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(16)法然が有名になるきっかけとなった大原問答と法然の独創性とは

大原問答
目次

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(16)法然が有名になるきっかけとなった大原問答と法然の独創性とは

前回の記事で親鸞の生涯の師となる法然上人についてお話ししました。

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ここからは法然の独自性についてさらに深く考えていきましょう。

1175年、43歳で善導の文と出会い、コペルニクス的転回を経験した法然。

ただ、前回の記事で申しましたように、法然はその直後から教団を立ち上げたわけではありません。法然が有名になったのは1186年の大原問答という出来事がきっかけでした。今回の記事ではその大原問答とはどのようなものだったかを見ていくことにしましょう。

さて、吉水でひっそりと生活していた法然ですが、彼の教えは京で徐々に話題になり、多くの人が集まるようになっていました。そしてそれはもはや京の仏教界でも無視できないものになっていきました。そこで比叡山の高僧顕真は1186年に法然を大原に招き、京内外の高僧を集めて論議会を開くことにしたのです。これが有名な大原問答という出来事になります。

大原問答『法然上人絵伝』巻第十四 『特別展 法然と極楽浄土』P56より

この論議会にはあの東大寺大仏の再建に大活躍した重源も参加していたようです。また、後に法然と対決することになる興福寺の解脱房貞慶もいたとされています。他にも各有力寺院のそうそうたる顔ぶれが勢ぞろいしていたようです。それだけ法然の念仏説に関心が集まっていたのです。

前回の記事でもお話ししましたように、法然の念仏はまさに従来の常識を覆す革新的なものでした。

「修行もできぬ劣った者のための念仏」から「全ての人を救う念仏」へ。

これが法然の念仏説の根幹です。

ですが、これは当然ながら従来の仏教観と真っ向からぶつかることになります。修行とは本来段階的に高い境地に至るためのものであり、口で念仏を称えるだけで極楽往生できるならば誰も苦労しないということになります。

そしてもうひとつ関わってくる論点として、日本仏教の大きな特徴として八宗兼学という考え方があります。これは日本仏教の八つの宗派(倶舎宗、成実宗、律宗、法相宗、三論宗、華厳宗、天台宗、真言宗)がそれぞれ融和的に存在し、互いに学び合う関係性であるという考え方です。さらに言えば、それぞれの宗派にはそれぞれの特徴や修行がありますが、そのどれかひとつが唯一絶対の道というのではなく、人それぞれの縁によってどの宗派、仏様の救いに預かるかが決まるという考え方になります。薬師如来に縁ある人は薬師如来に、地蔵菩薩に縁ある人は地蔵菩薩に、阿弥陀仏に縁ある人は阿弥陀仏にといった具合ですね。こうして人々はそれぞれ身近な仏様、あるいは神様と暮らしてきたわけです。

しかし法然はそれをすべてひっくり返してしまったのです。

何をどうひっくり返したかはこれからお話ししていきますが、これを「専修念仏せんじゅねんぶつ説」と言います。これが問題となってしまったのでした。大原問答でもこれが議題になったとされています。

具体的に法然の主張を追っていくことにしましょう。

法然はまず、現在はすでに末法まっぽうであると主張します。

皆さんは末法思想という言葉を聞いたことがありますでしょうか。

この思想は時が経つにつれ正しい教えが衰えていくという考え方が基になっています。

仏教の開祖たるブッダが生きておられた時代がまず最高の時代です。そしてその死後の500年は正しい教えと戒律は守られ、悟りに至る僧侶がいますが、次の500年では正しい教えはあったとしても悟りに至る人がいないという状況になってしまいます。そしてさらにそれを過ぎてしまうといよいよ末法、つまり教えも廃れ、戒律を守る僧侶すらいなくなり、悟ることは完全に不可能という時代になってしまうという考え方です。いわゆる「世も末」、救いなき最悪の時代ということになります。

この末法時代に日本も1052年に突入したと当時考えられていました。

実際、この時代から摂関政治も陰りを見せ、京だけでなく地方でも政治的混乱は増していきました。さらにとどめは『方丈記』で説かれたような災厄の連続です。人々が「世も末」だと思うのは無理もありません。

そしてこの末法思想の重要なポイントは、もはやいくら修行をしようと悟りを得ることができない時代だということです。これを法然は強調するのです。

従来の仏教観ではより厳しい修行をし、深い学識ある僧侶こそ悟りに近い存在だと考えていました。しかし法然の見解からすると、たとえいかに修行しようと我々人間にはもはや救いはありえないということになります。

では、そんな救いのない時代に私たちはどうすればよいのか。それが念仏だと法然は述べるのです。

つまり、「末法に生きる私たちは皆等しく愚かな人間である。その愚かな人間のために阿弥陀仏は念仏という行を私たちに与えて下さった。そしてこの念仏こそ阿弥陀仏が選んだ唯一の往生行なのである。」と宣言したのです。

この「阿弥陀仏が選び取った唯一の行」というのが法然思想の肝になります。普通ならば私たち人間の側がそれぞれの縁に基づいて何を修行するのかを選ぶのです。ですが法然はそれを逆転し、主体を阿弥陀仏に転換したのです。つまり、阿弥陀仏が我々のために念仏を選び取って下さったのだと考えるのです。ここに法然の独創性がありました。

