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(13)親鸞の比叡山下山と六角堂参籠~天台宗僧侶としての親鸞と千日回峰行との関係とは

目次

【入門 現地写真で見る親鸞聖人の生涯】(13)親鸞の人生を変えた比叡山下山と六角堂参籠~山を下った親鸞に何が起きたのか

1201年、親鸞聖人(以下敬称略)は20年間修行した比叡山を下りました。

例のごとく、この顛末について私たちが知ることができるのは親鸞が自らの足跡を書き残したからではありません。親鸞は本当に自分のことを書きたがらない人なのです。

では私たちはなぜ親鸞がこの年に山を下りた顛末を知ることができたのか。

その答えが親鸞の妻恵信尼えしんにになります。

龍谷大学大宮図書館所蔵「恵信尼絵像」Wikipediaより

恵信尼は夫親鸞の死後に娘に手紙を書いています。その手紙の中に若き親鸞の足跡が書かれていたのでありました。しかもこの手紙が発見されたのはなんと大正時代のこと!西本願寺の宝物庫から発見されたこのお手紙はまさに国宝級の大発見だったのです。もちろん、これ以前にも本願寺の公式伝記たる『御伝鈔』やその他の多くの伝承でも親鸞下山については書かれていたのですが、その詳細を史実として確定できたのはこの恵信尼のお手紙があったからこそなのでありました。

では早速そのお手紙の該当箇所を読んでいきましょう。

山をでて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世ごせを祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、聖徳太子のもんをむすびて、示現じげんにあずからせ給いて候いければ、やがてそのあか月、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに・・・(以下略)

東本願寺出版部、『真宗聖典』P616

親鸞は比叡山を出て平安京中心部にある六角堂に百日参籠を行いました。その理由が「後世を祈る」、つまり自らの死後について親鸞は悩んでいたということになります。そして百日参籠の95日目、聖徳太子が現れて偈文(和歌のようなもの)を親鸞に示します。この聖徳太子の示現と和歌によって親鸞は「後世の助かる道筋」を感得し、当時吉水にいた法然の下に馳せ参じることになりました。最後の「降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに」という言葉からも親鸞がいかに真剣に法然の教えを聞きに行っていたかが伝わってきますよね。

こうして親鸞は比叡山を下りて法然教団の下に弟子入りすることになったのです。

・・・とはいえ、これだけではなかなか皆さんもこの出来事についてイメージしにくいのではないかと思います。

さらっと語ってしまえばこれで解説は終わりなのですが、この六角堂参籠は親鸞の人生を決定づけた最重要事件でもあります。私個人としてもこの六角堂参籠は親鸞を考える上で最も注目すべきポイントのひとつなのではないかと考えています。

では早速この六角堂参籠についてお話ししていくのですが、まずこの六角堂そのものについて見ていくことにしましょう。

画像
六角堂(現京都市中京区、烏丸御池から徒歩数分) Wikipediaより

この地図を見て頂けますとわかりますように六角堂は現在の京都中心部にあり、繁華街の河原町からも徒歩圏内にあるお寺です。また、このお寺はいけばな発祥の地としても知られ、池坊とも深い関係のある寺院でもあります。聖徳太子創建という伝承もありますが、実際は10世紀頃にお堂として建てられたのがその始まりだとされています。

そして親鸞在世時にはこのお寺のご本尊である如意輪観音像が人々の信仰を集めていました。

六角堂『如意輪観音像』、六角堂HPより

この仏様への信仰については歴史学者今井雅晴氏の解説が非常にわかりやすいですのでご紹介します。

当時何かほんとうに困った時には、釈迦如来でもなく阿弥陀如来でもなく、観音菩薩にお願いすればよいという信仰が社会に広まっていました(小山聡子『護法童子信仰の研究』白照社出版、二〇〇三年)。(中略)

京都やその付近の人々でほんとうに困ったことがあった時、その解決をお願いに行くのは六角堂の観音菩薩だったのです。それで親鸞は、「六角堂の観音菩薩」にお願いに行ったのです。

築地本願寺、今井雅晴『親鸞聖人の一生』P29-30

親鸞が修行していた比叡山にはたくさんの仏様がおられましたし、観音菩薩様の仏像ももちろんおられました。ですが、それらの仏様ではだめだったのです。と言いますのも、六角堂の観音菩薩様は日本において特に霊験あらたかな仏様として有名で、この仏様だからこそお願いに行く価値があったのです。というわけで本当に困っていた親鸞にとってここ六角堂の観音様にお参りに行くのは自然なことだったのでありました。山から下りて六角堂にまでわざわざ親鸞が通い詰めたのは、ここに理由があったのです。

