。

戦争は兵士と兵士が戦うものだと思っていました。

しかし多くの民間人が巻き込まれ、命を失ってしまいました。

セルビア人の攻撃が始まり、しばらくは何が起こったのかもわからず、茫然自失でした。

そして水もなく、食料もない日々に本当に苦しみました。

しかしそれが3か月、半年も続くとそれに慣れてしまう。感覚がマヒしてしまうのです。

生きるか死ぬかの苦しい日々が日常へと変わっていったのです」

紛争が起こることを予期していたミルザさんですら、サラエボ包囲が始まった瞬間はその事実を信じることができなかった。

だとしたら、他の大多数のサラエボ市民はそれをはるかに超えるショックを受けていたのではないだろうか。

だが、それにしてもなぜサラエボは突然包囲されることになったのだろうか。

どうして市民は気づくことができなかったのだろうか。

「それを知るには当時のボスニアの状況と大セルビア構想について考える必要があります。」

ミルザさん曰く、

ユーゴスラビアは多くの民族が集まって成立している国家で、当時その中で最も力の強かったのがセルビアだった。

セルビアは大セルビア構想という領土拡張主義を進めていた。

つまりユーゴスラビアが崩壊に向かっていく中で、少しでも自国の支配する領土を増やそうと画策していたのだ。

そんな中でクロアチアとスロベニアはいち早くユーゴスラビアからの独立を宣言。

セルビアにとっては痛い打撃となってしまったのだった。

そしてサラエボ包囲直前の1992年3月、今度はボスニアが独立を宣言。

今度こそクロアチアとスロベニアの二の舞にはなるまいと、セルビアが動き出す。

そして水面下で準備を進め、サラエボに対して奇襲に等しい包囲戦を開始したのだった。

「攻撃は激化し、毎日多くの犠牲者がでました。

サラエボでは多い日で3000発以上、平均して329発の砲弾が飛び交っていました。

特に危険を感じたのは、当時配属されていたボスニア軍司令部の入り口がセルビア軍に見つかり、自分が建物に入った数秒後に入り口が爆撃された時や、実家近くの階段で夜中に友人と座って話をしていた時、自分の胸に狙撃兵のレーザーが照射されたのを見つけた時でしょうか。すぐに逃げたので助かりましたが。そんな事が日常的に起こっていました。

そんな日々が続く中、私は1993年12月末、サラエボを脱出し一人でローマに渡ることになりました。

・・・家族を守るために。」

―家族を守るためにミルザさん一人で脱出をしたのですか?

「はい、そうです。

私達家族はよく話し合いました。

紛争はいつか終わる。

しかし、その頃にはサラエボには何もない。仕事も失ってしまった今、生きていくことすら困難な状況になっているだろうと。

生き抜くためにはお金が必要です。

家族の内誰かがお金を稼いで皆を守らなければならない。

私達は紛争の先を見据えていました。

そして兄は両親を守るためにサラエボに残り、私が国外へと脱出しお金を稼ぐことになったのです。」

ドイツからサラエボに戻ったのは家族を守るため。

そしてサラエボからローマへ脱出するのも家族を守るため。

家族を戦地に残して外国へ脱出するのはどれほどの苦悩だったのだろう。

家族を守るためにあえて脱出しお金を稼ぎに出なければならない・・・

この頃ミルザさんはまだ20代に入ったばかり。

そんな年頃の時にミルザさんは究極の決断を突き付けられていたのだ。

紛争はその人の人生を決定的に変えてしまうものなのだ。

「サラエボを脱出するといっても、これは非常に危険なことでした。

セルビア兵に見つかることは、死を意味します。

私は93年12月末の真夜中、共に脱出する友人と2人で空港の滑走路付近まで来ていました。

サラエボ空港滑走路付近

私はここを走って横切り、監視をすり抜け山の近くにある友人の親戚の家へ向かいました。

私達はそこで少し休憩を取り、それからまだ真っ暗の朝4時、山へ向かって進み、山の中を20キロ近く歩き続けました。

雪も深く気温もマイナス20度近くなる真冬の山です。これは本当に厳しかったです。

私達は敵に見つからないことを祈りながら歩き続けました。」

「私達が目指していたのはコニツという町でした。

ここはセルビア軍勢力の外にあった町なので、とりあえずここまで行ければ脱出もうまくいくだろうと考えたのです。

ミルザさんはコニツへの幹線道路沿いの山を進んだ

コニツへは幹線道路が通っています。

私達は道路沿いに山を進みました。

この道はよく車が通ります。

ここを通る車に誰が乗っているのか、私達には全くわかりませんでした。もしセルビア軍の車だった場合、それは最悪の事態を意味していました。

ですから絶対に見つかってはならなかったのです。

ミルザさんが実際に通った鉄道の橋。

私達は線路やトンネルも駆使して進みました。」

―なぜ線路だったのですか?

