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『親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』~浄土真宗の開祖の生涯を時代背景と共に解説!
「悩み多き英雄、親鸞」
私は浄土真宗の開祖親鸞聖人をそう呼んでみたいと思います。
私たちひとりひとり、人生を生きていけば様々な悩みに直面せざるをえません。そんな悩みに対して私たちはどう向き合えばよいのでしょうか。そのヒントを与えてくれるのが親鸞聖人というお方なのではないかと私は思うのです。
親鸞聖人は生涯の最後の最後まで悩み続けられた方です。悟りを開いて万事解決という人生ではありませんでした。しかし悩みを抱えながらも最後まで力強く生ききられたのが親鸞聖人というお方です。私はこうした親鸞聖人の生き様に深く感ずるものがあります。
親鸞聖人は何を心の支えに生きておられたのでしょうか。生きること、そして死をどう捉えていたのでしょうか。
私はこの悩み多き現代においても親鸞聖人の生き様や教えは必ず届くと信じています。
これから皆さんと一緒に親鸞聖人の波乱万丈の生涯を追っていくわけですが、きっと皆さんもこの「悩み多き英雄」に共感を抱くことになるでしょう。
また、本伝記は宗派の伝承だけではなく、最新の歴史学の知見を取り入れて聖人の知られざる一面も掘り下げていきます。時代背景がわかればもっと歴史が面白くなる!この連載を通してそんな読書の醍醐味も味わって頂けたらと思います。
親鸞聖人の人生は大いなる人間ドラマです。やはり世界に名を残す偉人にはそれだけのスケールがあります。ぜひその魅力を体感して頂けましたら幸いでございます。
では、早速これから親鸞聖人の生涯をお話ししていくのですが、その前に極ざっくりと親鸞聖人という人物について紹介します。
親鸞 Wikipediaより
親鸞聖人(以下敬称略)は1173年に京都の中下級貴族日野有範の子として生を受けました。時は平安時代末期。あの平清盛が関白となり、平氏がこの世の盛りを極めていた時代に当たります。
そして9歳の頃に出家し、20年間比叡山延暦寺で修行や学問を積まれた後、比叡山を下りて法然上人の教団へ弟子入りします。
比叡山延暦寺
法然上人の下、専修念仏の教えを学んでいた親鸞でしたがその充実した日々も突然終わりを迎えてしまいます。1207年、法然教団が後鳥羽上皇の逆鱗に触れ弾圧されてしまうのです。その結果師匠の法然上人は土佐に、親鸞も越後へと流罪となってしまったのでした。
親鸞は流罪先の越後で罪人として4年を過ごし、罪を許されてから関東へと移住します。これが親鸞の東国布教の始まりでした。
関東滞在の拠点、稲田の風景
親鸞は関東に20年ほど滞在し、多くの門弟が親鸞の教えに帰すことになりました。この時期に主著『教行信証』が執筆されています。
そして60代になった親鸞は生まれ故郷の京都へといよいよ帰還します。当時の平均年齢を考えると、この時点でかなりのご高齢です。
ただ、ここが親鸞のすごいところなのですが、なんとここから親鸞は90歳まで生き続けることになります。当時の医療水準でここまで生き延びるというのはそれだけでも驚きですが、亡くなるぎりぎりまで布教、執筆活動に勤しんでいたというのですからさらに衝撃です。
まさに驚異のバイタリティー。浄土真宗開祖と呼ばれるにふさわしい圧倒的なスケールのご生涯でありました。
これが極簡潔にまとめた親鸞の生涯になります。
では、これよりいよいよ親鸞の生涯をじっくりと見ていくことにしましょう。
続く
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『親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』目次
親鸞の誕生と比叡山期
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ただ、前回の記事で申しましたように、法然はその直後から教団を立ち上げたわけではありません。法然が有名になったのは1186年の大原問答という出来事がきっかけでした。今回の記事ではその大原問答とはどのようなものだったかを見ていくことにしましょう。
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(17)法然教団での親鸞の充実した日々~『選択集』書写や真影制作の許可など法然から信頼される聖人に...
