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(15)親鸞の生涯の師匠、法然上人~その教えとコペルニクス的転回とは

法然
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【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(15)親鸞の生涯の師匠、法然上人~その教えとコペルニクス的転回とは

1201年、 六角堂参籠を経て親鸞は比叡山を下り、法然教団のある東山吉水ひがしやまよしみずへと向かいました。

親鸞が訪れた当時、すでに法然の下には貴賤問わず多くの人が集まっていました。 そして悩み苦しむ人が藁にもすがる思いで法然の下へやってきて、帰る頃には明るい顔をして出てくるのです。そんな光景を目の当たりにした親鸞はいかほどの衝撃を受けたことでしょう。

法然は悩める人々の声を聞き、彼らを励まし続けていました。

これまで見てきましたように、京は多くの災厄に見舞われてきました。1201年といえばそれらの危機を経てようやく落ち着いてきた頃ではありましたが、依然として悩める人々が後を絶たなかったのです。

そんな人々に「全ての人が救われる念仏の教え」を説いていたのが法然でした。その溢れ出る包容力や、 謙虚さ、そして何より、言葉で表せぬ圧倒的な存在感。親鸞は一目見て法然の偉大さに気づいたことでしょう。

そして法然自身、並々ならぬ眼光で見つめるこの若者に気づいていたはずです。事実、親鸞は後に法然の高弟となっていきます。この運命的な出会いの瞬間、法然の胸の内にも心動かされるものがあったのではないでしょうか。

さて、ここからは法然その人の生涯について見ていきましょう。

法然(1133-1212)Wikipediaより

法然は1133年美作みまさか(岡山県) にて、 荘園を管理する武士の子として生まれました。 しかし法然9歳の年に武士間の抗争で父が亡くなってしまいます。当時荘園の管理を巡っての武力衝突は珍しいことではありませんでした。 この父の死についての有名なエピソードが法然の伝記『法然上人行状絵図』に収められています。それをご紹介しましょう。致命傷を負った父が息子法然に対し次のように遺言を述べたのです。

「お前は、戦いに負けた恥を思い、敵を恨んではならない。これは前世の宿業である。もし恨みを返そうとすれば、敵討ちは世々に果てることがない。お前は出家して私の菩提を弔い、さらには自らの解脱を求めるのがよかろう」

思文閣出版、中井真孝『法然絵伝を読む』P23-24

これは普通の武士ではなかなか出てこない言葉です。普通ならば「強くなれ」と息子を励ますのが武士の生き方でもあります。それを「敵討ちをやめよ。その連鎖を断ち切れ。」と言った法然の父。こうした偉大なる父の遺言を受けて法然は仏道の道に入ったとされています。

そして父を失った法然は叔父の僧侶観覚かんがくのいるお寺に預けられることになります。

法然は幼い頃から抜群の記憶力を持っていました。そしてその才を見抜いた観覚は比叡山に入って本格的に修行することを法然に勧めます。こうして13歳の年に法然は比叡山へ入ることになったのでした。

そして18歳の年に比叡山の西側にある黒谷別所くろだにべっしょという地におられた叡空えいくうという僧に師事することになります。ここから法然は浄土教の教えに深く帰依するようになったとされています。

法然はその後も比叡山で学び続け、一切経(あらゆるお経のこと)をくまなく読破し、しかもそれを深く理解することでは敵うものがいないほどの秀才ぶりを発揮していました。しかし当の法然は自身の仏道にどうしても満足がいくことができず、悩む日々が続きます。

そして1175年、法然43歳の年についにその時がやってきます。中国の高僧善導ぜんどうが書いた『観経疏かんぎょうしょ』の「一心専念弥陀名号いっしんせんねんみだみょうごう行住坐臥ぎょうじゅうざが不問時節久近ふもんじせつくごん念念不捨者ねんねんふしゃしゃ是名正定之業ぜみょうしょうじょうしごう順彼仏願故じゅんぴぶつがんこ」という言葉を目にした瞬間、法然はハッと悟ります。「これが私の道なのだ!」と。

