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(22)法然・親鸞が流罪となった「建永の法難」とは

建永の法難
目次

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(22)法然・親鸞らが流罪となった弾圧事件「建永の法難」とは

前回の記事では1205年に奈良の興福寺から朝廷に提出された「興福寺奏上」についてお話ししました。

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(21)「興福寺奏上」と執筆者解脱房貞慶の意外な事実とは この記事では「興福寺奏上」を見ていくと同時に、この書状の執筆者とされてきた興福寺の高僧解脱房貞慶についてお話ししていきます。 従来の浄土宗や浄土真宗からは法然教団を弾圧に追い込んだ大悪人のような言われ方がされてきましたが、実は最近の歴史学の検証によりそれが間違いであった可能性が明らかになっています。

その前年の比叡山からの訴えは法然らの「七箇条制誡」によって何とか乗り切りましたが、この「興福寺奏上」は朝廷に受理されてしまいます。教団の取り締まりを求めたこの奏上が施行されれば教団も万事休す。もはやこれまでかと思いきや意外や意外。朝廷はなかなか動こうとしません。

それもそのはず、実は朝廷は法然教団の弾圧に全く乗り気でなかったのです。

まず、法然教団を取り締まるにも、明確な理由がありません。人を殺したり、謀反の疑いありなどでしたらすぐに動くことはできますが、この教団に関しては様々なトラブルを起こしてはいても、一応仏教の教えに基づいた活動をしています。その仏教の教えを禁止した場合、もしかすると仏罰(天罰)が下るかもしれません。いかに比叡山や興福寺が「これは邪法だ。悪魔の教えだ」と言ったところで仏教学者ではない貴族には最後の最後で判断ができません。なので万が一のことを考えると恐ろしくてできないのです。

また法然教団の有力な支持者である摂関家の九条兼実が陳情に走り回っていました。九条兼実の弟は比叡山の天台座主を務めていた慈円です。そのパイプを駆使して比叡山を慰撫したり、藤原氏の氏寺である興福寺をなだめたりもしていました。さらに、朝廷内にも法然に帰依していた貴族もいましたので、奏上から即弾圧という流れは食い止められていたのです。

こうして朝廷の政治を動かす政治家たちは、問題はありつつも専修念仏を取り締まる厳しい措置を講じることを控え続けたのでありました。

つまり、従来言われていましたように「興福寺奏上」が弾圧の直接的なきっかけではないのです。前回の記事でもお話ししましたが、「貞慶が奏上を起草したせいで法然教団が弾圧された」というのはこの点からも誤りであると言えます。

しかもこの後お話しする「ある事件」がなければそもそも弾圧が行われなかった可能性すらあったのです。

では、その「ある事件」とは何か。

それが法然の弟子安楽あんらく住蓮じゅうれんが起こした「密通事件」だったのです。このスキャンダルがきっかけで法然教団は弾圧され、法然、親鸞も流罪となってしまったのです。

では、この事件の流れをまずは大まかに見ていくことにしましょう。

1206年12月、後鳥羽上皇が熊野詣くまのもうでに出かけて京を留守にしていた折、上皇が寵愛していた女御たちが法然の弟子と密通したというスキャンダルが発覚します。

これに後鳥羽上皇は激怒。これまで法然教団に対して寛大な措置を取って来た上皇でしたが、それを裏切るかのような法然門下の暴挙に怒り心頭です。こうして上皇はこれまでの寛大な方針を撤回し、翌年2月上旬に安楽、住蓮、性願しょうがん善綽ぜんしゃくの4人が斬首され、同月末に法然、親鸞、行空ぎょうくう浄聞房じょうもんぼう澄西ちょうさい好学房こうがくぼうが流罪となりました。これにより事実上、法然門下は崩壊することになったのです。

これが建永の法難と呼ばれる弾圧事件です。

さて、これがこの事件の大まかな流れなのですが、この事件に関しては現在も歴史学者の間で喧々諤々の議論となっていて、今もその決着はついていません。

なぜこの弾圧が行われたのか。事件の真相はどうだったのかというのは今も闇の中なのです。この事件に関して残された資料は限られており、これから先もなかなか決着という形にはならないのではないかと思われます。何せ前代未聞の事件であり、上皇の個人的な怒りが原因でもあるこの弾圧は異例づくめです。

