(23)親鸞の越後流罪生活の始まり~親鸞はどのような生活をしていたのか

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』】(23)親鸞の越後流罪生活の始まり~親鸞はどのような生活をしていたのか
どんな苦難に襲われても不屈の精神で立ち上がり、多くの人を勇気づけ救い続ける。それが英雄たる者の定めであり、それゆえに人は彼らをヒーローとして誉め称えます。
我らが親鸞聖人(以下敬称略)も長きにわたって「偉大なる聖人」として尊敬を集め、悩める人の心の支えとなってきました。
これからいよいよ、その親鸞が英雄たる人生を歩んでいく後半生を見ていきます。
これまで見て来た親鸞の生涯は、親鸞が親鸞となるための前史とも言えましょう。幼い頃の出家、比叡山での修行、師法然との出会い、そして弾圧・・・。こうした劇的な前半生を経て親鸞は一歩を踏み出します。
親鸞は1207年2月末、越後(現上越市)へと流罪となりました。

伝承によれば親鸞は冬の雪の中、日本海に面した難所親不知子不知という地を命からがら歩き、越後へと向かったとされています。
私もこの難所と呼ばれる親不知子不知を訪れたのですが、たしかにこれは大変な道です。展望台にはこの道の解説看板がありましたのでぜひこちらを見て頂きたいです。


この道の名前の由来からしてものすごいですよね。子が波にさらわれるような難所がここ親不知子不知だったのです。

せっかくですので私もこの浜まで下りてみました。

浜には丸くて大きな石がびっしり積み重なっていて、砂浜という感じはありません。さすが日本海の荒波です。これほど大きな石でも軽々と打ち上げてしまうのでしょう。

たしかにこんなところを歩いて進むのはかなり怖いです。私が訪れた日は波が穏やかでしたが、冬の日本海の荒波がここに押し寄せていたわけです。それは命がけと言うのも納得です。
法然に連座して罪人となった親鸞。彼は罪人としてここを歩かされ、命がけで越後へと向かった・・・。
なんと英雄的・・・!やはり英雄の苦労話は心が躍りますよね。
ただ、残念なことに近年の歴史学の研究では親鸞が本当に命がけでここを歩いたのか疑問が呈されています。
なぜそうした説が提起されたかと言いますと、これには当時の罪人護送システムが大きく関わってきます。
当時は任命された朝廷の役人が流罪先まで責任を持って罪人を護送するというのが基本でした。その護送の最中に罪人に何かあっては役人の責任となってしまいます。なので護送には護衛を付けたり、安全な道を通るのが基本だったのです。そのため冬の危険な親不知子不知をわざわざルートとして選ぶのかという疑問が呈されたわけです。
私も歴史学のこの問題提起に概ね同意しているのですが、伝承は伝承として私たちの胸の中に大切にしまっておくことにしましょう。
そして越後に到着した親鸞は越後国府近くの竹之内草庵に住むことになります。

この草庵は五智国分寺境内にあり、上の写真はその草庵跡に作られた建物になります。親鸞はここで1年程暮らしたとされています。
親鸞は罪人としてこの地に送られてきました。
地方での罪人生活というと、貧しく厳しい生活を強いられるようなイメージがあるかと思います。現に、私もかつて「親鸞聖人はこの田舎で慎ましく生き、農作業までして何とか食いつないで生きた。そして文字もわからぬ素朴な人たちの虐げられた苦しい生活を知り、自身の信仰を深めていったのだ」と聞いてきました。まさに虐げられた民衆に寄り添う英雄そのものです。
しかし、これも残念ながら史実とは異なるようなのです。
歴史学者平雅行氏によれば当時の罪人の生活は「囚人預け置き慣行」という独特な制度で行われていたそうです。これは朝廷や幕府が罪人を現地の在庁官人や御家人に預けて監視をするというものでした。ここでいう在庁官人とは国衙(県庁)の役人をしている武士のことです。
なぜこのような制度が施行されていたかと言いますと、当時は朝廷も財政難で罪人の管理を全て行う余裕がなかったようなのです。そのため地方の在庁官人に任されるという仕組みになったのでありました。
そしてこうして預けられた罪人がどのような生活を送るのかといいますと、それは預り人の裁量次第だったそうです。この罪人生活の大きな例として有名なのが源頼朝です。頼朝は平治の乱の後、罪人として北条時政の下で生活していましたが、その生活は苦しいどころかかなり自由もあったようです。
元々、地方では京から来る貴人に対して篤く歓待する土壌がありました。そのため罪人とはいえ、貴人が地方に来てその面倒を見るというのは在庁官人側からしてもやぶさかではなかったのです。むしろ、その機会を利用し自分の娘と結婚させ京との強いパイプを作ることがよく見られました。
源頼朝も在庁官人北条時政の娘の政子と結婚しています。しかもこれは地方の在庁官人だけでなく、京から来た貴人にもメリットがありました。と言いますのも、現地の有力者の娘婿になることでその地の主従関係や所領を労することなく手に入れることができるのです。まさに源頼朝はこうしてのし上がっていきました。
このように、京から来た貴人は基本的にはもてなされ、大切に扱われることが多かったとされています。
親鸞も罪人とはいえ、元々は日野家という中下級貴族出身です。しかも日本中で名の知れた法然の高弟として越後に流されて来たわけです。越後の在庁官人は親鸞を丁重にもてなしたことでしょう。そのため、従来のような「貧しい農民たちと同じ生活をしていた」という説は考えにくいと言えます。
そもそも、貴族の生まれで9歳で出家した親鸞に農作業は無理です。そうしたことをする身分ではありません。「食べていくために農民たちと一緒に汗を流した」というのは史実としては難しいでしょう。
そしてさらにこの越後流罪の一か月前にちょうど叔父の日野宗業が越後権介に補任されていることも重要です。親鸞の流罪先が越後に決まった理由のひとつとしてこの叔父の存在があるのではないかとも言われています。
もちろん、当時の叔父には流罪先を決定できるほどの政治力はありませんでしたが、「叔父がそこに任じられているなら流罪先はそこでよかろう」という後鳥羽上皇や有力貴族の配慮があった可能性があります。もっとも、越後権介は現地に滞在する職ではないので、親鸞に対する直接の援助はできません。ですが現地に問い合わせて様々な便宜を図ってもらうことは可能であったことでしょう。
こうして親鸞は衣食住を保証され、静かに罪人として時を過ごしていたのではないかと思われます。
「・・・ちょっと待って!さっきまで親鸞は英雄だと言っていたのにこれでは全然英雄らしくないではないか!」
そんな声が聞こえてきそうです。
そうなのです。皆さんも薄々感じていたかもしれませんが、親鸞というお方は実は英雄らしい英雄ではないのです。
むしろ、挫折に挫折を重ね、悩みに悩んだ人生だったと言えるでしょう。
「え?それではなぜ親鸞がこんなにも有名人になれたの?」
そうなのです。ここが親鸞のすごいところなのです。親鸞は世間一般タイプの英雄ではありませんが、やはり英雄は英雄なのです。ただ、ちょっと変わった英雄と言いますか、不思議な魅力があるお方なのです。
これから先の記事ではそんな親鸞の姿を追っていくのですが、まずは次の記事で親鸞の生涯の伴侶となる恵信尼について見ていくことにしましょう。この恵信尼という方も謎多き存在で未だに歴史学的には決着がついていません。いわば親鸞史における最大の謎と言ってもよいでしょう。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
「平雅行『日本中世の社会と仏教』
野口実『北条時政』
元木泰雄『河内源氏』
桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』
主要参考文献一覧はこちら

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