「紛争当時鉄道はほとんど走っていませんでした。

さらに、線路からは見通しがよかったので遠くを走る車をいち早く見つけることができます。

私達は車を発見するとすぐに線路に伏せて車をやり過ごしました。

鉄道のトンネルは隠れるには絶好の道でした。」

見つかったら終わりという極限の緊張状態。

何か一つ、たった一つでも判断を誤ってしまったら、それは死を意味する。

ミルザさんはそんな極限状態の中コニツへの道を進み続けたのだ。

コニツを流れるネレトバ川

朝の4時に出発してから実に15時間の行軍。

夜の7時、ミルザさん達はついにコニツの町に到着した。

「私達はここで休み、翌日モスタルに向けて出発しました。

モスタルからは港町のスプリットまでバスが出ていることを知っていたからです。

幸いなことにその道を歩いている途中、スイス人の車に乗せてもらうことができました。

定員を超えていたので私は荷物のスペースに小さくなって乗り込みました。

それでも歩かずにモスタルに行けたのは幸運なことでした。

スプリットからはイタリアのアンコナまで船へ行き、そこから鉄道でローマへ向かいました。」

こうしてミルザさんは無事ボスニアを脱出し、ローマへと向かうことになった。

―それにしても、他にも多くの国がある中でミルザさんはなぜイタリアのローマを目指したのですか?

「当時、ユーゴスラビアのパスポートでビザなしで入国出来る国が近隣諸国でイタリアだけでした。

私は新しく出来たばかりのボスニアのパスポートを持っていたのですが税関職員皆、初めて見たと盛り上がっていました。

ですが恐ろしいことにこの3か月後にはサラエボからモスタルへの道も完全に封鎖され、イタリアへの入国も封鎖されてしまいました。

私は間一髪のところで助かったのです。」

―ローマに行かれてからはどのように生活されていたのですか?

「近所に住んでいた友人がローマに住んでいたので、私はしばらくその友人の世話になることになりました。

そしてローマのユーゴ人コミュニティから仕事を紹介してもらい、生活を始めました。配水管整備や大工、年配の方への投薬のバイトなど、様々な仕事をしました。

そして独学でイタリア語を学び観光ガイドの仕事を務めるようになりました。」

ミルザさんはローマで13年過ごし、そこで松井さんと出会われご結婚。

その後ミラノでも13年間生活し、2016年に復興の進んだサラエボに戻りBEMI TOURを立ち上げ現在に至る。

「これが私の見てきたボスニア紛争です。紛争で私の生活は一変することになりました。

私達は突然平和な生活を失い、暴力に見舞われたのです。

生きていれば、信じられないこともたしかに起こるのです。」

ボスニア紛争は本当に悲惨な結果をもたらした。

20代前半だったミルザさんの青春時代も、紛争によって失われてしまった。

思い出すだけで辛い出来事がいっぱいだろうと思う。

できれば思い出したくない、話したくないと思うこともミルザさんは包み隠さず伝えてくれた。これは本当にありがたいことだった。

「1995年の紛争終結後、兄がローマに逃げてきました。

兄はそれからしばらく私と暮らしました。

しかし、私の家に来てから3か月ほどは精神的に非常に不安定な状況にありました。

兄にとってサラエボでの極限の生活から日常に戻るのはとても困難なものでした。

それほど、あの紛争は私達の心に深い傷跡を残しました。

ボスニアには今でもその傷から立ち直れず、精神的に苦しんでいる人がたくさんいます。

紛争時の話は今でも皆したがりません。

それほど悲惨な記憶だったのです。

ですが、私の紛争体験が平和のためになるなら、喜んで協力したいと思います。

紛争の体験を日本の皆さんにも伝えて頂けたら嬉しいです。」

ミルザさんはそうお話しして下さった。

ミルザさんとはサラエボに滞在していた5日間、たくさんお話しさせて頂いた。

ここで語ることができたのはそのほんの一部に過ぎない。

だが、それでもできるだけその時の雰囲気を伝えられるよう書いてみたつもりだ。

ミルザさんの体験が少しでも皆さんに伝わることができたならこんなに嬉しいことはない。

私自身も紛争や戦争について本当に考えさせられた。

いや、日本に帰ってきた今も考え続けている。

誰かの体験を直接聞くということがどれほど貴重な体験であるかということを心の底から感じたサラエボでの日々だった。

さて、次の記事ではこの話を聞いた当のぼく自身が予期せぬ暴力に遭うことになったお話をしていきたい。

続く

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