この言葉の大まかな意味は「一心に南無阿弥陀仏の名号を称え、歩く時も座るときも横になっている時も、念仏を捨てないこと、これを正定業しょうじょうごう(極楽往生が定まる行)と名付ける。なぜならばこれは全ての人を救わんとする阿弥陀仏の願いに順ずるからである。」ということになります。つまり、「念仏を称えることは仏様の願いにかなった正しい行いなのである」ということです。

ただ、これを読んだ皆さんはきっと疑問に思うかもしれません。「これの何がすごいことなの?」と。

私も初めてこのエピソードを聞いた時はポカンでした。ですが法然がこの言葉を目にした瞬間、彼の中では凄まじい大転換が起こったのです。まさに世界を一変させてしまうとてつもない一撃だったのです。

これを理解するには従来の念仏とはどのようなものだったかを知る必要があります。

まず、大前提として念仏とは「仏を念ずる」ことを意味します。私たちは念仏というと「南無阿弥陀仏を称える」というイメージを持ってしまいますが、実は念仏には「仏様が目の前にいるかのように心に念ずる」という意味があり、元々はこちらの方が王道だったのです。これを「観想かんそう念仏」といいます。

浄土宗や浄土真宗で大切にされている『観無量寿経』というお経は、まさに仏様の世界を「観ずる方法」が説かれています。仏教の歴史においては瞑想によって心の中に仏様を観ることこそ「念仏」であり、これぞ修行者がなすべき修行だったのです。

ですが、世の中の誰しもが修行者のように「観想念仏」をすることはできません。これは出家者のみが行える高度な修行です。では、修行者ではない人は仏様の救いに預かることはできないのでしょうか。いや、それがあるのです。それこそ私たちがよく知る念仏、つまり口で称える念仏なのです。

高度な修行ができない人は口で称えるだけで極楽往生ができる。こういう教えがそもそも仏教の歴史には存在していたのです。教科書にも出てくる有名な空也もこの教えを説き、人々の信仰を集めていました。

空也(903-972)Wikipediaより

ただ、この口で称える念仏(口称くしょう念仏)はあくまで修行の出来ない人々のためでありました。そのため、この口称念仏は「劣った者のための教え」として位置付けられていたのです。やはり仏道の王道は厳しい修行をして高い境地に至ることでありました。

これはよくよく考えてみればそうですよね。できることならば自分もよりよくなりたい。修行して徳を積み、来世にはよりよい所に生まれたい。これは誰しもが思うことでした。ですがどうしてもそれができない環境に生まれた人の最後の望みとしてこの口称念仏があったのです。だからこそ空也の教えは絶望に苦しむ下層階級の人々の心に刺さったのです。

そしてまたこれを別の視点から見るならば、「誰もが簡単に称えることができる口称念仏では満足できない」人もたくさん出てくるということです。「そんな簡単に極楽往生ができるなら誰も苦労しないよ」と、より王道の仏道修行に打ち込んでいく方向ですね。より厳しく、より深く、真摯に、熱烈に仏道に打ち込む。これこそ救われるために必要なことなのだという方向です。これが当時の仏教界の主流でした。親鸞が生きた時代の主流の仏教はまさにこの方向です。堕落どころではなく、熱心な仏教者、求道者がどんどん出てきたのがこの時代だったのです。

そして修行者だけでなく、貴族における念仏信仰を見ておくことも重要です。

その最大の例は何と言っても、平等院鳳凰堂です。

平等院鳳凰堂 Wikipediaより

藤原道長の嫡男である藤原頼通によって建立されたこの寺院はまさに極楽浄土を実現したかのような美しさです。

そして定朝によって作られた阿弥陀如来像はもはや美の極致と言っても過言ではありません。

定朝作の『阿弥陀如来像』Wikipediaより

この仏像のあまりの美しさに、当時の仏師たちはこぞってこの仏像の研究に明け暮れたようです。まさに美の極致としてこの仏像は崇拝され、この仏像の寸法通りの縮尺で仏像を作るのが当時の定番となったほどでした。

