(41)親鸞最晩年の驚異的な執筆量~苦悩と共に歩み続ける親鸞

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(41)親鸞最晩年の猛烈な執筆~苦悩と共に歩み続ける親鸞
息子善鸞の義絶という耐え難い打撃を受けた親鸞。
信頼していた息子に裏切られたこと。そしてそれに気づくことができなかった自分の至らなさ。救ってあげられなかった無念・・・。
しかも親鸞の苦悩はそれだけではありません。
そもそも自分の息子にすら教えを伝えられていなかったという無力感。これは大きかったと思います。「私はこれまで何をしていたのか・・・。自分の息子ひとりにすら何もしてあげられなかったではないか・・・」
それに、関東の弟子達に対しても思うことはあったはずです。造悪無碍の徒が跋扈し、「我こそは親鸞の弟子なり」とうそぶく怪しい男たちに惑わされている弟子たち。本当に親鸞の教えを理解していたならば、そんな怪しい人間の言うことなど信じるまでもなかったはずです。
ですが、現に関東の門徒集団ではこうした様々な異説に惑わされ、教団が動揺していたのは事実なのです。だからこそ親鸞は弟子達からの手紙に丁寧に答え、確かな信仰を持つようにと切々と言葉を繰り返しています。
現存する親鸞の書簡は43通確認されています。そしてそのほとんどがこうした弟子たちの質問に答える形のものとなっています。親鸞としては関東の弟子たちの混乱は悩ましいものだったと思いますが、後世を生きる私たちにとってはこの書簡があったからこそ親鸞の思想や足跡を知ることができているわけです。
そしてさらに注目すべき点として、今井雅晴氏はこの善鸞事件の前後の時期に親鸞の著作が一気に増えている点を指摘しています。

これは以前も紹介した親鸞の著作、書写、直筆ノート類の制作点数の表になりますが、見ての通り、82歳から86歳までの間にそれが集中しています。
なんと全生涯で書いた63点の内45点、つまり7割強の著作がこの最晩年の数年で書かれたことになるのです。これは驚異的です。
では、なぜこの時期に大量の著作が書かれたかと言いますと、やはり善鸞事件があったからだろうというのが歴史学者の間でも共通見解となっています。
そして次の解説は非常に重要なポイントですので、ぜひ今井氏の言葉を聞いていきましょう。
息子さえ説得できていない自分。それに息子が関東へ行くまでは説得できていると思っていた自分。愕然とした親鸞は、自分の若いころからの信仰生活が正しかったのかどうか深刻に振り返った気配です。そして振り返る方法として、新たに執筆する・以前に執筆した書物を書き写してみる・書きながら考える、という方法をとりました。その著書・書物は、八十三歳から四年間、わかっている限り次のとおりです。なお、書写本の中で、同じ年の同名の書物は省略しました。
八十三歳 新著『尊号真像銘文』・『浄土三経往生文類』・『愚禿鈔』・『皇太子聖徳奉讃』
書写『一念多念分別事』・『浄土和讃』・『浄土門類聚鈔』
八十四歳 新著『往相回向還相回向文類』』
書写『唯信鈔文意』・『念仏者疑問』・『西方指南抄』上末・『西方指南抄』中末・『八字名
号』・『十字名号』・『六字名号』・『西方
指南抄』下本・『西方指南抄』下末
八十五歳 新著『一念多念文意』・『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』・『正像末和讃』・『如来二種回向
文』・『上宮太子御記』書写『西方指南抄』上末・『西方指南抄』上本・『西方指南抄』中本・『唯信鈔文意』・『西方
築地本願寺、今井雅晴『親鸞聖人の一生』P214
指南抄』下本・『浄土三経往生文類』・『西方指南抄』中末・『浄土門類聚鈔』・『一念多念
文意』・『如来二種回向文』
八十六歳 新著『尊号真像銘文』
書写『正像末和讃』
いかがでしょうか。このリストを見るだけでもくらくらしてきますよね。親鸞最晩年のこの4年間、親鸞は驚くべき速度で執筆を続けていたのです。
そして今井氏が指摘しますように、親鸞は「書くこと」で自らの信仰人生を振り返ろうとしている節があります。このことを前提に改めて上のリストを見て頂けますと、『西方指南抄』という書物が何度も何度も登場しているのがわかると思います。実はこの『西方指南抄』という書物は法然上人の伝記や教えが記されているものになります。つまり、親鸞はこの最晩年の人生の危機にあたり、繰り返し法然上人のことを思い返していたのだろうと推測されるのです。

