(21)「興福寺奏上」と執筆者解脱房貞慶の意外な事実とは

【入門 現地写真で見る親鸞聖人の生涯】(21)法然教団の危機⑵「興福寺奏上」と執筆者解脱房貞慶の意外な事実とは
1204年、比叡山からの訴えを「七箇条制誡」の提出でなんとか乗り切った法然教団でしたが、状況は悪化の途を辿ります。もはや法然が弟子たちに注意を促したところで一度動き出した人々のうねりはとどめられなかったのです。
そして翌1205年、南都(奈良)の興福寺が朝廷に訴状を提出します。これを「興福寺奏上」といいます。
その内容は大まかに言うと次のようなものになります。
⑴「新宗を立つる失」、天皇の許可なく新しい宗派を開いた過失
法藏館、平雅行『歴史のなかに見る親鸞』P117
⑵「新像を図する失」、不当な曼荼羅図を描いた過失
⑶「釈尊を軽んずる失」、釈迦を軽視した過失
⑷「万善を妨ぐる失」、念仏以外の善行を妨げた過失
⑸「霊神に背く失」、神々を信じない過失
⑹「浄土に暗き失」、浄土の教えを誤った過失
⑺「念仏を誤る失」、念仏の理解を誤っている過失
⑻「釈衆を損ずる失」、戒律を否定する過失
⑼「国土を乱る失」、国の平安を乱した過失
これら9つの過失を挙げて法然教団の専修念仏取り締まりを求めたのがこの「興福寺奏上」でありました。
前回の記事で見た「七箇条制誡」と比べると、より法然教団の思想や信仰形態に言及したものとなっていることがうかがえます。つまり、比叡山からの訴えでは弟子や信者の問題行動がフォーカスされていましたが、「興福寺奏上」ではそこからさらに進んで法然教団のあり方そのものにメスが加えられています。これは並大抵の人物にできることではありません。
それもそのはず、この「興福寺奏上」の起草者は興福寺の解脱房貞慶によって書かれたとされています。

解脱房貞慶は興福寺を代表する法相宗の僧侶で笠置寺での隠遁生活も有名です。1155年生まれといえばあの比叡山の天台座主慈円と同い年です。まさに黄金世代ですね。
そしてこの貞慶によって起草された「興福寺奏上」によって法然教団はさらに苦しい立場に追い込まれ、後に朝廷から弾圧されることになりました。なので貞慶は既存仏教や朝廷などの権力者と組んで法然教団を弾圧しようとした悪人であるとかつて浄土宗や浄土真宗、あるいは歴史学の世界では言われてきました。
かく言う私もこれまでずっとそう習ってきたのですが、実は近年の歴史学の研究ではそうした貞慶像が覆され始めています。私もこれには度肝を抜かれました。ここからかなりざっくりとでありますが、森新之助著『摂関院政期思想史研究』を参考にその研究成果をご紹介したいと思います。
まず、1205年に出された「興福寺奏上」が実は2通あったことが明らかになりました。しかもそれぞれ別人物、別時期に書かれたもので、それが何らかの理由で合体させられ文書として残ったのがこれまで知られていた「興福寺奏上」だったのです。つまり、私たちは本来2通あった全く別物の書状を1つの「興福寺奏上」として読んでいたことになります。
そしてその2通のうち、先に書かれた方が貞慶のもので、後に書かれたものが興福寺五師三綱(興福寺の上層部)によるものだということが明らかになりました。
ではその貞慶の甲状と五師三綱の乙状では内容が違ったのかというとまさにその通り。なんとびっくり、貞慶の甲状は法然教団を弾圧するどころか、何とか法然を守れないかと思案した内容だったのです。
つまり、法然教団を弾圧に追い込もうとしていたのは貞慶ではなく、興福寺の五師三綱の方だったのです。しかもその五師三綱の動きを察知した貞慶が先回りして書状を提出したというのですからさらに驚きです。
上で紹介した9つの過失はたしかに貞慶が書いたものです。しかし貞慶は奏上の中で、「それらを改めよ」としか述べていません。弾圧せよとは言っていないのです。あくまで法然に「弟子の統率をもっとしなさい。あなたが徳のある人間であるのは知っていますが、弟子達が現にトラブルを起こしているではありませんか。それはあなたにも原因があります。だから改めなさい」と説くのです。
これに対し五師三綱の奏上では法然に対し「日本仏教八宗を滅ぼす天魔の行いだ。専修念仏を停止させ罪過に問うべきだ」とはっきりと述べています。
興味深いことに、五師三綱は法然のことを「源空」と呼び捨てにするのでありますが、貞慶は法然を「上人」や「法然房」といったように敬意を持った呼び方をしています。この呼び方の時点で双方の立場の違いが見えますよね。貞慶は法然のことを認めているのです。しかも「上人は智者であり、仏法を誹謗する心もないだろうが、ただその門弟の実情はわからず、愚かな者が悪を行うことも少なくないだろう」とまで言っています。
もし貞慶が本気で法然を悪と見なし、弾圧したいのならばこのような言葉は出てこないでしょう。このように貞慶は法然を守ろうとしてこの奏上を書いた可能性があるのです。私もそれに同意します。
と言いますのも、貞慶のお人柄や仏道人生の歩みを見ていくと、貞慶が自分たちの既得権益のために弾圧をする人間には到底思えないものがあるからなのです。
これまでこの連載では慈円をはじめこの時代の熱心な仏教者の存在をご紹介してきましたが、やはりこの貞慶という人物も現代の私達が驚くほど仏道に真摯に生きた人でありました。
その貞慶の主著に『愚迷発心集』という書物があります。
この本もものすごいです。私も驚かされました。貞慶は自己をどこまでも凝視し、自身の心の闇を懺悔し続けます。
「悲しいかな。痛ましいかな」
この言葉は浄土真宗僧侶ならば必ず「はっ」とするものがあると思います。そうです、親鸞の悲嘆述懐です。親鸞もまさに自己の罪悪深重なることを嘆き、阿弥陀仏の救いを念じていました。まさにそうした悲痛なる懺悔を貞慶も繰り返していたのです。
他にも貞慶の誠実な仏道修行人生についてお話ししたいことが山ほどあるのですが、興味のある方はぜひ多川俊映著『貞慶『愚迷発心集』を読む』や『解脱房貞慶の世界 『観世音菩薩感応抄』を読み解く』をご一読下さい。
これらの本を読めば貞慶へのイメージが変わること間違いなしです。そして同時に、親鸞の独自性だと思われていたものが果たして彼のみのものだったのかということも考えさせられます。本書も真宗僧侶にぜひおすすめしたいです。
そして私はこの貞慶に心惹かれるあまり、彼が隠遁していた笠置寺を最近訪れました。