さて、親鸞がなぜこの六角堂にお参りしたのかがわかったところで、上の地図をもう一度見返してみてください。地図の右上に比叡山があるのがわかると思います。

親鸞は比叡山から95日間毎日六角堂に通っていました。そしてこの参籠なのですが、基本的には深夜から明け方にかけて行われました。神仏のお告げがある時刻は明け方です。上の恵信尼のお手紙でも「九十五日のあか月、聖徳太子のもんをむすびて、示現じげんにあずからせ給いて候いければ」という言葉がありましたよね。

というわけで親鸞は深夜から朝方にかけて毎日六角堂に通っていたわけです。

ただ、正直申しまして私はつい最近まで親鸞が本当に毎日山から下って来ていたのか信じることができていませんでした。毎日山を下っていたのではなく、実は京都市内のどこかに滞在しながら六角堂に通っていたのではないかと思っていたのです。それほど比叡山から六角堂までは距離があります。これを徒歩で毎日往復していたとは到底信じられなかったのです。

ですが『親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集[下巻】親鸞像の再構築』に収録されていた沙加戸弘氏の「『恵信御房文書』管見」という論文を読んだ時に私はハッとすることになりました。沙加戸弘氏はこの論文で次のように述べていたのです。

  又百か日 ふるにもてるにも いかなる大事にもまいりてありしに

と、天候にも左右されず、身体の調子の好悪もかまわず、また百箇日通い続けられたことを述べられる。「なぜ百箇日、百箇日なのか」という疑問には、現在まで伝えられる比叡山の回峯行が、

  初年度  百 日  七里半
  二年度  百 日  七里半
  三年度  百 日  七里半
  四年度  二百日  十 里
  五年度  二百日  十 里
   九日間の断食・断水・不眠・不臥をはさんで
  六年度  百 日  十三里
  七年度  百 日  十五里
  八年度  百 日  七里半

という課程であるのを考えれば、この形式が八百年朔れるかという議論は別にしても、恐らく聖人の御身体に、行の単位としての百日、という時間が刻まれていたのであろう、と推測できる。

筑摩書房、大谷大学真宗総合研究所著『親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集[下巻】親鸞像の再構築』P73

私はこの箇所を読んで震えました・・・!

なんと、親鸞の95日の参籠は千日回峰行の伝統と関係があった可能性があるのです!

比叡山延暦寺のケーブル比叡駅に展示されている回峰行者の写真

沙加戸氏は「むすびにかえて」で「本稿は筆者の真宗学に対する無知を言わば逆手にとって、『恵信御房文書』が、文言として、文書として、どう読めるか、どこまで読めるか、を試みたものである。」と述べています。つまり沙加戸氏は普段真宗学と関係が薄いからこそこの天台の千日回峰行との結びつきが見えたのかもしれません。これはものすごい慧眼です!やはり親鸞は比叡山の伝統の中に深く生きていたのです。

私はこの箇所を読んですぐさま千日回峰行についての本を探しました。そして出会った光永圓道著『千日回峰行を生きる』を読みそれこそ感動しました。こういう凄まじい行が比叡山では行われてきたのだと。千日回峰行の存在は知ってはいましたが、恥ずかしながら深く考えたことはありませんでした。これほど真摯な思いで仏道に励む方がおられることに私は衝撃を受けました。きっと親鸞がおられた時代もこうした行者がおられたことでしょう。以前紹介した天台座主慈円もこうした行に没頭していたことが知られています。

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いずれにせよ、親鸞が六角堂に95日間山から通ったというのはこの回峰行の伝統があったからこそかもしれません。そして100日ではなく95日で終わるというのも実はこの千日回峰行と関わってきます。千日回峰行ではその最後の百日の行を95日で終了するそうです。なぜかと言いますと、修行はこれで終了ではなく一生涯続いていくのだということを表しているからだそうです。

そう考えてみると、親鸞が95日目で観音様の示現を得ることができたというのもまさにこの回峰行の伝統と繋がっているように思えます。やはり親鸞という人物は比叡山の僧侶なのだということを改めて感じさせられます。

比叡山延暦寺の無動寺明王堂。回峰行の拠点となるお堂。

このように比叡山の歴史や千日回峰行についての本を読んだことで、私は親鸞のこうした不可能にも思える行程が実際に可能であることを知ることとなりました。

例えばですが、回峰行者は夜の2時頃に出発し、遅くとも朝の8時にはお寺に戻って日常のお勤めを果たし、夜の8時に寝て、再び夜の2時に出発するという毎日を送るのだそうです。そうです。親鸞聖人もおそらくこのような日程で比叡山と六角堂を行き来していたのでしょう。