親鸞にとって悩んだ時にいつも相談したくなるのはやはり生涯の師法然だったのでしょう。死してなお、親鸞の中には法然がいたのです。そしてその書物を通して親鸞は法然と対話していたのです。
それにしても、親鸞の絶望や苦悩は凄まじいものがあったことでしょう。普通ならば心が折れてもおかしくない状況です。これまでやってきたことは一体何だったのだと。自分の足元が全て崩れ落ちてしまうようなそんな虚無感にも襲われていたのではないでしょうか。
それにも関わらず親鸞は書き続けた・・・!
ここに親鸞の偉大さがあるとつくづく私は思うのです。
80代半ば、もはや人生の黄昏と言ってもよい年齢です。できることなら静かに余生を過ごしたかったことでしょう。しかし運命は親鸞にそのような安穏な生活を許しませんでした。ですが、ここにこそ親鸞が真の英雄たる理由があるのです。
英雄とは英雄たる人生を行かざるを得ない人間のことを指します。『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・ヴァルジャンはまさに誰かを救うために多くの偉大なる決断を下し、最後まで闘い続けました。あのドン・キホーテも自らの信ずる騎士道のため、英雄的な行動を取り続けます。
英雄とは何か巨大な敵を倒したり、圧倒的な業績を残した人間を指すと考えられがちですが、英雄とはそれだけではありません。たとえ大きな敵を倒さずとも、偉大な業績を残さなくとも、英雄たる人生はありうるのです。つまり、それは信念を生ききるという道です。たとえ挫折しても、失敗しても、苦しみ続けても歩み続ける。そういう英雄もいるのです。
まさに親鸞というお方は挫折の人です。苦悩の人です。歴史に名を残すような大偉業を残したお方ではありません。僧侶としての業績ならば慈円や貞慶、明恵などと比べても到底かないません。親鸞は当時無名に近い存在でした。しかしそれでもなお、親鸞の生涯は面授の弟子たちだけでなく後世の人達の心を打ち続けたのです。それはやはり親鸞がジャン・ヴァルジャンやドン・キホーテと同じく、英雄たる人生を生ききったからだと私は思うのです。
たとえどんなに絶望的な状況でも信念を持ち続け歩み続けた。ここに親鸞の偉大さがあるのです。
そう考えると、善鸞事件というのはまさに天が親鸞に背負わせた宿命だったのかもしれません。もし関東に善鸞を送っていなければ最後まで2人は仲良くいられたかもしれません。しかし運命はそれを許さなかった・・・。
ですが、この事件があったからこそ親鸞は最晩年、80代半ばというなかばありえない年齢でこれほどまでの著作を残すことになったのです。これらの著作がなければ親鸞の信仰や思想がここまで後世の人々に伝わることはなかったことでしょう。親鸞最晩年の偉業はまさに親鸞の苦悩から生まれました。このことは後世を生きる私たちにも大いに励みになる事実だと思います。苦悩や絶望はそれで終わりではないのです。そこから何かが生まれるきっかけともなりうるのです。
こうして親鸞は苦しい最晩年を執筆と思索に明け暮れることとなりました。
・・・しかし、そんな超人的な活力もついに衰え始めます。
いよいよこの伝記も終わりへと近づいてきました。
これほどの長寿を生きてきた親鸞。
その波乱万丈な人生を見て来た私たちですが、いよいよその最期を見届けなければならない時が来たのです。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
主要参考文献一覧はこちら

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