その中でも信頼できる原資料のひとつとしてよく挙げられるのが慈円の『愚管抄』の記述です。天台座主であり、九条兼実の弟である彼が見た事件の経過がここに綴られています。

法然上人と念仏宗

また建永年間のこと、法然房(源空)という上人があった。京の市中に住んで、近年になって念仏宗を立て、専修念仏と称して「ただ阿弥陀仏とだけ唱えるべきである。それ以外のこと、顕密の修行はするな」ということをいい出したのである。

ところがこの専修念仏の教えは、異様な、理非もわからず知恵もないような尼や入道によろこばれ、ことのほか繁盛に繁盛を重ねて、教団は急速に大きくなりはじめた。

その仲間に安楽房(中原師広なかはらもろひろ遵西じゅんさい)という者がいた。安楽房は(高階)泰経入道に仕えていた侍で入道して専修の修行僧となった者であったが、住蓮と一組になって、六時礼讃(昼夜を六つに分け、各時に仏を礼拝し懺悔する行)は善導和上(唐の浄土教家)の教えられた行法であるといって、それを布教の中心とし、尼どもの熱烈な帰依を受けるようになった。

ところが尼どもは教え以上のことをいいふらし、「専修念仏の修行者となったならば、女犯を好んでも、魚鳥を食べても、阿弥陀仏は少しもおとがめにならない。一向専修の道に入って、念仏だけを信ずるならば、かならず臨終の時に極楽に迎えに来てくださるぞ」といい、京も田舎もすべてにこのような教えがひろまっていったのである。

そうするうちに、院の小御所の女房(伊賀局いがのつぼね)や、仁和寺の御室おむろ(道助法親王)の御母(後鳥羽上皇妃。坊門局ぼうもんのつぼね)などといった人々もいっしょになってこの教えを信じ、ひそかに安楽房などという者を呼び寄せて、その教えを説かせて聞こうとしたので、安楽房の方も同輩を連れて出かけていくようになり、夜になっても僧どもをとどめておくようなことが起こったのである。

それはあれこれということばもない有様で、ついに安楽・住蓮は首を斬られたのであった。法然上人は流罪となり、京の中にいてはならぬとして追われてしまった。流罪のことも、後鳥羽上皇のしかるべき御処置があったのに、法然を支持する人々がすがって少し手心を加えられたように思われる。

講談社、慈円著、大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』P339-340

慈円から見た事件の顛末はこのようなものだったようです。

ここで重要なのが、安楽と住蓮が六時礼賛によって人気を得ていた僧侶だったということです。六時礼賛は1日を6つの時間に分け、その時間ごとに節をつけた美しい読経や念仏を繰り返す法要です。法然自身もこの六時礼賛自体は否定はしていませんが、来る者を恍惚とさせて入門させるようなやり方はやめなさいと警告していました。現代でもそうですが、見目麗しい歌手が美しい声で心に響くメロディーで歌ったならば皆恍惚となりますよね。当時は現代と違って身近に様々な音楽があるような時代ではありません。そんな時代に美しい声、美しい節回しで念仏を称えたならばそれに恍惚となった人は多かったことでしょう。しかもここで慈円が指摘するように、安楽、住蓮には女性のファンが多かったということです。それも何となく頷けますよね。

そして事件が発生します。六時礼賛は夜間にも行われますので、これに後鳥羽上皇の女御たちが参加してしまったということでしょう。しかも別資料(『法然上人行状絵図』)によればそれに感動して後鳥羽上皇の許可なく彼女たちが出家までしてしまったとのこと。

密通事件といいますと、性的な関係を持つことを連想してしまいますが、これが実際のところだったと思われます。

ただ、実際にそうであったとしても、上皇が寵愛していた女御たちが夜に僧侶と同室で過ごしただけでも大変スキャンダラスなことです。

しかも上皇の許可なく出家してしまったというのは大変な出来事です。当時は朝廷に出仕している者が出家するには天皇と院の許可が必要でしたし、妻の出家には夫の許可が必要でした。というわけで、後鳥羽上皇は二重に不義理をされたことになります。これは激怒するのも無理はありません。

