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(18)信行両座と信心争論~若き親鸞は尖っていた!?法然教団を騒がした事件とは

信行両座
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【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(18)信行両座と信心争論~若き親鸞は尖っていた!?法然教団を騒がした事件とは

前回の記事「(17)法然教団での親鸞の充実した日々~『選択集』書写や真影制作の許可など法然から信頼される聖人について」では、尊敬する師法然の下で生き生きと研鑽に励んでいたであろう親鸞についてお話ししました。

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(17)法然教団での親鸞の充実した日々~『選択集』書写や真影制作の許可など法然から信頼される聖人に... 東山吉水にある法然教団に入門した親鸞聖人。 優秀な兄弟子がたくさんいるにも関わらずめきめきと頭角を現し、師匠法然にも認められていきます。 今回の記事ではそんな聖人の充実した日々についてお話ししていきます。

そして前回の最後で少し触れましたように、本願寺の公式伝記である『御伝鈔』にはそんな親鸞の法然教団時代のエピソードが収録されていて、これがすこぶる面白いのです。今回の記事ではそんな親鸞のエピソードを二つほど紹介していきたいと思います。

まず一つ目のエピソードは「信行両座しんぎょうりょうざ」と呼ばれるものになります。

『御伝鈔』によれば、繁盛する法然門下には380人ほどの弟子がいたそうですが、ある日親鸞は師の法然に次のように切り出します。

「私はかつて比叡山で修行をしていましたが、今ここに来てあなた様の念仏の教えを生きることができ、その喜びは言いようもありません。ですが、同室のよしみを結び、師たる法然様を仰ぐ仲間は多いといえど、彼らが本当にあなたの教えを理解しているかはわかりません。こういうわけで、仲間たちが集まっている時に、皆の考えを試してみたいのですがいかがでしょうか。」

この申し出に対し法然は、「よろしい。では明日皆が集まった折に話してみるがよい」とOKを出します。

この時点で親鸞の尖りっぷりが見えますよね。親鸞は法然門下の中でも後発組です。親鸞より先に弟子入りした兄弟子たちがたくさんいるにも関わらずこうして「彼らを試してみましょう」と法然に提案するのです。

そして翌日、皆が集まったところで親鸞はおもむろにこう切り出します。

「今日は信不退しんふたい行不退ぎょうふたいの座をご用意しました。皆様はどちらに座られますでしょうか。各々お示しください。」

突然の問いかけにほとんどの弟子達は呆気に取られてしまいます。これを読んでいる皆さんもポカン状態でしょう。

この問いをわかりやすく言い換えるとすれば、親鸞はこれで「法然様の説いた極楽往生には阿弥陀仏を信じる心が必要ですか、それとも南無阿弥陀仏の念仏が必要ですか」という二択を迫ったのです。

まだ意味がなかなかわかりませんよね。弟子達もそれは同じでした。

法然の教えは以前「(15)親鸞の生涯の師匠、法然上人~その教えとコペルニクス的転回とは」の記事でお話ししましたように、基本的には「念仏を称えれば誰でも救われる」というものです。なので上の親鸞の二択は言うまでもなく念仏が常識的な回答になります。ただ、一つ目の選択肢で出された「信じる心」が謎すぎる。弟子達も「阿弥陀仏の教えを信じているからこそ念仏するのであって、信じるだけで救われるはずがないではないか。親鸞は一体何を言っているのだ?」と困惑しきりです。

そんな中、高弟の聖覚せいかく信覚しんかくがすっと立ち上がり「私は信不退の座に着きます」と言いました。

そしてさらにこの場に遅れてやって来た熊谷直実くまがいなおざねが「これは何事ですか」と驚き、事の次第を聞くと「そうであるなら私も信不退の座に着きましょう」と迷いなく答えたのでした。この熊谷直実は『平家物語』に出てくる有名な武士です。彼は源氏方の武士として源平争乱を戦いました。そして息子と同じ年頃の若き武将平敦盛を泣く泣く討ち取った話は『平家物語』でも特に愛された名場面です。その熊谷直実が後に出家し法然の弟子となっていたのです。

さて、こうして熊谷直実も信不退の座に着きましたが、後に続く者は出ず、皆戸惑ったままでした。

そして間もなく法然自らがやって来て、こう述べたのです。

「私も信不退の座に着こう。」

この瞬間、戸惑って動けなかった弟子達は皆うつむき、ある者は苦虫を嚙むような面持ちでこの状況を目の当たりにしたのでありました。

これが「信行両座」のエピソードです。

『御絵伝』 信行両座。室内で本を読み上げているのが親鸞。遅れて到着した熊谷直実はそのすぐ右下。※沙加戸弘 『御絵伝を読み解く』 より

多くの弟子にとってはある意味屈辱に近いものもあったでしょう。兄弟子たちを試す時点でとてつもない尖りようですが、全員に見せつける形でこうもはっきりやってしまうとはなんともはやまあ、もう少し手心を加えてあげてもよいのではとすら思ってしまいます。

ただ、それにしても親鸞の言う「信不退」の意味は謎に満ちています。ですが実はこれこそ後の親鸞思想を貫く根幹となるのですが、その意味は後に改めてお話しすることにしましょう。

いずれにせよ、皆の前で恥をかかすという尖りすぎなエピソードを残した親鸞ですが、もう一つ興味深い逸話が残っています。それが次の「信心争論」というものになります。こちらも同じく『御伝鈔』に収録されています。では早速見ていきましょう。

