(25)越後の親鸞の挫折と沈黙・・・親鸞を親鸞たらしめた越後生活とは

【入門 現地写真で見る親鸞聖人の生涯】(25)越後の親鸞の挫折と沈黙・・・親鸞を親鸞たらしめた越後生活とは
罪人として送られて来た親鸞の越後生活。
衣食住は現地の在庁官人により保証され、恵信尼とも結婚するなど、ひとまずは平穏な日々を過ごしていたと思われます。
ただ、この時期親鸞が何をしていたかは全く記録に残っていません。元々自分のことを語りたがらない親鸞ではありますが、それに輪をかけて沈黙を続けていたのがこの越後時代でもあります。
法然教団の高弟として認められていた親鸞。信行両座や信心争論など、兄弟子たちを試すほど自分の信仰に自信があった親鸞です。おそらくこの流罪先でも布教を試みたことでしょう。
しかし、現実は甘くなかった。
親鸞の説法に耳を傾ける者は少なかったのではないかと思われます。
なぜなら、この越後の地にはすでに様々な信仰が根付いていたからです。
越後国府近くにはすでに多くのお寺がありました。しかも日本海に面した越後ですから、船での往来も多かったことでしょう。なのでここは全くの未開の地なのではなく、すでに文化がある土地なのです。
さらに言えば地方に生きる人々が僧侶に願うのは病気治癒や雨乞い、虫除け、怨霊退治です。これらはすでに現地のお寺が担っていました。従来の歴史観では田舎の貧しい農民たちは文字もわからぬ未開の人々のように語られがちでしたが、文字はわからなくとも、人それぞれ信仰や文化があります。しかも農民たちは皆領主を中心に生活していましたのでひとりだけ抜け駆けして別の信仰をするということも難しいです。
それにそもそもですが、京にいた頃から親鸞の信仰は難解でした。信行両座や信心争論を思い出してみてください。当時最先端の法然教団の弟子達でも親鸞の言っていることがさっぱりわからなかったのです。親鸞の信仰はそもそも人に伝わりにくい性質のものなのです。
おそらく、親鸞はここ越後で挫折を味わっています。
たしかに親鸞は京の貴人としてもてなされ、恵信尼と結婚するほど在庁官人との関係は良好だったことでしょう。
ですが、それと布教が成功するかは別物です。
それにそもそも罪人の身ですから、在庁官人が積極的に布教の援助をすることは考えられません。そうなると自分自身が出向いて説法するしかありません。
ただ、親鸞は何を話したのでしょう。法然教団の時のように仏教に詳しい弟子達と議論するのとは訳が違います。すでに信仰がある人達に別の信仰を説くのは非常に難しいことです。しかも先程申しましたように、人々が求めるのは病気治癒や雨乞い、虫除け、怨霊退治です。こうした現実的な問題の対処が僧侶に求められた時代です。ここをクリアできなけなければ見向きもされなかったことでしょう。
となると親鸞が語る教えは全く通用しなかった可能性が高いです。
法然教団があれほど多くの人々の支持を得たのは、やはり法然のカリスマによるものが大きかったのです。しかもあの当時の京都は『方丈記』で語られたような地獄のような状況です。しかも政治も目まぐるしく移り変わり、人々の価値観が大きく揺らいだ時代でした。だからこそ革新的な法然の教えが広がる余地があったのです。
それを何の後ろ盾もない親鸞が京から遠く離れた地方でいきなり語り出してもポカンとされるのは当然です。
「念仏すれば往生できる?そんなことより今わしらを助けてくれないか」と言われるのがオチだったのではないでしょうか。それにそもそも念仏による往生はすでに日本中に広まっていました。「念仏ならもうあのお寺さんが教えて下さったぞ」と返されてもおかしくありません。そしてそれに対し親鸞が「私の言う念仏はこうこうこうで・・・」と話しても伝わらない。その繰り返しだったのではないでしょうか。
というわけで、親鸞は越後で挫折したのではないかと私は思うのです。
法然教団時代のあの尖った親鸞はどこへやら。ここでは自分自身のあり方を見直さざるをえない時を過ごしていたのではないでしょうか。
親鸞は孤独でした。法然教団には尊敬する師も、議論できる仲間たちもいました。しかし今は誰も頼ることができません。自分で解決しなければならないのです。
ですが、だからこそ親鸞の信仰は深められたのでしょう。
ここでは私の話など誰も聞いてくれない・・・。私の信念はどこにあるのか。絶対に揺るがぬ信仰を法然上人から頂いたはずではなかったか。私は一体何者なのか。何をなすべきなのか・・・。
重くのしかかる日本海の雪雲、打ち寄せる荒波、雪で閉ざされた世界。
自らの内へ内へと潜っていく思索はこうした環境で研ぎ澄まされていきます。燦燦と輝く南国の太陽の下ではこんな思索はできません。やはり暗い部屋にひとりこもり、黙々と問い続けなければならないのです。そして狂気と絶望の深淵を覗いた人間だけが偉大なる人生への一歩を踏み出すのです。親鸞はまさにその資格を持った人間でした。
後に彼の主著となる『教行信証』はまさに彼の絶望的なまでの自己内省が記されています。私はその箇所を読むたびに親鸞の狂気を感じます。親鸞は確実に「あれ」を見ています。絶望と狂気の深淵に触れた人間にしか見えない世界を親鸞は見ていたのだと私は思います。
私はそんな親鸞を思うといつもロシアの文豪ドストエフスキーを連想してしまいます。

19世紀後半に活躍したロシアの文豪ドストエフスキーもまさに若い頃政治犯としてシベリア流刑になっています。そうです、親鸞と同じく極寒の地に罪人として送られていたのです。しかもこの時の体験が『罪と罰』など後のドストエフスキーの代表作に繋がる原動力になっていたのです。ドストエフスキーもここで自身の内面を深く見つめ、人間とは何かを問い続けました。
そして驚くべきことに彼晩年の最高傑作『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老と主人公の見習い修道士アリョーシャの関係性が法然と親鸞にそっくりなのです。ゾシマがアリョーシャに語る言葉すら似ているのですから私には衝撃以外の何物でもありませんでした。
親鸞とドストエフスキー。国も時代も違う2人ですが、私はこの2人の共通点に驚かざるをえません。
世界の歴史に名を残す偉人たちの異常なまでの自己凝視・・・。
親鸞はやはり天才です。そして越後での挫折と不気味なまでの沈黙はやはり親鸞にとってなくてはならない貴重な時間だったのだと私は思います。親鸞はこうして親鸞になっていったのです。
さて、こうした親鸞の越後生活でしたがそれもやがて終わりを迎えます。
流罪から4年半以上が経った1211年末、ついに罪が許されたのです。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
「平雅行『日本中世の社会と仏教』
野口実『北条時政』
元木泰雄『河内源氏』
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』
主要参考文献一覧はこちら

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