東山吉水にある法然教団に入門した親鸞聖人。
優秀な兄弟子がたくさんいるにも関わらずめきめきと頭角を現し、師匠法然にも認められていきます。
今回の記事ではそんな聖人の充実した日々についてお話ししていきます。
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(18)信行両座と信心争論~若き親鸞は尖っていた!?法然教団を騒がした事件とは
法然教団での充実した日々を送ることになった親鸞聖人ですが、当時は若さもあったのか(と言っても30代ではありますが)、実は教団内ではかなり尖った存在でもありました。その尖りっぷりをうかがえるエピソードが本願寺の公式伝記たる『御伝鈔』に2つほど収録されています。
この記事ではそんな尖った親鸞のエピソードをご紹介したいと思います。
法然教団の危機と建永の法難
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(19)法然の多面性と多様な弟子が集った法然教団の危うさとは
前回の記事では親鸞の尖ったエピソードを紹介しましたが、その記事の最後で法然の多面性について少しだけ言及しました。
今回の記事ではその法然の多面性と法然教団の危うさについてお話ししていきます。
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(20)法然の七箇条制誡から見る教団の混乱ぶりとは
この記事からはこの法然教団を襲った幾多の危機についてお話ししていきます。もちろんこの危機のど真ん中に親鸞もいました。充実した法然教団での日々も間もなく終わりを迎えます。そうです。この後法然教団は朝廷から弾圧を受け崩壊してしまうのです。
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(21)「興福寺奏上」と執筆者解脱房貞慶の意外な事実とは
この記事では「興福寺奏上」を見ていくと同時に、この書状の執筆者とされてきた興福寺の高僧解脱房貞慶についてお話ししていきます。
従来の浄土宗や浄土真宗からは法然教団を弾圧に追い込んだ大悪人のような言われ方がされてきましたが、実は最近の歴史学の検証によりそれが間違いであった可能性が明らかになっています。
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(22)法然・親鸞が流罪となった「建永の法難」とは
法然上人の下、専修念仏の教えを学んでいた親鸞でしたがその充実した日々も突然終わりを迎えてしまいます。
1207年、法然教団が後鳥羽上皇の逆鱗に触れ弾圧されてしまうのです。その結果師匠の法然上人は土佐に、親鸞も越後へと流罪となってしまったのでした。
越後流罪――挫折と沈黙の時代
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(23)親鸞の越後流罪生活の始まり~親鸞はどのような生活をしていたのか
親鸞は1207年2月末、越後(現上越市)へと流罪となりました。
この北陸の地で親鸞はどのような生活を送っていたのでしょうか。この記事では意外な事実をお話ししていきます。
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(24)親鸞の恵信尼との結婚~親鸞の生涯における最大の謎について
親鸞の結婚。
かつて親鸞を語る上で「公然と妻帯した最初の僧親鸞」「破戒僧親鸞」というフレーズがよく出てきたものですが、このフレーズが実は正確なものではないことはこれまでお話ししてきた通りです。
この記事ではそんな親鸞の妻恵信尼についてお話ししていきます。
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(25)越後の親鸞の挫折と沈黙・・・親鸞を親鸞たらしめた越後生活とは
親鸞はやはり天才です。越後での挫折と不気味なまでの沈黙はやはり親鸞にとってなくてはならない貴重な時間だったのだと私は思います。親鸞はこうして親鸞になっていったのです。
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(26)非僧非俗「愚禿釈親鸞」の名乗りはなぜ行われたのだろうか
親鸞は弾圧事件を通して自分にとっての仏道とは何かを深く考えさせられたことでしょう。そして越後での生活を経てますますその思索は深められていきました。
そんな親鸞が行きついたのが「非僧非俗」というあり方になります。
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(27)師匠法然の死去と親鸞の沈黙~なぜ親鸞は法然の下に駆け付けなかったのか
ようやく罪が許され自由となった親鸞です。離れ離れになっていた法然に真っ先に会いに行くかと思いきや意外や意外。親鸞は越後から動いた形跡がありません。
しかもそうこうしている内に当時78歳というご高齢であった法然は翌1月25日に亡くなってしまいます。こうして親鸞は法然と再会することなく、今生の別れとなってしまったのでした。
親鸞が法然の下に馳せ参じなかったことを私たちはどう受け止めればよいのでしょうか。
関東時代――親鸞教団の形成と『教行信証』