ある日法然の目の前で高弟たちと親鸞の間で論争が起きてしまいます。その発端もまたもや兄弟子に向けた親鸞の唐突な言葉でした。

「法然上人の信心と私(親鸞)の信心は変わることない、違いはありません」親鸞はこう言ったのでありました。

これに対して高弟たちは「そんなわけがあるまい。なぜあなたはそんなことを言うのか」と反論します。

それはそうですよね。日本仏教界のスーパースターであり、誰もが慕う人格者である法然上人と、つい最近入ったばかりの親鸞の信心では比べるべくもありません。何を無礼なことを言っているのだと高弟たちはたしなめます。

そしてそれに対し親鸞はこう言ってのけるのでした。

「どうして法然上人と私の信心が同じであると言えるのか。その理由は深い知恵や博識において同じであるといえばその通り不遜でありますが、極楽往生における信心においては他力信心の教えを受けてからこのかた、私には全く私心はありません。法然上人の信心も阿弥陀仏より頂いた他力の信心です。そして私の信心も阿弥陀仏から頂いた他力の信心です。だからこそ法然上人と私の信心は同じであると申すのです。」

ものすごい切り返しですよね。やはり親鸞、大物です。

そしてこの直後、遠巻きにこのやりとりを見ていた法然が口を開きます。

「信心が人それぞれ異なるというのは、それが自力の信だからです。つまり人それぞれ知恵に深い浅いがあり、自分で考える信だからそれぞれ違いがあるのです。他力の信心は私たち愚かな凡夫のために仏様が与えて下さったものです。だから私法然の信心も親鸞の信心も変わることはないのです。そういう意味で親鸞は同じと言ったのでしょう。 よいですか。私が賢くて仏様を信じるのではないのです。信心に深い浅いを付けて区別しているようでは私の参ろうとしているお浄土にはとても行くことはできませんよ。 このことをよくよく心得なさい。」

こう言われた弟子達はまたもやがっくり気を落としたのでありました。

というのが「信心争論」の出来事になります。「信行両座」と同じくまたもや親鸞は高弟たちをこっぴどくやり込めてしまいました。そしてすかさず師法然のお墨付きを得るというお決まりのパターンです。

最初の「信行両座」は『御伝鈔』にのみ収録されている逸話ですので、これは親鸞の権威付けのために創作された物語ではないかという説もありますが、二つ目の「信心争論」はあの有名な『歎異抄』にも記録されています。『歎異抄』は弟子の唯円による親鸞からの聞き書きですので親鸞自身がこのエピソードを語った可能性があります。たしかに「信行両座」はあまりにドラマチックな話ですが、「信心争論」は妙にリアリティがありますよね。

いずれにせよ、この二つの逸話を連続で見てみると親鸞の言わんとしていることがおぼろげに見えてきたのではないでしょうか。

親鸞は人間が称える念仏よりも、信じる心を重視しています。しかも単なる信心ではなく、阿弥陀仏から賜わった他力の信心こそ最も重要であり、これが極楽往生の要なのだと言っているのです。

つまり、親鸞は人間の意思をそもそもあてにしていません。救われるかどうかは阿弥陀仏のお心を本当に頂いているかどうかなのだと親鸞は述べます。これを真宗用語で「絶対他力」と言います。そうです。文字通りすべてを絶対なる存在阿弥陀仏に委ねる境地です。

普通の人ならば自分の意思で念仏を称えて救われようとするところ、親鸞はその救われたいという意思すら不純であると考えます。もはや自分の思いや計らいを全て捨て去って阿弥陀仏にお任せする。そして自然と出てきたお念仏や信ずる心こそ真に重要なのだと説くのです。

いかがでしょうか。わかるようでさっぱりわからない?

ご安心を。今わからなくても全く問題ありません。親鸞の思想はこのわからなさのせいで後に大混乱を引き起こすことになります。親鸞はやはり特殊なお方です。彼の中には常識では考えられない論理の飛躍があるのです。

そう考えてみると、やはり親鸞という人間はこの法然教団の中でも異質な存在だったと言えるでしょう。

なので今ここで親鸞の言わんとする信心のことはわからなくても全く問題ありません。今はまず、親鸞が法然教団の中でも独特な思想を持っていたこと、そして念仏を称えることよりも信じる心が大切だと考えていたことを知って頂ければ十分です。

そしてこうした親鸞のことを法然が認めていたということ、これも見逃せません。もし親鸞のこうした思想を全く認めないとしたら『選択本願念仏集』の書写や真影の制作許可は下りなかったことでしょう。法然の説く教えの中にはこのような親鸞の思想に繋がるものがあったのもやはり事実なのです。

とはいえ、今回の記事で見てきたように親鸞は兄弟子たちをこっぴどくやり込めてしまいました。ですが、兄弟子たちが全て間違っていたかと言いますと実はそうではありません。『御伝鈔』では親鸞こそ法然の真の理解者であったように説かれていますが、法然教団の高弟たちひとりひとりが「我こそは」と感じていたはずです。そして実際に後の法然教団を担っていったのは彼ら高弟たちです。つまり彼らのことも法然は認めていたことになります。ただ、注意したいのはその高弟たちも法然亡き後結局それぞれ分派していくことになりますが・・・。

つまりこうした事実から何が導けるのか。それは法然教団には絶対的な一つの教義というものが存在しなかったということになります。そしてそれには法然自身のあり方が大きく関わっています。法然その人が多面的な人間であったため弟子達もそれぞれ多様な思想を持つようになったのです。そしてそこに教団そのものの危うさもあったのでした。

次の記事ではそんな法然の多面性や法然教団の危うさについてお話ししていきます。

続く

この記事で特に参考にした書籍はこちら

平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『法然』
中井真孝『法然絵伝を読む』
沙加戸弘 『御絵伝を読み解く』

主要参考文献一覧はこちら

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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