「末法に生きる私たちは何をしようと救われない。そんな悲しき我らを平等に救う仏様がおられる。その仏様があらゆる行の中から選んで下さったのが念仏なのである。ならば我々もその仏様に全てを委ねようではないか」、これが法然の専修念仏です。

ただ、これには問題もありました。先にも述べましたが、当時の仏教の主流は八宗兼学ということで、それぞれの宗派が融和して存在していました。しかし法然はそれを「念仏だけが唯一の救いである」と根本から否定してしまったのです。これには他宗派の僧侶も黙っていません。当然ですよね。法然の言葉に従えば、熱心に修行している僧侶も何もしていない人間も同じ愚かな人間だということになります。しかもそうした修行者のしている行いは無駄であり、ただ念仏している人の方が救われるというのですから到底受け入れられるものではありません。

また、そもそも当時の仏教界においては末法に入ったとしても、だからこそ熱心に仏道に励むべきであるという考え方が主流でした。法然のように、末法ということで仏教諸派の教えが完全に廃れたというようには考えていなのです。

このことについて、比叡山のトップたる慈円が『愚管抄』で次のように述べているのは非常に重要です。

阿弥陀仏の教えのみがひろまり、それによって得られる救いのみが増していくということが真実であるような世には、本当に阿弥陀仏の救いで罪障が消えて極楽へ行く人もあるであろう。しかし、そのような世にはまだなっておらず、真言と天台の教えが盛りであるべき時に、悪魔の教えに従って救いを得ることのできる人は決してありえない。悲しむべきことである。

講談社、慈円著、大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』P340

なんと、比叡山のトップであり当時最高の学僧のひとりでもあった慈円が「しかし、そのような世にはまだなっておらず、真言と天台の教えが盛りであるべき時に、悪魔の教えに従って救いを得ることのできる人は決してありえない。」と述べているのです。つまり、まだ阿弥陀仏の選択念仏が適用される時代ではないと言っているのです!

これは決定的です。つまり法然と仏教諸派ではそもそも世界観、時代観が全く異なっているのです。一応は1052年に末法に入ったとはされていますが、従来の仏教は当時よりも明らかに栄えているというのが慈円の認識でした。それもそのはず、これまでお話ししてきましたように、比叡山や興福寺では仏教がさらに進歩し、高度な学問や優秀な僧侶が出ていたのです。そして国家安寧の加持祈祷もより重要な意味を持っていました。そんな仏教側からすると法然の思想は全く理解が不能なのです。

特に以下の絵を見てみてください。

『特別展 法然と極楽浄土』P151より

こちらは新知恩院の『阿弥陀二十五菩薩来迎図』という絵なのですが、いかがでしょう。ものすごく楽しそうですよね。「念仏を称えれば誰でも臨終に仏様と菩薩様が迎えに来て下さる。だから安心して生きよ」と説く法然の教えをさらに強調して描いているのがこの絵でもあります。

私もこの絵を初めて見た時衝撃を受けました。画面下部の菩薩たちの躍動感たるや!私は勝手にダンシング菩薩様とお呼びしているのですが、いかにも明るい雰囲気ですよね。

これは明らかに従来の観想念仏や貴族の臨終行儀と異なります。彼らの念仏にはやはり教養と言いますか、どこか静かで知性的な香りがあります。

それがこの絵になるとどうでしょう。いかにも明るく、ユートピア的な傾向が生まれています。法然の教えによって全ての人に念仏の救済が説かれたことで、こうした民衆的、祝祭的な感覚が生じていったのではないかと思われます。

これはやはり従来の「真摯で真面目な」仏教者からすると眉をひそめたくなるのもわからなくもありません。もちろん、この絵自体の芸術性は素晴らしいものがあり、この絵に込められた信仰を私は否定しているのではありませんが、慈円の言葉はそうした立場から出ているのです。

こういうわけでこの大原問答は法然の専修念仏に対する問題が主題となっていくのですが、結果としては双方譲らず平行線で終了します。ただ、法然の深い学識、理路整然とした語りに多くの僧が感銘を受けたのは事実なようです。その中でも重源は特に法然に理解を示し、後に彼を講師として東大寺に招き講義を依頼したほどでした。重源自身、元々真言密教の阿弥陀仏信仰を持っていたので親近感を抱いたのでしょう(少し込み入った話になるのでこれ以上はお話ししませんが、阿弥陀仏信仰にも色々あり、同じ阿弥陀仏を信仰するといっても天台浄土教の阿弥陀信仰と真言密教の阿弥陀信仰ではその内容が大きく異なります)。

いずれにせよ、この大原問答で法然の名は一躍日本中に広まることになりました。「知恵第一の法然房」と称えられ、国中随一の仏教者として名を馳せることになります。そしてこの3年後には摂政の九条兼実が自邸に法然を招き、いよいよ法然の名声が高まることになります。この頃から法然教団には優秀な弟子が集まり始めました。

そうです。親鸞もその一人です。親鸞は1201年の入門ですので、弟子達の中では後発組ではありますが彼はめきめき頭角を現すことになります。

次の記事ではそんな親鸞の充実した教団生活についてお話ししていきましょう。

続く

この記事で特に参考にした書籍はこちら

平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
平雅行『法然』
中井真孝『法然絵伝を読む』
上島享『日本中世社会の形成と王権』
平雅行『日本中世の社会と仏教』

大隅和雄『愚管抄を読む 中世日本の歴史観』
慈円『愚管抄 全現代語訳』
内田啓一監修『浄土の美術』

主要参考文献一覧はこちら

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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