この写真にありますように、笠置寺には謎の磨崖仏があります。これは崖を直接彫って描いた仏像の跡なのですが、貞慶はこの弥勒磨崖仏を深く信仰していました。
私もこの弥勒磨崖仏の前に行ってみたのですが、やはりここには何か神秘的な空気があります。喧騒から離れた瞑想的な生活を好んだ貞慶の気風が伝わってくるような場所でした。


ちなみに上の写真は『貞慶『愚迷発心集』を読む』の表紙になっている絵の場所です。

かつてはこの絵のように弥勒菩薩の姿がはっきりと見えたようです。貞慶はこの弥勒菩薩に深く帰依していました。
ちなみにですが、この絵の下の建物の屋根のちょっと上に貞慶が描かれているとのこと。たしかに肌色の頭がちょっとだけ見えています。左の石塔も当時よりも小さくなっていますが何となくその面影があります。
私はこの本を読んですっかり貞慶のお人柄に惚れ込んでしまいました。そして笠置寺の空気も大好きになりました。今や京都奈良でトップクラスに好きなお寺のひとつになっています。それほどこの本に私は大きな衝撃を受けました。
というわけで貞慶のお人柄を考えてみても、彼が既得権益から法然教団を弾圧しようとしたというのは考えにくいというのが見えてくるのではないでしょうか。
もちろん、貞慶は真摯な仏教者です。その学識、修行も半端ではありません。だからこそ法然教団の問題点をここまで正確に突けるわけです。そして「それらはあなた法然の望むところではないでしょう。弟子達がしでかしていることを早く改めないと大変なことになりますよ」と知らしめるためにあの奏上を提出したのだと思われます。
そして最後に注意したいポイントですが、興福寺の上層部たる五師三綱も従来の説のように、既得権益を守るために弾圧したわけではないということです。比叡山からの訴えでもありましたように、思想問題や治安問題など様々な面が絡み合ってその奏上がなされているわけです。比叡山にしろ興福寺にせよ、自らが国の平安を守っているという自負があります。そしてそれは各宗派との融和や朝廷とのバランスによって成り立っています。そうした調和をあざ笑うかのような言説はやはり認めがたいものがあるのです。
従来のような階級闘争史観は現在の歴史学では採用されていません。「虐げられた民衆VS支配者」という単純な構図は現実には存在していないのです。もちろん、ある程度の支配被支配関係は当然ありますが、それが全てではないということです。こうした複雑な関係性が近年の歴史学で注目されています。
さて、こういうわけで「興福寺奏上」が朝廷に提出されいよいよ法然教団は追い込まれていきます。
そしてこの奏上の翌年の1206年、ついに事件が起こってしまいます。この事件がきっかけで法然教団は崩壊することになってしまいました。次の記事ではその顛末について見ていきましょう。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『法然』
中井真孝『法然絵伝を読む』
森新之助『摂関院政期思想史研究』
阿部泰郎・楠淳證編『解脱房貞慶の世界 『観世音菩薩感応抄』を読み解く』
多川俊映『貞慶『愚迷発心集』を読む』
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