⑽比叡山を代表する傑僧慈円!親鸞が比叡山にいた頃、これほどの偉人がいた・・・!

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(10)比叡山を代表する傑僧慈円!親鸞が比叡山にいた頃、これほどの偉人がいた・・・!
前回の記事では学問や修行に熱心に打ち込んでいた比叡山のもうひとつの姿をご紹介しました。

そしてそんな比叡山の中でも圧倒的な偉人として知られているのが慈円になります。

慈円は比叡山のトップたる天台座主を四度務めた大物中の大物です。そして以前お話ししたようにこの慈円の下に親鸞は9歳で入室(出家)したという伝承が浄土真宗に伝えられています。

ただ、伝承としてはそうであったとしても、様々な事情を勘案するにおそらくこれは史実としては厳しいものがあるのではないかと思われます。詳しいことはここではこれ以上お話しできませんが、史実はどうあれ私達真宗僧侶にとっても大切な存在がこの慈円という高僧になります。
さて、この慈円ですが父は保元の乱、平治の乱での主要人物となった摂関家の棟梁藤原忠通になります。藤原忠通と言われてもなかなかピンと来ないかもしれませんが、元木泰雄著『平清盛と後白河院』や『平氏政権と源平争乱』などを読んで頂ければ彼がいかに強い勢力を持ち、波乱万丈の人生を送ったかがよくわかります。
そしてその忠通の11男として生まれたのが慈円になります。兄には法然教団を助けた九条兼実がいます。

さて、慈円に話は戻りますが彼は大貴族の11男として生まれました。しかも慈円の母は正妻ではありません。つまり元々家督を継ぐことはできない身として生を受けていたのです。ただ、前回の記事でお話ししましたように平安中期頃から大貴族の子弟が続々寺院に入り始め、要職に就くという流れが生じていました。その流れに則り慈円も比叡山でめきめき頭角を現すことになります。
ただ、ここで注意したいのは慈円が単に仕方なく仏門に入って終わりという人物ではなかったということです。彼は回峰行や厳しい修行に自ら飛び込み、熱烈に仏道修行に邁進したのです。
慈円自身は摂関家の生まれということでその摂関家の繁栄を祈るため、さらには摂関家の息がかかった子息を大寺院に置くために送り込まれました。しかし彼はそんな政治的な意図を嫌い、隠遁を望みました。兄の九条兼実に「修行に専念したいのでここから離れてひっそり生きたい」と何度も懇願さえしています。
慈円は単なる大貴族の息子ではありません。彼は真摯に、熱烈に仏道修行を求めた行者だったのです。そしてその結果生まれたのが日本最初の歴史書として名高い『愚管抄』になります。慈円はこの書で「世の道理」を見極めんとしたのです。
「世の道理」を見極め、正しく仏法や政治が行われたならばこの世は安定すると慈円は考えました。そしてそのために僧侶はより学問や修行に励み、加持祈祷や仏事を精力的に行うべきであると結論します。
慈円が天台座主にいる間はこの信念に則り、学問の振興に力を注ぎました。ただ、私があえてここで「慈円が天台座主にいる間は」と言ったのには理由があります。
実は慈円は天台座主に四度なったとはいっても、どの任期も短い期間で辞めざるをえない状況に置かれていたのです。極簡単にその顛末を言うならば、完全に朝廷の政治事情に振り回されたと言っても過言ではありません。そもそも慈円が天台座主になれたのも兄の九条兼実が摂政の地位に就けたことがきっかけでした。その兼実が政変で失脚させられてしまうと、その弟たる慈円も失脚せざるをえないという顛末だったのです。
しかも実を言ってしまうと、天台座主という地位そのものも名目上は比叡山のトップですが実際には教学面以外のことにはほとんど口出しできない存在だったのです。実際に比叡山を動かしていたのは天台座主ではなく、「衆徒」つまり比叡山内にいるあらゆる人々の集合体だったのです。もちろん、その中には貴族出身の僧侶やこれまでお話ししてきた僧兵なども入っています。
言い換えるならば、比叡山の実権は現実の経済力、武力を背景としたグループが握っていたということになります。しかもそれは一つではなく、多様なグループが各々の支援者と結びつき、群雄割拠の様相を呈していました。つまり比叡山はそもそも一枚岩なのではなく、世俗の勢力図そのままの複雑怪奇な共同体だったのです。
しかも以前の記事で見ましたように、僧兵が武力で脅しをかけたならば天台座主とて何も言えません。しかもそもそも比叡山の経営基盤を握っているのも有力な衆徒グループになります。やはり武力と経済を握った者の発言力は大きい。結局、天台座主は比叡山の名目上のトップではありますが、座主の命令で比叡山が全て動いているわけではないのです。もちろん、法要や加持祈祷などでは最も権威ある役目を任されることになりますが、山内の政治や武力抗争においては残念ながら無力な存在なのでありました。
慈円もそれを痛いほどわかっています。だからこそ彼は彼なりに仏道に打ち込み、歴史書を書き上げたのです。
どうにもならない現実の中で自分がなすべきことは何なのか、何ができるのかを追い求め続けたのがこの慈円という人の生き様だったのではないでしょうか。摂関家の子として生まれ、四度も天台座主になったというと、いかにも恵まれた境遇のように思えてしまいますが、実際は様々なしがらみに絡め取られた生涯でもあったわけです。
私はこの慈円という偉大なる僧に深い敬意を抱かずにはいれません。比叡山にはこうした偉大な人物がいたのです。そしてこの慈円がいる比叡山で親鸞は修行生活を送っていたのです。そのことを私たちも頭に入れておく必要があるのではないでしょうか。
また、慈円だけでなくそこには数多くの優れた僧侶たちもいたはずです。源平争乱を経て新時代に突入した12世紀末、志ある僧侶たちが自らの信ずる道を突き進んでいったのは偶然ではないでしょう。比叡山は決して完全に堕落していたわけではないのです。
そしてこれは比叡山だけのことではありません。時代は少し遡りますが、1180年、日本仏教史に残る世紀の大事件を経験した奈良においても事情は同じでした。
そうです。平重衡によるあの東大寺炎上事件です。東大寺の大仏が焼け落ちるという信じられない事件が起きた奈良においても優れた僧侶たちによる新たな動きが始まっていたのです。
次の記事ではそんな奈良の動きをお話ししていきます。親鸞の生涯を考える上で奈良の状況を知っておくことも実は重要なポイントになります。皆さんもご存じの有名人も出てきますので、ぜひご期待ください。
続く
この記事で特に参考にした本はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
村山修一『比叡山史 闘いと祈りの聖域』
上島享『日本中世社会の形成と王権』
下坂守『京を支配する山法師たち』
平林盛得『良源』
大隅和雄『愚管抄を読む 中世日本の歴史観』
小原仁『源信』
多賀宗隼『慈円』
主要参考文献一覧はこちら

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