(26)非僧非俗「愚禿釈親鸞」の名乗りはなぜ行われたのだろうか

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯』】(26)親鸞の罪人生活の終わり~非僧非俗「愚禿釈親鸞」の名乗り
1211年11月17日、流罪から4年半以上経ったこの日、親鸞は朝廷から正式に許されることになりました。これで晴れて親鸞は自由の身です。
さらに流罪によって僧侶の資格をはく奪されていた親鸞でありましたが、この赦免により再び公的な僧侶としての身分を回復することも可能になりました。
しかし親鸞はなぜかこの僧籍を回復しようとしません。
せっかく罪が許されたのにどうして身分を回復しようとしなかったのでしょうか。
実はここに親鸞の生涯を懸けた覚悟があったのです。
親鸞はあの弾圧事件を通して自分にとっての仏道とは何かを深く考えさせられたことでしょう。そして越後での生活を経てますますその思索は深められていきました。
そんな親鸞が行きついたのが「非僧非俗」というあり方だったのです。
これは文字通り、「僧侶にもあらず、俗人にもあらず」という意味です。
公的な僧侶の道を捨て、かといって俗人に還るのでもない、もう一つの道を親鸞は生きようとしたのです。それが念仏者の道です。
そして親鸞は自らをこう名乗るようになります。
「愚禿釈親鸞」と。
「禿」の字は「かむろ」という意味でおかっぱ頭を指します。公式の僧侶は髪を剃るのが掟です。しかし「僧にあらず」と宣言した親鸞にとって髪はむしろ自らの存在証明にもなっていきます。服装は僧侶ですが頭には髪がある。これが親鸞のスタイルになります。
皆さんは葬儀などで髪がある僧侶を見て不思議に思ったことはありませんでしょうか。実は現代の浄土真宗僧侶に髪があるのはこの親鸞のスタイルがあったからこそなのです。
ただ、親鸞の肖像画や彫刻ではそのほとんどが頭を剃ったお姿です。これはどう捉えればよいのでしょう。

おそらく、親鸞は年を経てもはや髪型を気にしなくなったのではないでしょうか。「髪型をどうするかで仏道人生が決まるわけではない。それこそ我が計らいに過ぎないのではないか」、そんな思いを抱いたのかもしれません。そうなると長年親しんできた坊主頭の方がしっくり来たのかもしれません。
これは本人に聞かないとわからないので真相は闇の中ですが、この越後流罪終盤からしばらくは髪があったというのは確実だと思われます。
それにしても「愚かなおかっぱ頭の親鸞」というのはものすごい名乗りですよね。公的な僧侶としての身分や名誉を捨て「愚禿釈親鸞」と名乗っていく。ここに親鸞の覚悟や仏道観がはっきりと見えてきます。そしてこの「愚かな」というのが親鸞の思想を考える上でポイントとなってきます。これについては後の改めてお話ししていくことにしましょう。
さて、何はともあれ親鸞は罪を許され、自由の身となりました。
そして同じタイミングで師の法然も赦免となっています。
法然はこれまで現大阪府の勝尾寺に留め置かれておりましたが、この釈免により京に帰られます。
ようやく罪が許され自由となった親鸞です。離れ離れになっていた法然に真っ先に会いに行くかと思いきや意外や意外。親鸞は越後から動いた形跡がありません。
しかもそうこうしている内に当時78歳というご高齢であった法然は翌1月25日に亡くなってしまいます。こうして親鸞は法然と再会することなく、今生の別れとなってしまったのでした。
次の記事では罪を許された親鸞が尊敬する師の下になぜ馳せ参じなかったのかという謎について見ていきましょう。
続く
この記事で特に参考にした書籍はこちら
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』
主要参考文献一覧はこちら

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