ちなみに、この仏像が作られた100年以上も後、運慶快慶はこの仏像を超えるべく新たな彫刻スタイルを模索し、それぞれ大成していくことになります。それほどこの仏像は完璧な存在だったのです。後の仏像彫刻史を考える上でも記念碑的な存在となったのがこの阿弥陀如来像だったのでした。

このように、貴族たちの浄土信仰は豪華絢爛な美の世界と共にありました。これは財力と教養のある貴族だからこそできる信仰です。貴族は現実世界に浄土を再現し、そこで浄土の世界と繋がろうとしたのでありました。

また、この時代には臨終行儀というものも非常に重要視されていました。臨終行儀とは文字通り、死の瞬間の作法のことです。これをしっかりすることで死と共に極楽浄土から仏様のお迎えが来ると考えられていました。

『法然上人絵伝』 巻第八 『法然と極楽浄土』 P73より

その中でも特に重要視されていたもののひとつに、仏像の指と自分の指を五色の糸で繋いで臨終を迎えるというものがありました。上の絵の仏様の指先から出ているものがまさにその糸です。こうして仏様と繋がりながら命を終えることで速やかに極楽浄土へ行くことができると考えられていたのです。

当時の人々にとって死後の世界はあまりにリアルな存在でした。このあまりに現実的な死後の世界があるからこそ当時の人々は真剣に死後のことを悩んだのです。現代人たる私達がこれを迷信と切り捨てるのは簡単なことです。ですが、当時の人々がどのような世界観に生き、どのように人生と向き合っていたかに思いを馳せることは私達にとっても決して無駄ではありません。いや、むしろそこにこそ私達が失ってしまった大事なものがあるのではないかと私は思うのです。

そしてこの臨終行儀に際して、仏様がどのようにお迎えに来てくれるのかを知ることも当時の世界観を知る上で大いに役に立ちます。

金戒光明寺 『山越阿弥陀図』、『法然と極楽浄土』 P169より

それがこちらの「山越阿弥陀」という屏風絵になります。極楽浄土は私達の住む世界のはるか西にあるとされています。その遥か彼方の西方極楽浄土から阿弥陀仏と菩薩様がお迎えに来て下さる。その様子を描いたのがこちらの屏風絵になります。

山の向こう側から姿を現す仏様。その巨大な姿はかなりインパクトがありますよね。西は日が沈む方角です。山の向こうに夕日が沈んでいくその黄昏時の景色と重ねられているのかもしれません。

浄土信仰はこうした西の夕日と大きなつながりがあります。私達も沈みゆく夕日を見ていると、ふと感傷的な気持ちになる時がありますよね。浄土信仰では人生の黄昏、命の故郷をそこに重ね合わせるのです。

さて、このように念仏信仰はあくまで出家者の観想念仏とそれを支える貴族たちがあくまで主流でした。高度な修行ができる修行者と、寺院や仏像を建立できる貴族たち。彼らが仏道の主流だったのです。もちろん、だからといって庶民に信仰が何もなかったというわけではありません。修行者や貴族達と同じように神仏を信仰していました。ですが、彼ら庶民は高度な修行も財力も教養もありません。そのためやはり、彼らは「劣った存在」として救済に預かるしかないというのが実際の所だったのです。

さて、こうした念仏の伝統が法然が比叡山にいた頃からあったわけですがいよいよ本筋に突入します。

先程もお話ししましたように、法然は「一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」という言葉を見た瞬間、まさに雷に打たれたかのようなインスピレーションを受けることになります。

法然は比叡山の中で伝統的な浄土教の教え(念仏信仰)をこれまで学んできました。それこそ何度となく一切経に目を通し、善導のこの言葉も何度も読んでいたはずです。ですが43歳になった今、ついに機は熟しました。法然はコペルニクス的転回をこの瞬間体験したのです。

ここで法然の中で起きた閃きは以下の一言に尽きます。

「口称念仏は劣った者のための教えではなく、全ての人を救う教えだったのだ!」

法然は悟ります。これまで劣った者のための教えとみなされていた口称念仏こそ、この世において全ての人が救われる最高の教えだったのだと。阿弥陀仏はこの地獄のような世の中で、誰でも称えられる念仏を私たちに与えて下さった。それは修行のできるできないの区別を超えて、誰しもに届く救いであったのだと。

すべての人間が平等に救われる道がある・・・!