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(28)親鸞、新天地の関東へ!新たな拠点「稲田の草庵」に移り住む親鸞一家
親鸞は1211年11月17日に朝廷から正式に罪を赦され、晴れて自由の身になりました。
ですがなぜかその後も越後を離れず、ようやく動きがあったのは1214年のことになります。
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(29)親鸞はなぜ関東に移住したのか~幕府の有力御家人宇都宮頼綱の存在
1214年、親鸞一家は住み慣れた越後を離れて関東へと旅立ちました。
そして20年近くにわたる関東布教生活を営むことになるのですが、私たちはあることを見逃してしまいがちです。
それが、「なぜ親鸞は関東に向かったのか」ということです。
後世を生きる私たちは親鸞が関東に行ったことを自明のことのように考えてしまいがちですが、幼い子供2人を抱えていた親鸞夫妻にとってそれは当たり前のことではありません。何らかの理由があって彼らは関東へと旅立ったはずです。
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(30)親鸞の悪人正機説とは?誰のために、なぜ説かれたのか
親鸞の思想として有名な「悪人正機説」ですが、はたしてこれはどのようなものだったのでしょうか。
この記事では親鸞の関東生活に注目しながら考えていきたいと思います。
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(31)山伏弁円と親鸞の対決~関東滞在の象徴的出来事とも言える弁円の帰依
私が思うに、親鸞のすごいところは、関東の荒々しい武士たちから深く尊敬されている点にあります。
武士たちはまさに日々命のやり取りをしている人間です。そんな人間たちから「む!この男・・・只者ではない・・・!」と一目置かれるだけのものが親鸞にはあったのです。
そしてその最大のエピソードとして語られるのが有名な山伏弁円との対決です。この記事ではそんな弁円と親鸞の出会いについてお話ししていきます。
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(32)明恵『摧邪輪』の衝撃~法然の『選択本願念仏集』への批判と親鸞への影響とは
この記事では親鸞がその『教行信証』を執筆するきっかけのひとつとなった明恵の『摧邪輪』という書物についてお話ししていきます。
親鸞の主著が生まれる背景に一体何があったのか、ぜひじっくりと見ていきましょう。
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(33)親鸞の主著『教行信証』の執筆とその意義とは~聖人のライフワークとも言える大著!
この記事では親鸞の主著である『教行信証』とはどのようなものなのかをざっくりとお話ししていきます。
京都帰還と晩年――善鸞事件、そして最期へ
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(34)親鸞、関東から京都へ帰郷。晩年の執筆生活の始まり
親鸞の関東滞在は越後流罪生活と比べて明らかに実り多き日々だったことでしょう。
そして主著である『教行信証』も一応の完成を迎え、親鸞は自らの布教生活にほっと一息つけるところまで来たのではないでしょうか。
そんな安定した生活を送っていた親鸞でありましたが、ここで彼の人生が再び動き始めます。
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(35)真宗木辺派本山錦織寺と親鸞~親鸞が目にした天女の機織り伝説とは
長年暮らした関東を離れ京へ向かった親鸞。
そしてその京へ着く少し前、親鸞はあるお寺にしばしの間逗留します。
そのお寺こそ現真宗木辺(しんしゅうきべ)派本山錦織(きんしょく)寺になります。
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(36)親鸞の京都生活のはじまりと謎の沈黙
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【入門 現地写真で】(37)『教行信証』書写の許可と和讃制作への転換~わかりやすい布教スタイルへ 前回の記事「(37)親鸞の京都生活のはじまりと謎の沈黙」でお話し...
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善鸞ならば関東の混乱も収めてくれるだろうと期待していた親鸞でしたが、しばらくして信じられない手紙を受け取ることになります。
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(43)あとがき~私にとって親鸞聖人とは
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親鸞聖人はたしかに挫折の人です。しかしその挫折の中から『教行信証』という不滅の大著が生まれ、そのお人柄は多くの人の心の支えとなってきました。そんな親鸞聖人の魅力や、その生きた時代が少しでも伝わりましたら私としては何よりも嬉しく思う次第であります。
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