(11)1180年、東大寺炎上…!大仏が焼け落ちる絶望から立ち上がった男たちがいた!

【入門 現地写真で見る親鸞聖人の生涯】(11)1180年、東大寺炎上…!大仏が焼け落ちる絶望から立ち上がった男たちがいた!
1180年12月28日、東大寺炎上。
平重衡による南都焼き討ちにより東大寺は大仏もろとも焼失。この事件は日本仏教史上未曽有の大災厄として人々の心に刻まれることになりました。
事の発端はやはり源平争乱です。京を拠点にしていた平家一門でしたが、その抵抗勢力たる奈良の興福寺僧兵の動きを先んじて制そうとしたのが事の始まりでした。と言いますのも興福寺は比叡山麓の園城寺と連携し、平家軍を挟み撃ちしようという計画を立てていたのです。
ですがさすがは天下の平家。さすがの諜報網でした。こうした計画をいち早く察知した平家方は「やられる前にやってしまえ」と一気に園城寺を焼き討ちにし、その勢いのまま興福寺へと向かったのです。
僧兵の武力についてはこれまでもお話ししてきましたが、興福寺も比叡山と並ぶ大勢力です。そしてそもそもですが、興福寺は藤原摂関家の氏寺(菩提寺)ということで圧倒的な力を誇っていました。その興福寺を討伐せんと平家軍は進軍したのです。
ただ、ここで皆さんも少し疑問に思われるかもしれません。「お寺に進軍というのはいかにも大げさではないか」と。
ですが、まさしくこれは進軍としか言いようのないものなのです。
「⑻白河上皇も恐れた山法師の強訴とは?親鸞在世時の比叡山の政治状況について」の記事でもお話ししましたが、すでに有力寺院には戦闘のプロが数多く入っており、寺がそのまま城塞のようになっていたのです。これは比叡山も同じでした。「宗教施設が軍事基地になるなんてどうなの?」と思われるかもしれませんがこれは古今東西世界中で見られる現象です。誰も守ってくれない世界においては自分で身を守るしかないのがこの世の残酷な真実でもあります。
さて、この城塞都市と化した興福寺一帯はまさに戦場というに相応しい様相を呈していました。そこに平家軍が進軍していったのです。
そして戦闘の火ぶたが切られたのでありますが、戦局は平氏側が優勢。やはり平氏は強い。じりじりと押し込まれ、いよいよ興福寺境内での決戦になります。ここまで押し込んだならば決着は近い。そして平家軍は興福寺の坊舎に放火を始めます。敵の拠点に火を放つのは戦の定石。これは平家軍の当初からの作戦計画だったようです。
ただ、この火が後の悲劇を引き起こすことまでは想像していなかったかもしれません。
折しもこの日は強風が吹きつけていたのです。興福寺僧兵の拠点を焼いた火は風に煽られ勢いを増していきます。そして燃え盛る焔と火の粉は風に舞い、遠く離れた寺院の屋根へと飛び移りました。そうです。興福寺の主だった伽藍がついに炎上してしまったのです。

興福寺といえば五重塔や金堂、講堂などの大建築が立ち並ぶ堂々たる境内でありますがこの延焼によりそのほとんどが焼け落ちてしまいました。しかもこの興福寺と東大寺はほとんど隣同士と言ってもよい距離にあります。興福寺を焼いた火はそのまま強風に乗って東大寺へと延びていったのでありました。
こうして大仏もろとも東大寺も焼失することになります。これが1180年の東大寺大仏炎上事件の大まかな流れになります。
『方丈記』の記事でもお話ししましたが、すでに1180年に至るまでに平安京では安元の大火、治承の辻風、福原遷都という災厄が襲ってきています。そこにこの大仏炎上事件が追い打ちをかけたのです。心の拠り所でもあった大仏までも失われた・・・。この世はもう終わりだ・・・。そんな絶望に人々は恐れおののくことになりました。
しかし、そんな絶望状況の中不思議な現象が起こることになります。なんと、ここから驚異的な復活劇が始まったのです。その鍵となったのが重源という真言宗僧侶でした。では、これからその流れを見ていくことにしましょう。
東大寺炎上の翌年から早速再建が始められることになったのですが、その大仏の再建事業を任されたのが重源(1121-1206)という真言宗僧侶でした。

重源は驚異的なエネルギー、求心力で人々から大仏復活への寄進を募りました。
元々この東大寺大仏というのは奈良時代に聖武天皇の号令で作られたものですが、日本に住む全ての人の力を結集するという理念の下建立が進められたものでした。具体的に言えば、ほんのわずかな額でも寄進することで大仏建立に関わることができますし、実際に土木建設の労働力としても人々は関わることができます。つまり、人々にとって大仏は他人事ではなく、自分自身が関わった仏様ということになります。驚くべきことに、当時の人口600~700万の内、材木の運搬だけで166万人もの動員があったという記録が残っています。まさに国民全体の事業でもあったわけです。しかも前代未聞の巨大な大仏殿も合わせて作られていたので、人々は自分たちの関わったプロジェクトに誇りを持ち、並々ならぬ思い入れもそこに生まれたことでしょう。
東大寺の大仏とはそういう存在だったのです。