楠淳證編著『回峰行と修験道』という本では回峰行の行者は比叡山から六角堂まで片道1時間半で行くことも可能だということが書かれていました。片道1時間半で行けるなら深夜に出発し朝に帰ってくることも可能でしょう。

こうした事実を知った私は実際に親鸞が通った道を歩いてみることにしました。

比叡山から京都側に下りてくる道を雲母坂ルートというのですが、これが親鸞が通った道になります。

ちなみにですが、この雲母坂、僧兵の記事でも出てきたのを覚えておられますでしょうか。

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比叡山から最速で京都に下りてくるにはこの道を使うのが一番。神輿を担いだ僧兵たちが一気に下って来たのもこの道なのでした。というわけでこの道は強訴坂とも呼ばれています。

この時の私の体験は「比叡山登山記(京都修学院~延暦寺)~親鸞聖人も歩いた雲母坂ルートを追体験!」で詳しくお話ししていますのでぜひそちらをご参照頂きたいのですが、大まかな私のルートとしては以下の動画を見て頂けますとわかりやすいかと思います。

私のルートは京都側から比叡山に登る雲母坂ルート(修学院駅→比叡山登山口→修学院山→ケーブル比叡駅→延暦寺東塔→無動寺)というものになります。帰りはこの逆をそのまま戻りました。アプリやネットなどで調べたところ予想所要時間は4時間ほどでしたが、私の歩くペースが速かったのか、無動寺までおよそ3時間ほどで到着することができました。

雲母坂の入り口には親鸞の石碑があります

出発時刻が7時半、ゴール時刻が13時20分頃ということで往復6時間ほどかかかりました。もちろん、途中に休憩やお参りの時間も含みますので純粋な移動時間そのものはさらに短くなりますが、やはり往復となるとかなりの時間が必要なことを実感しました。

しかも親鸞聖人は私のゴール地点である修学院駅からさらに六角堂までも歩いているわけです。

グーグルマップですとおよそ1時間半ほどかかると出てきます。つまり、親鸞は普通ならば往復3時間かかる距離をさらに歩いていたということになります。しかもそれを95日連続です。登山でへとへとだった私にはめまいがしそうな距離です。

ですが上でお話ししましたように、回峰行者ならば比叡山から六角堂まで1時間半で行けてしまうとのこと・・・。

回峰行者の方々の超人ぶりには驚くしかありません。私は晴れた天気の良い日にこうして登山したわけですが、行者は雨の日も風の日も休むことは許されません。雨で川のようになるであろうあの山道を駆け下り、登っていくなど想像もできません。

さらに言えばそもそも回峰行は夜中に行われます。小さな明かりしか持たない中でどうやって歩いているのでしょう。明るい状態ですら私は足元にかなりの注意をしなければなりませんでした。それを真夜中に行者達はほとんど走らんばかりの速度で移動していくわけです。信じられません。

何はともあれ、親鸞は回峰行者のごとく六角堂へ95日間参籠しました。こうした極限生活の中、その精神はかつてないほど研ぎ澄まされていったことでしょう。そしてその最後に観音菩薩の夢告を受けるわけです。夢のお告げと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、これはもはや見仏体験と言っても過言ではありません。一種の神秘体験です。親鸞は元々常行三昧堂の行者であります。常行三昧もそうした宗教的境地へと高められていく修行でした。

浄土真宗ではこうした修行による宗教体験を重んじない伝統がありますが、若き親鸞自身がこうした道筋を通っていたというのは見逃せない事実だと私は思います。親鸞の人生を決定づけた観音菩薩の夢告も比叡山の修行の伝統から生まれてきたものだったのです。

そしてこの決定的な体験により親鸞は比叡山を下り、法然の下へ向かうことを決めたのでありました。

では、親鸞はこの夢告によって何を悟ったのでしょうか。そして何が親鸞を法然の下へ向かわせることになったのでしょうか。次の記事ではそのことについて考えていきたいと思います。

続く

この記事で特に参考にした書籍はこちら

平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
村山修一『比叡山史 闘いと祈りの聖域』
下坂守『京を支配する山法師たち』

多賀宗隼『慈円』
大隅和雄『愚管抄を読む 中世日本の歴史観』
大谷大学真宗総合研究所著『親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集[下巻】親鸞像の再構築』
光永圓道『千日回峰行を生きる』

主要参考文献一覧はこちら

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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