(37)『教行信証』書写の許可と和讃制作への転換~わかりやすい布教スタイルへ

【入門 現地写真で】(37)『教行信証』書写の許可と和讃制作への転換~わかりやすい布教スタイルへ
前回の記事「(37)親鸞の京都生活のはじまりと謎の沈黙」でお話ししましたように、親鸞は謎の沈黙を経て1235年、63歳の頃から布教活動を再開します。
しかし、再開と言っても活発な活動と言えるようなものではなかったようです。今井雅晴氏によればあくまで関東の弟子との散発的な交流で終わっていたとのことでした。
そんな中、京で新たな弟子が生まれます。それが尊蓮という人物でした。この尊蓮に1247年、親鸞75歳の時に『教行信証』の書写を許可しています。1235年から12年も月日が飛んでしまいましたが、それほど親鸞の京での活動は不明なのです。というより、目立った活動がなかったという方が正確かもしれません。もはや老境に入った親鸞にとって、精力的に活動するよりひっそりと念仏生活を送りたいという思いがあったのかもしれません。
そしてこの尊蓮という人物なのですが、私はこのお方の素性を知った時思わず声を上げてしまいました。
なんと、尊蓮はあの有能すぎる叔父日野範綱の息子だったのです。これには驚きました。
皆さんも記憶にありますよね。後白河法皇の側近にまで出世したあの範綱叔父さんです。記憶が曖昧な方はぜひ「⑵親鸞聖人の優秀すぎる叔父たちの存在①日野範綱~あの後白河法皇の側近中の側近!?」の記事をご再読ください。
その範綱叔父さんの息子日野信綱が親鸞の弟子になっていたのです。信綱自身はもう一人の有能すぎる叔父宗業の養子として朝廷で活躍していたとのこと。宗業叔父さんは後鳥羽上皇に信頼された儒学者で、公卿にまで上り詰めましたが、息子がいなかったそうです。それで信綱が養子として家督を継いだということでしょう。なんとなんと、親鸞が最晩年になっても2人の有能すぎる叔父たちは彼の人生に大きな影響を与えていたのです。
しかも話はそれで終わりでありません。この信綱の息子広綱が親鸞の末娘覚信尼と結婚し、息子覚恵を設けています。そしてこの覚恵の子、覚如が後の本願寺教団を創建していくことになるのです。
こう考えてみると、本願寺というのは最強の実務家範綱、当代随一の頭脳を持つ宗業、圧倒的宗教センスの親鸞という、まさに親鸞一族の血筋が色濃く反映されたものと言えることでしょう。これには私も驚かざるをえませんでした。
さてさて、そんな『教行信証』書写を認めた親鸞でしたが、ここから先、ある方向転換をしていくことになります。
それが和讃の制作でした。
和讃とは一般の人にもわかりやすいように、歌の形式で教えを表現したものになります。百聞は一見に如かず。そのひとつを見ていきましょう。
弥陀の名号となえつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいあり
これが和讃というものになります。現代の真宗ではこれに節を付けて歌うように拝読していきます。
親鸞はこうした一般の人々にもわかりやすく布教できる形式をここで見出したのでありました。
何せ『教行信証』は難しい!とんでもなく難解な書物です。これは一般の人々には到底理解不能な著作です。
それもそのはず、「(33)親鸞の主著『教行信証』の執筆とその意義とは~聖人のライフワークとも言える大著!」の記事でお話ししましたように、これは明恵の『摧邪輪』への回答として親鸞が執筆したものです。つまり、比叡山や興福寺をはじめとした学僧たちに向けて書いたものですので、そもそも一般の人々への布教を考えてのものではありません。親鸞は自らの仏道の核心を『教行信証』に込めて彼ら高僧たちにぶつけようとしたのです。
とはいえ、親鸞が『教行信証』を比叡山や興福寺に提出し論争を巻き起こした形跡もないことから、一概に対決のための執筆とは言えない部分もあります。あくまで誰かと闘うというより、自分自身の仏道を明らかにするという性格のものだったとも言えるかもしれません。
いずれにせよ、親鸞の仏道研究のありったけが込められた著作でありますので相当な学問がなければそもそも対応すらままなりません。
こうした大作が完成したことで自らの仏道の核たるものが出来上がった親鸞。そしてここからはいかにそれを人々にわかりやすく伝えようかという思いが芽生えたのかもしれません。
ただ、こうした親鸞ではありますが、同じ頃、遠く離れた関東ではある由々しき事態が進行していました。実は、これが親鸞を最晩年まで悩ませる大騒動へと繋がっていくのです。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
主要参考文献一覧はこちら

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