こうして安楽、住蓮は逮捕され、拷問の後に斬首されることになります。

そして事件の責任者として法然は土佐に流罪となります。ただ、高齢の法然をそんな遠隔地まで流刑にするのは忍びないということで九条兼実の知行国(所領がある国)である讃岐への配流先が変更になりました。しかも流罪から1年も経たない1207年12月には恩赦がなされ、現大阪府箕面市の勝尾寺で過ごすことを許されます。(ただし京都へ入ることはまだ許されていません)こうして法然は1211年に罪を許されるまで4年程ここに滞在することになりました。

船で流罪先に護送される法然 『法然上人絵巻』 巻第三十四より

また、流罪となった者の中には慈円に引き取られた者もいます。それが幸西こうさい証空しょうくうです。彼ら二人は元々慈円と深い繋がりがあり、それで彼が責任を持って引き受けることになったのです。もし親鸞が本当に慈円の弟子として出家していたならば彼らと同じように親鸞も守ってもらえたはずです。ですがそれがない以上、やはり慈円は親鸞の出家の師匠ではなかったということになりそうです。

親鸞、流罪先に配流 沙加戸弘 『御絵伝を読み解く』 より

さて、いよいよ肝心の親鸞の話に移っていきましょう。

親鸞は越後国(現在の上越市付近)に流罪となりました。

そして僧籍をはく奪され、俗名藤井善信よしのぶという名を付けられることになります。

私はかつて親鸞の歴史を習っていた時、ふとこう思ったものです。「なぜ唐突にこの名前が出てきたのだろう」と。

皆さんもいかがでしょうか。この名前はどこから来たのか不思議ですよね。

善信は親鸞が兼ねてから名乗っていた房号から来ていますが、実は藤井は藤原氏から来ています。

と言いますのも親鸞の出身たる日野家は藤原氏から派生した一族でした。そのため藤原氏から名を取られたのです。ただ、当時の慣習では地方の下級官吏として任命されるときは高貴な名である藤原の名前は使われず、藤井に改名させられるのだそう。これと同じパターンで源氏から原、橘から立花、平から平群という改名もよくあったようです。

源平藤橘は高貴な家柄の象徴です。罪人となってしまった親鸞が藤原ではなく藤井と改名させられたのはここに理由があるのではないかとされています。

それにしても、法然教団弾圧の直接のきっかけが弟子の密通事件だったというのは何とも皮肉なものです。

法然自身、比叡山や興福寺からの訴えに何とか苦慮してしのいでいましたが、結局弟子の不品行が最後のとどめとなってしまいました。

・・・が、安楽と住蓮の死罪はあまりに重すぎるのではないかというのは正直なところです。親鸞自身も主著『教行信証』でこの厳しすぎる弾圧に強い怒りを表明しています。当時の慣習では謀反人でない限り斬首刑というのはありえないことでもあったのです。怨霊の祟りを恐れた貴族たちは罪人を死罪から一等減じて流刑にするのが普通でした。それをいきなり斬首ですからこれは異例中の異例です。しかもその罪状も謀反どころかただの密通です。

たしかに武士の間では斬首刑はよく行われていましたが、あくまでそれは武士の慣習法です。貴族とは違います。

比叡山や興福寺も専修念仏を停止せよと訴えていますが、死刑にせよとまではまず言いません。

こうした面からもこの建永の法難が謎多き事件のままなのです。

さて、こうして僧籍をはく奪され流罪となってしまった親鸞。当然、生涯の師と慕った法然とも別れなければなりません。

こうして親鸞の孤独な念仏生活が始まります。

流罪先の越後で親鸞はどのような生活をしていたのか、次の記事ではまた意外な事実を皆さんにご紹介します。

従来は罪人として農作業までして自給自足の生活をしていたとされていましたが、実は全くそんなことはなかったという驚きの事実が明らかになっているのです。

続く

この記事で特に参考にした書籍はこちら

平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『法然』
中井真孝『法然絵伝を読む』
上横手雅敬編『鎌倉時代の権力と制度』
森新之助『摂関院政期思想史研究』
慈円『愚管抄 全現代語訳』
大隅和雄『愚管抄を読む 中世日本の歴史観』

主要参考文献一覧はこちら

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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