しかし時代を経るにつれ、実際にそのプロジェクトに携わった人も遠い昔のことになり、いつしかそこに大仏があるのが当たり前のことになってしまいました。
そんな中、1180年に大仏が焼失してしまったのです。
失って初めてその大切さに気付くということがありますよね。こうして人々はこの大仏の復活に大きな情熱を注ぐことになったのです。
つまり、地獄のように思われた東大寺大仏の焼け落ちから、新たな信仰熱が燃え上がったのです。大仏再建を通じてひとりひとりが仏様と繋がり始めた・・・!こうして民衆ひとりひとりが地獄のような世界の中で仏様と直接繋がろうとする風潮が一気に広がり始めたのです。これは後の法然教団の発展とも大きく繋がってきます。地獄のような世界だからこそ、この世の終わりかと思われる状況だからこそ人々は仏様と繋がろうとした、これは当時の民衆の仏教を知る上でも大きな意味があると思われます。
また、重源は単に寄進を募るだけでなく、信じられないほどの統率力で大仏再建という難事業を成功させました。前回の記事でお話しした慈円もそうでしたが、この時代にはやはり圧倒的な能力を持った傑僧がいたのです。重源の圧倒的な能力、度肝を抜くエピソードについては話したいことが山ほどあるのですが長くなってしまうのでここではやめておきましょう。興味のある方はぜひ五味文彦著『大仏再建 中世民衆の熱狂』という本を読んでみてください。度肝を抜かれること間違いなしです。
そしてこの東大寺、興福寺焼き討ちにはまだまだ驚くべきエピソードがあります。
興福寺の伽藍に火が飛び移り、大切な仏像もろとも失われようとしていた時、獅子奮迅のはたらきをしていた男たちがいました。
それが運慶や快慶を生んだ奈良の仏師集団だったのです。
彼らは燃え盛る興福寺から仏像を救い出しました。彼らが命を顧みず仏像を運び出してくれたおかげで私たちはあの有名な阿修羅像やその他多くの仏像とお会いすることができているのです。
若き運慶はまさにこの焼き討ちを体験しています。平家の軍勢が押し寄せる中、彼は僧兵としてではなく仏師として命がけの闘いをしていたのです。自分たちの拠点であった奈良の寺々が目の前で焼け落ちていくその様に、彼らはどんな思いを抱いたことでしょう。
そして先にもお話ししましたように、焼き討ちから間もなく再建が急ピッチで進められていきます。運慶、快慶もこの復興事業に深く関わっています。東大寺南大門の金剛力士像もまさにその一環です。

この時の復興事業により運慶、快慶はさらに腕を磨いていくことになりました。東大寺、興福寺の貴重な伽藍は失われてしまいましたが、失われたからこそ新たなものが作られていくというのも事実。運慶、快慶の素晴らしい仏像はこうした地獄の中から生まれてきたものでもあったのです。
そして意外と知られていませんが彼ら仏師集団は僧侶でもあり、運慶は地蔵信仰を、快慶は阿弥陀仏信仰を持っていました。


彼らは単に仏像を作っていたのではなく、僧侶として深い信仰を持ちながら仏像制作に励んでいました。そしてその仏像を通して世の中を救っていくという強い信念を持っていたのです。
前回の記事までで比叡山の僧侶事情をお話ししましたが、ここ奈良においても優れた僧侶が現れ、新たなうねりが生まれていたのです。今回の記事ではご紹介できませんでしたが興福寺の解脱房貞慶はまさにこうした焼き討ちを経て自身の仏道を深めていった名僧です。この解脱房貞慶は後の法然、親鸞に決定的な影響を与える人物ですので、また改めてご紹介していきますが、ここ興福寺においても優れた僧侶が生まれていたということはぜひ強調したいと思います。
では、次の記事からいよいよ親鸞聖人(以下敬称略)の生涯に戻っていきます。親鸞は1201年に20年修行した比叡山を下りることになります。
なぜ親鸞は高度な学問が花開く比叡山を下りねばならなかったのか、なぜ当代最高の僧侶のひとりである慈円の下に行こうとしなかったのか。こうしたこともふまえながら親鸞の人生の転機となった比叡山下山について考えていきたいと思います。
続く
この記事で特に参考にした本はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
五味文彦『大仏再建 中世民衆の熱狂』
金子啓明『運慶のまなざし 宗教彫刻のかたちと霊性』
元木泰雄『平清盛と後白河院』
元木泰雄、佐伯智広、横内裕人著『京都の中世史2 平氏政権と源平争乱』
佐々木香輔『快慶作品集』
主要参考文献一覧はこちら

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