法然はこの体験をきっかけに比叡山を下り、京の郊外の吉水に草庵を構え独自の念仏生活に入ることになります。そしてその存在は徐々に人に知られることになり、その草庵に様々な人々が集まってくるようになりました。これが法然の吉水教団の始まりになります。

京都東山、吉水草庵(現安養寺)
吉水草庵(現安養寺)本堂

ただ、法然の存在が日本津々浦々に轟くにはまだまだ時間が必要でした。1175年に人生を変える体験をした法然でしたが1180年代中頃まではほとんど歴史の表舞台には出ず、自身の仏道を深める生活だったと思われます。

ここが親鸞とも似ているのですが、強烈な神秘体験をした直後でもそれを盲信せずに、お経と照らし合わせたり、じっくり時間をかけて次に進もうとするのです。親鸞も六角堂での夢告の後、法然の下にさらに百日通いました。親鸞が六角堂に籠ったのはおそらく法然の下へ行くべきかどうかで悩んでいたからでしょう。そしてその悩みが晴れ、法然の下へ行ったとしても今度は本当にそれでよいのかと吟味し続けるのです。

中世の世界では目に見えない世界や神仏の存在がリアルなものとして受け止められていました。ですが、「それを闇雲に信じてしまっては逆に迷いの元となる」という合理的な考えを持っていたのも中世人なのです。自分の中に起きた体験をどう受け止めるか、それが仏教者には特に大切にされていたのです。禅宗では「仏に会えば仏を殺せ」という有名な教えがありますが、これもまさにそうです。神秘主義に流れすぎては本質を見失ってしまう。だからこそ経典に照らし合わせて理論として成立しているのかをじっくり吟味する必要があるのです。

こうした吟味の時間を親鸞も法然も大切にしていたのでしょう、

二人とも信じられないほど頭の良いお方です。経典で説かれる知識はすでに頭の中にあったことでしょう。しかし信仰においてはそれだけでは決定的に足りないのです。それを打破する決定的な体験が必要なのです。そしてその体験の下で経典の言葉が新たな意味を帯びて響いてくるのです。それが親鸞の夢告であり、法然の善導の文との出会いだったのでした。

私はこれまで、親鸞にせよ法然にせよ、なぜこれほどまでに阿弥陀仏を信じることができるのだろうと不思議に思っていました。なにせ従来の念仏とは全く異なる新しい教えです。これは後に弾圧されてしまうほど革新的な考え方でした。普通ならばそんなことは思いつきもしないはずなのに、なぜこれほどまでに堂々と信じていられたのか。これは机の上でお経を読んであれこれ思案しても決して得られないものだと思います。やはり二人には決定的な体験があったからこそここまで信じることができたのでしょう。そして経典に立ち返り、さらに確信を深めていったのではないでしょうか。

次の記事ではそんな法然の独自性についてさらに深く考えていきます。法然の教えを一言で表すならば「専修念仏」ということになります。この専修念仏がいかに独創的だったかを見ていきながら、法然が一躍有名になった大原談義という出来事について見ていきたいと思います。法然教団の繁栄のきっかけがまさにここにあります。

続く

この記事で特に参考にした書籍はこちら

平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『法然』
中井真孝『法然絵伝を読む』
上島享『日本中世社会の形成と王権』
平雅行『日本中世の社会と仏教』

大隅和雄『愚管抄を読む 中世日本の歴史観』
石井義長『空也』
内田啓一監修『浄土の美術』

主要参考文献一覧はこちら

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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